6月18日(火)主催講座5「石狩歴史散歩」の第1回「石狩本町・八幡地区の碑と歴史の痕跡を訪ねて」を行いました。講師は、石狩市郷土研究会会長で場所請負人村山家子孫の村山燿一さん、受講者は19人でした。
この講座は、村山耀一さんが、いしかり市民カレッジの前身である「いしかり学のススメ」の頃から毎年欠かさず続けている、「碑と歴史の痕跡を訪ねる」シリーズで稀有な講座です。
以下、講座の概要です。
バスは旧公民館を9時に出発し、最初の見学地八幡墓地を目指します。村山さんから「初めて参加された方は、、、」の問いに2名の方が挙手、多くの方が複数回受講されているようでした。
はじめに、講座資料で今日の巡視ルート図と八幡地区の古絵地図との関連比較、碑や遺跡、遺品等の多くが石狩遺産になっていることなどの説明があった。
次に、「樺太アイヌの碑」に関連して、日本とロシアとの関係について急遽追加されたという資料で説明された。
◇『幕末から現在に至るロシア(ソ連)との領土に関わる歴史』
・クリミア戦争 嘉永6年~安政3年(1853~1856)
・日露和親条約 安政2年(1855)2月7日
樺太を両国混住の地とし、千島列島の択捉島とウルップ島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とする。
・幕府全蝦夷地を直轄 安政2年(1855) ロシア南下政策を警戒。
・樺太・千島交換条約 明治8年(1875)
樺太はロシア領、ウルップ島より南の択捉・国後・色丹・歯舞を含む全千島列島を日本領とする。
・日露戦争 明治37年(1904)~38年(1906)
ポーツマス条約 樺太の北緯50度以南を日本に譲渡する。
・太平洋戦争 昭和16年(1941)~20年(1945)
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄してソ連国境から侵攻、9月3日までに満州・樺太・千島列島・北方4島全域を制圧した。
・北方領土問題
戦後77年続くが解決のめど立たない。
◇八幡墓地(八幡3丁目)
〇榎本氏乙女女子之墓 建立 万延元年(1860)12月7日
石狩に残る女性の墓碑としては一番古いもので、石狩役所関係の家族のものと思われる。
安政3年(1856)函館奉行支配役榎本弥五郎が女子禁制の神威岬を、妻子を伴って超えたことから婦女子の通行が許された。
〇樺太アイヌの碑 《石狩遺産》 建立 平成14年(2002)9月
〈碑文の要旨〉
明治8年(1875)の樺太・千島交換条約により、日本政府はロシア領となった南樺太に住んでいた樺太アイヌと、新たに日本領になった千島列島北部に住んでいた千島アイヌを、北海道とその近くの島に移住させようとした。
・樺太アイヌ108戸841人は、同年秋、宗谷地方に移り、翌年江別対雁に移住させられた。多くの者が漁場に近い石狩の来札などに居を移した。しかし、コレラや天然痘の大流行によって300人もの尊い命が喪われた。
・明治38年(1905)、日露戦争講和条約によって樺太南部は再び日本領土となり、ようやく帰還することが出来た。
・樺太アイヌは、こうした歴史の中で、ここ来札の地で、暮らし、亡くなっていったことを碑に刻み伝えてゆく。
この碑は、平成5年(1993)アンノランの孫の豊川重雄(札幌アイヌ協会会長)らが来札で亡くなった樺太アイヌのための記念碑建設を強く要望し、石狩町が建立した。
・来札の樺太アイヌ墓地 『石狩遊記』より
明治23年頃、外国人のランドウという人が調べたところによると、お墓の大きさは約1丁四方(1丁は108M)程と想像する。
明治30年ドイツ人ベルツ、日本人関場不二彦が調査し、上級の人のお墓や男女による墓標の違いがある事を記している。
・戦後まもなく、八幡町在住の鉾井光男氏が所有する原野(八幡町3丁目)を開墾した際、多くの出土品を発見した。
