令和4年5月6日(金)主催講座1『石狩遺産を知ろう』の第2回「石狩遺産第1期11件の紹介」を石狩市花川北コミュニティセンターで行いました。今回の講師は石狩遺産プロジェクトM会長の安田秀司さん、受講者は41名でした。
安田さんは市民カレッジ情報紙「あい風通信」のコラム「チョコっといしかり学」に8回連載で石狩遺産の紹介記事を書かれていますが、講座の冒頭に「石狩遺産を知ることは地元の『へえー』を楽しむこと」と話され、講座に入られました。以下にその概要を紹介致します。
1.「石狩遺産」の冊子について
・今回、受講者に冊子「石狩遺産」を配布したが、それができるまでの経緯について最初に話したい。
・プロジェクトMは、2013年11月に「いしかり砂丘の風資料館」主催のワークショップ「まちの魅力を見つけ出せ!」から始まった。
・エコミュージアム(地域まるごと博物館)の理念のもと、石狩の未来に残すべき価値の発掘作業を進める中、「石狩遺産」の認定に作業は収束していった。
・2016年11月に最初のシンポジウムを開催し、「石狩遺産」3件(001〜003号)を認定し、翌年にその紹介マップを制作した。
・2016年12月に「石狩遺産プロジェクトM」という市民グループが正式に発足した。
・2017年11月の2回目シンポジウムで「石狩遺産」3件(004〜006号)、2018年11月の3回目シンポジウムで2件(007〜008号)を認定し、それぞれ紹介パンフレットを制作した。
・2019年11月の4回目シンポジウムで3件(009〜011号)を認定、合計11件の石狩遺産を認定した。
・2020年5月に16ページの冊子「石狩遺産(第1期認定11件)」1,000部を制作した。印刷は会員個々人の何年分かの会費を集めて行った。冊子の表紙を下に示すが、認定した年毎に代表的な資産の写真を並べた。
2.「石狩遺産」の構成について
・「第1期認定11件」としたが、石狩遺産は他にも多くあり今はまだ道半ばであって今後も石狩市全域の価値あるものを明らかにしたいという思いで、第1期とした。
・「石狩遺産」の目的は石狩市のまちづくりである。市民が地元の価値を知ることで地元への誇りを持ち、子供達の郷土愛を育むことができる。また、高齢化社会を見据え、地元の価値を知るもの同士が誇りを持ってつながり、地元でいきいき活動できる石狩市にしたい。
・「石狩遺産」はあるテーマでいくつかの構成遺産をグループ化し、ストーリーで関連づけた。一つのテーマで関連遺産をグループで括ることによって全体が理解しやすくなり、地味な資産にも光が当たり、格段に面白くなる。
・「石狩遺産」の認定は、市民が推薦したものをシンポジウムで紹介し、議論して決定している。
3.各遺産の紹介
11件の石狩遺産をマップに示すと図のようになる。
①石狩遺産001号 石狩川河口地域における鮭漁の歴史遺産群
・この遺産は「かつて石狩川は全国一鮭が獲れて、そのために石狩の街は発展した」ということを知る遺産である。
・最近の鮭の漁獲量は年約1,000トン(33万尾)であるが、江戸時代の宝暦年間は185万尾獲れ、全道の3分の1を占めていた。石狩産の鮭は弁財船によって本州に運ばれ、江戸での贈答品として定着していた。明治半ばまで年間100万尾前後が獲れ、当時の石狩の人口600人に対して鮭漁の出稼人は2,000人にも達していた。鮭の町、石狩の名は広く知られ、石狩は北海道における商業、文化の先進地となっていた。
・考古学的には4,000年前(縄文時代中期後半)の石狩川河口域の川筋で鮭漁に関する出土品が発見された。石狩紅葉山49号遺跡では、木製の漁労施設や器などの道具(柵、タモ、魚たたき棒、松明、容器類、石斧柄、横槌、櫂など;石狩市指定文化財、いしかり砂丘の風資料館所蔵)が多数出土した。
<構成資産>「石狩紅葉山49号遺跡出土の木製品」「石狩弁天社」「石狩八幡神社の石鳥居」「開拓使石狩缶詰所跡」「旧長野商店」「石狩鍋」など30点
②石狩遺産002号 紅葉山砂丘〜6000年前の海辺から陸地への変化と人の関わり
・6,000年前の海岸線の痕跡を発見して楽しむ遺産である。
・紅葉山砂丘は、海浜植物の群生する石狩湾の海岸から約5km内陸、海岸線と平行に長さ約15km、幅500m〜1kmの細長い砂丘である(下図の黄色の部分)。
・およそ6,000年前の縄文海進期、石狩平野は札幌市の中心部まで浅い海に覆われていて、その名残として今でも容易に見ることができる数少ない痕跡が紅葉山砂丘である。
・紅葉山砂丘上には、石狩紅葉山49号遺跡、石狩紅葉山33号遺跡など、縄文時代前期から続縄文時代、擦文時代の遺跡が多数発見されている。
<構成資産>「紅葉山」「屯田墓地」「石狩紅葉山49号遺跡」「石狩紅葉山33号遺跡」「花川南防風林内の砂丘地形」など9点
③石狩遺産003号 ニシン文化を伝える厚田本村
・この遺産は厚田本村に残るニシン漁で大繁盛した名残を味わう遺産である。
・厚田本村は、江戸後期から始まるニシン漁を基盤とした産業により形成された市街地で、最盛期には人口約1万人に達していた。現在は800人程度の人口に減少したが、華やかなりし時代の建物がいくつか現存し、ニシン漁最盛期の雰囲気を肌で感じることができる。
・正眼寺には厚田出身で、北海道を代表する漁業家であった佐藤松太郎の豪壮な墓碑がある。
<構成資産>「厚田漁港」「正眼寺」「厚田神社」「豊漁紀念碑」など11点
④石狩遺産004号 石狩海岸の自然〜大都市近郊に残る奇跡の砂丘海岸
・この遺産は、石狩海岸の自然のスゴさ、貴重さを知って、現地で体感したくなる遺産である。
・25kmにわたる砂浜海岸である石狩海岸は、砂浜に沿って2段の砂丘が形成されており、砂丘上は「海岸草原」として海浜植物の大群生地となっている。「海岸草原」は環境省が定める植生自然度(人の手の加わってなさを指標化したもの)の最高ランク10の「自然草原」(国土の約1%)に含まれる植生であり、この「海岸草原」は国土の0.1%以下と言われる非常に貴重な植生域である。
・特筆すべきは、砂丘草原は海辺から第2砂丘まで植生が徐々に変化していることであり、「帯状構造」と呼ばれる全国でも希少な植生の遷移が維持されている。後背地には、延長約20km、最大幅800mのカシワ天然海岸林の大樹海が広がっており、規模は日本最大、植生自然度は自然草原に次ぐ9である。
<構成資産>「砂浜海岸」「海岸草原」「カシワ天然海岸林」「はまなすの丘公園」など6点
⑤石狩遺産005号 防風林
・この遺産は、旧石狩市内のあちこちで見られる「防風林」の成り立ちを知って、「防風林」の有り難さを知る遺産である。
・明治以降、北海道各地で開拓が始まったが、石狩では春先の強い季節風が開墾地の肥沃な表土を吹き飛ばし地表の水分や熱を奪うため、作物の生育が阻害されていた。そこで開拓農民は「防風林」の設置を要望した。1893(明治26)年の「花畔村村民契約證」や1899(明治32)年の「防風林保護規約」では、防風林守を指名し、盗伐者の村八分や防風林内の下草伐採禁止などの厳しい取り決めを行なって防風林を保護した。今は国有保安林として国が維持管理している。
・これらの防風林は開拓期の自然の植生を今に伝える意味で学術的にも貴重であり、また、石狩市の町の景観としても多くの市民に愛されている。
<構成資産>「花川南防風林(斜め防風林)」「花川北防風林」「生振筋違い防風林」「遮断緑地」など7点
⑥石狩遺産006号 石狩の油田〜道内最大級の油田の歴史と石油を生んだ地層
・この遺産は、そもそも油田が石狩にあったことに驚き、では、実際にどういうものか、謎解きをする遺産である。
・1858(安政5)年、幕府の役人荒井金助によって発見された石狩の油田は、1903(明治36)年に本格的な開発がスタートした。石狩油田八の沢鉱業所が操業を始め、手稲村(当時)軽川の製油所へ延長30kmの送油管で原油を送り精製し、揮発油・灯油・重油などを道内各地や樺太に供給した。
・石狩油田は昭和初期に最盛期を迎え、188坑の油井櫓が立ち並び、約250人の従業員とその家族が暮らしていた。山中に商店や学校、神社や娯楽施設なども作られた。1931(昭和6)年には厚田村(当時)無煙浜でも厚田油田が産油を開始した。産油量は次第に減少し、石狩油田や厚田油田は昭和35年頃に操業を終了した。現在は、少量ながら石油の池やガスの気泡を目にすることができる。
・生振から札幌市茨戸にまたがる地域で、茨戸油田が1958(昭和33)年から1971(昭和46)にかけて操業し、一時は北海道内の産油量の91%を占めていた。