10体ほどの人骨、刀の鍔、鉾先、金属製品、陶器の破片、古銭、耳飾り、ガラス玉など出土品は、平成6年(1994)に砂丘の風資料館に寄贈された。
~本町地区への車中で~
今日は、普段見ることが出来ない物をお見せできるかもしれないのでお楽しみに。私の先祖村山家が北海道や石狩の歴史に関わりがあるが、特に石狩では明治に入ってから3つの鮭の漁場を持っていた。
・1つは、今の海水浴場あたりの「大網」というところ。
・あとの2つは、これから橋を渡ると右側に見える、川が大きくカーブしているところの上流と下流に2つの場所があった。そこは「テイネイ」(貞寧)と云う場所。アイヌ語で「潤んだ場所」という意味である。
〇上手稲養鮭場記念碑 《石狩遺産》 建立 昭和27年(1952)5月5日
北海道さけ・ます孵化場千歳支場石狩事業場として初めて稚魚150万尾を放流。孵化のための水は地下水を使った。しかし、千歳のような上流ではなく、河口に近いため放流稚魚の育成環境に適さず、わずか4年で事業は中止になった。
△石狩には、鮭に関わる碑は3か所しかない~
・上手稲養鮭記念碑 弁天歴史公園内 佐藤水産制作(2基)
〇殉国軍馬霊碑 建立 昭和16年(1941)10月
支那事変(1937)~終戦(1945)まで北海道では70万頭の軍馬が徴用されたが一頭も帰ってこなかった。石狩でも農家の飼育馬が軍馬として徴用され、特に北生振にそのことが残っている。
◇ゆめポート前庭の碑
前庭の一角に3つの碑がまとめて設置されている
〇石狩警察署碑
この石柱は平成16年(2004)4月、親船町の警察官派出所跡から見つかったもので、平成17年(2005)1月現在地に設置された。旧石狩役場に隣接した札幌北警察署石狩派出所前庭にあったもの。石狩派出所の歴史は明治15年にはじまり120年以上の歴史をもって現在に至っている。
石柱にある「石狩警察署」は、明治20年(1887)に札幌警察署石狩分署から変更され明治22年まで使われたほか昭和28年まで2度にわたって設けられていた。
〇開拓使石狩罐詰所跡碑《石狩遺産》建立 平成17年(2005)1月1日
明治10年(1877)、開拓使が北海道の産業振興のため設置した我が国最初の缶詰工場である。工場の場所はこの辺りで、「筒詰」と呼ばれ海外でも好評であった。
10月10日は、石狩罐詰所の操業開始の日で、日本缶詰協会ではこの日を「缶詰の日」にしている。
〇讃石狩郷の碑 建立 昭和43年(1968)8月31日
「開基三百年開町百年記念式典」を記念して多彩な事業を実施、式典当日に除幕式を行った。
*村山さんによる計算式
1968年(昭和43)は開道100年の年
開基300年式典
1968年-300年=1668年頃
*松前藩が石狩場所区画にしていたから?
開基100年式典
1968年-100年=1868年
*明治元年
~車窓から~
旧石狩小学校円形校舎 砂丘の風資料館 旧長野商店。寺境内中島家墓(空襲による欠損)。
◇石狩弁天社
石狩市指定文化財第1号(昭和42年指定) 《石狩遺産》
元禄7年(1694)、松前藩家臣山下伴左衛門によって建てられたと伝えられている。代々石狩場所請負人などによって信仰され、とくに文化13年(1816)村山家6代目伝兵衛が再興し守り神として大切にされてきた。
安政年間に、当時あった3つの祠(弁天社・稲荷社・亀鮫者)を一社に統合。
・弁天社所在地の移動
最初は石狩灯台の近く⇒現在の八幡神社⇒現在地
社殿の内外にはこれらの人々が寄進した鰐口、絵額、御神燈、手水石など、全国との交易に栄えた当時の石狩をしのばせる。
主神は弁天様であるが、石狩川の主と伝えられる「蝶鮫」を神格化した「妙亀法鮫大明神」が祀られている。
〇禮拝器 《石狩遺産》 建立 弘化2年(1845)
・石質 蛇紋岩(茨木産)