・石狩の3つの油田の起源はすべて「厚田層」という同じ地層にある。図にあるように、石油やガスは「厚田層」の上の砂でできた「盤の沢層」、さらに固くて隙間のない「望来層」の中を上昇して地表に現れる。これらの地層は油田周辺の海岸の露頭で見ることができる。
<構成資産>「石狩油田」「厚田油田」「茨戸油田」「厚田層露頭」「盤の沢層露頭」「望来層露頭」など12点
⑦石狩遺産007号 石狩灯台と周辺の風景
・この遺産は、ズバリ石狩市の「カントリーサイン」の景色を楽しむ遺産である。
・石狩灯台は、1892(明治25)年1月1日に道内21番目の灯台として石狩川河口の先端付近に設置された。当初は木造六角形の建物で、1908(明治41)年鉄造に建て替えられた。1957(昭和32)年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地となり、この時、灯台が白一色から赤と白の横縞に塗り替えられた。
・石狩灯台は石狩川河口の砂嘴状の地形にあり、その周辺にできた自然の海岸草原が「はまなすの丘公園」である。約46ヘクタールの広さがあり、現在180種の植物が自生している。
<構成資産>「石狩灯台」「砂嘴状の地形」「はまなすの丘公園」など5点
⑧石狩遺産008号 花川地区の土地利用の変遷をあらわす遺産群
・この遺産は、普段なにげなく生活している花川の素性を知って驚く遺産である。いうなれば花川の「ファミリーヒストリー」である。
・石狩の農業は、旧花畔村で1871(明治4)年に、樽川村では1885(明治18)年に始まり、1893(明治26)年の殖民区画設定により移住者が増え、規模も拡大した。この地は泥炭地と砂地が入り混じる痩せた土地であったため、農民は多くの苦闘を重ねた。花畔銭函間運河や発寒川へ通じる排水路の掘削、牛馬飼育による厩肥の活用による有機物の投入、防風林による強風対策などにより、農業経営が徐々に安定していった。
・酪農業は大正期の町村農場や極東農場などの開設によって盛んになっていった。
・地力のない農地は干害や冷害に弱いため、稲作への転換が模索されていた。後に町長になる飯尾圓什は造田を推奨し、農民たちの粘り強い努力と国や北海道の補助などによって樽川村の造田は進み、この地は一大稲作地となった。
・昭和40年代のコメ余りにより稲作は次第に行き詰まった。一方、札幌に近いという地理的利点から、現在の花川南地区は1965(昭和40)年に民間開発業者による宅地分譲(新札幌団地)が開始、花川北地区も北海道住宅供給公社による分譲(花畔団地)が1973(昭和48)年に始まり、この地は住宅地に転換していった。1976(昭和51)年、樽川村と花畔村の道道石狩手稲線の南東側が統一し、花川と命名され、現在、石狩市全人口の7割が住んでいる。
<構成資産>「開拓碑」「花畔銭函間運河跡碑」「町村農場発祥之地碑」「開田之碑」など12点
⑨石狩遺産009号 荘内藩ハママシケ陣屋跡を中心とする関連遺産群
・この遺産は、荘内藩の気合いを知る遺産である。わずか9年間の夢の跡が今の浜益である。
・北方警備の重要性が高まった幕末、幕府は奥羽6藩に蝦夷地の警備を命じ、荘内藩(山形)は西蝦夷地の一部が割り当てられた。1860(万延元)年浜益に元陣屋が設けられ、荘内藩は積極的な経営を行ったが、戊辰戦争の勃発により1868(慶応4)年総引上げとなった。その遺構である荘内藩ハママシケ陣屋跡は石狩市内に存在する唯一の国指定史跡である。陣屋跡の大手門は令和3年に新たに再建された(下図)。
・この史跡は開墾のための農民を送り込み、大きな農業実績を挙げた事例でもある。これは明治期の屯田兵システムの原型とも考えられ、北海道の開拓事業の草分け的事例としても評価されうるものである。
・わずか9年の荘内藩事業であったが、浜益には荘内藩ゆかりの神社仏閣などの関連遺産も存在し、その後も農業の継承、祭礼行事が伝承され、この地に大きな産業・文化的特色を今に残した。
<構成資産>「荘内藩ハママシケ陣屋跡」「千両堀」「実田黄金山神社」「川下八幡神社例大祭での伝統行事」「開墾された8つの村落(屯田兵制による開墾)」など12点
⑩石狩遺産010号 厚田・浜益の火山活動地形〜火山が創り出したものと人々との関わり
・この遺産は、改めて厚田・浜益に国定公園があることを知る遺産である。
・厚田区から浜益区に至る地域は、新生代新第三紀中新世〜第四紀更新世(2300万年前〜1万2000年前)の火山活動による溶岩、岩脈、ハイアロクラスタイト(水冷破砕岩)等により形成され、独特の形状を示す地形が多く見られる。
・例えば厚田区安瀬(ヤソスケ)から浜益区後毛の海岸では、ハイアロクラスタイトで形成された海蝕崖が続き、波によって浸食された奇岩がみられる。鷲岩やアモイの洞門と呼ばれる奇岩は、それぞれ旧浜益村、旧厚田村のシンボルとしてカントリーサインにも使用されていた(下図)。
・地下から上昇してきたマグマが冷えて固まった岩脈となり、周辺の柔らかい岩石が浸食されて火山岩の固い岩脈だけが残り、独特の山容をもつ黄金山ができた。この山は南側にある摺鉢山とともに、アイヌ民族のユーカラの舞台になっている。
・構成資産のうち11ヶ所が存在するエリアは暑寒別天売焼尻国定公園となっており、浜益の黄金山など5つの構成資産は日本地質学会北海道支部により「北海道地質百選」にも選出・掲載されている。
<構成資産>「アモイの洞門」「鷲岩」「黄金山」「摺鉢山」「群別岳」「雄冬岬」など14点
⑪石狩遺産011号 弁財船と石狩〜石狩に繁栄をもたらした弁財船の役割を今に伝える遺構や文化財
・この遺産は、石狩に繁栄をもたらした弁財船の役割を知る遺産である。陸路がほとんどなかった昔は海からしか物資が届かず、弁財船(大型帆船)があらゆるものを運んだ。
・「弁財船」は「本州から豊な物資をもたらし、同時に石狩産の鰊粕や鮭などの商品を買い取ってくれる宝船」であった。鮭を重要な上りの出荷物としていた石狩では東廻りの太平洋航路で江戸・東京に向かう廻船が重要であった。また、場所請負人・村山家の手船は1700年代から松前はもとより大阪や江戸まで航行しており、石狩には江戸時代の多くの遺構、文化財が残されている。
・1858(安政5)年から、石狩川河口には、他地域に先行して松前藩以北で「北前船(大阪を起点とする日本海航路の買積船)」が来ることができた特異性も石狩の歴史の一面である。これらの船は石狩ではすべて「弁財船」と呼ばれていた。
・「北前船」をキーワードとして全国45もの市町を横断する文化庁事業、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」があり、2019(令和元)年時点で石狩市域では8つの構成文化財が認定されている(下図)。青字記載の4つは石狩遺産「弁財船と石狩」の構成資産となっている。
<構成資産>「村山家文書」「押琴湾と弁財船投錨地碑」「厚田神社豊漁記念碑」「石狩弁天社狛犬」「北前船と鰊漁場ジオラマ」など15点
受講者からいくつかの質問があり、講師の安田さんから説明があった後、今回の講座は好評のうち終了しました。
最後に、受講者の感想や意見のいくつかを以下に紹介します。
・石狩遺産、知らない事ばかり!"へえー"を増やしたいと思いました。石狩に国定公園?知らなかったです。
・石狩は見るべきものが無いと思っていましたが、自然、産業、文化遺産がこんなに多くあること知り、とても良かったと感じました。今後は自分でも、できるだけこれらの遺産を見て歩きたいと思います。
・石狩に長く住んでいても、石狩のことがよくわからなかったことが、今日の安田先生のお話で、ずい分よくわかったような気がします。遺産とされた各地に行ってみたくなりました。
・石狩市すごい〜 現地探報ガイドを見ながら現地に行ってみたいと思います。カレッジでも今後探報の企画をしてNo.1〜11を少しづつで良いので行くと良いかな?(安田会長様、同行?)
・膨大な遺産の内容を大変わかりやすく説明していただき、石狩の貴重さ、豊さが、あらためて実感できました。今後は市民カレッジでそれぞれの遺産の体験ツアーを計画していただければ幸いです。
・わかりやすく魅力的な石狩の様子を伝えていただいたと思う。石狩遺産に芸術系(アート)を加えたらと考えるが、いかがなものでしょうか?三岸好太郎、子母澤寛、本郷新 etc
・時間が足りないと思う。2回に分けて講義をしたら詳しく聞くことが出来た。ある程度の事はわかった。またの開催をしてほしい。