・石工 那珂湊(水戸市)大内石可
・隷書 水戸藩主の書
〇北千島沖流網之碑 《石狩遺産》 建立平成7年(1995)10月
昭和8年5月、鰊と鮭の沿岸漁業から北千島沖流網の進出を図った祖父と乗組員の漁撈の成果と昭和20年千島を失って50年目を迎えるに当たって遠洋漁業の開拓の実績を讃えて建立された。
◎弁天社内の奉納物
今日は、特別に許可を得て内部を拝観させていただきました。
〇「辨財天」木扁額 (金箔書) 建立 文化8年(1811)
・材質 カツラ材
「才」を「財」としたのは、財と福をもたらす女神(七福神の一神)を表している。
〇妙鮫法亀大明神(石狩弁天社の鮫様) 《石狩遺産》 建立 文政8年(1825)
・材質 木造
・北海道指定文化財(有形文化財) 平成19年(2007)3月20日
地元では"鮫さん"と呼ばれ「鮭漁の神」として親しまれている石狩独特のチョウザメの神さまである。
・御神体は、一つの台座に二人の神が建っている
向かって右の亀の上に乗り、日輪を背負った唐風の衣装を着けた神が「法亀大明神」、左の鮫の上に乗り衣冠束帯を付けた神が「妙鮫大明神」(鮫様)。
*今まで誰も見ることが出来なかった御神体を見せていただき撮影も許されました。
〇鰐口(わにぐち) 《石狩遺産》 寄贈年月日 文化11年(1814)
・神殿の前に掛け、吊るした綱で打ち鳴らす 道内で最大級の鰐口。
村山家の鰐口は、厚田の道駅と北海道開拓博物館に展示されている。
〇加藤清正寅退治図(仮題) 制作 安政3年(1856)
・材質 ケヤキ材
・画法 彩画
・制作者 井上文昌
作者の井上文昌は新潟生れ、江戸末期の画壇の最勢力者で南北画の祖である谷文晁の門人。
〇関羽正装図 制作 安政3年(1856)
・材質 ケヤキ材
・画法 彩画
・制作者 井上文昌
関羽は、中国の「三国志」に登場する有名な武将で10世紀ころから神格化され、財神・商業の神として信仰された。
◇弁天歴史公園
〇レリーフ「先人たちの碑」説明板 《石狩遺産》 設置年 平成12年(2000)9月23日
この碑は、市制を機に石狩の未来を石狩川の流れに託した先人たちの歩みを顕彰するもので、石狩川を中央に配し、石狩を象徴する鮭と市花ハマナスをモチーフにデザイン化したもの。
〇運上屋(元小屋)棟《石狩遺産》創設 平成12年(2000)9月23日
運上屋とは場所請負人の交易場の拠点で、漁場の諸務一般をはじめ、宿泊・運送・通信すべての業務がここでこなされていた。
石狩場所を請負った商人の中で特に有力であったのが村山傳兵衛である。文化12年、石狩場所13場所を村山家が一括請負った頃、石狩場所に限り、各場所に運上屋を設けず石狩河口に共同運上屋を置いた、これを「元小屋」と称していた。
〇楽山居(旧石狩病院和室) 《石狩遺産》
・明治3年 開拓使が石狩病院開設。
・昭和12年 石狩病院の離れとして増築された和室。茶会・句会などに使用。
・平成12年 元の造りを維持しながら復元 石狩唯一の書院造。
〇井上伝蔵句碑 建立 平成14年(2002)11月11日
・碑文 俤の眼にちらつくやたま祭り 柳鮭
秩父事件の中心人物の一人で、石狩では伊藤房次郎と仮称。井上伝蔵は死刑判決を受けるが逃亡。明治24年頃石狩に潜伏。小間物屋、代書屋を営む。尚古社の社員。明治44年まで石狩に滞在。
〇太郎代天曝観音 建立 昭和18年(1943)7月
昭和11年3月、吉田庄助が郷里新潟から尊像分身を恭迎安置する。吉田庄助は明治の頃から石狩の大漁家の1人で、村山家が石狩を去る時に漁場を吉田庄助に託した。庄助の娘が佐藤水産の初代佐藤三男と結婚。吉田庄助は大漁家であり旅館も営んでいて、映画「喜びも悲しみも幾年月」のスタッフ総勢50人を宿泊させたこともある。
〇鮭供養之碑 《石狩遺産》建立 昭和43年9月7日
・建立者 石狩さけまつり実行委員会
昭和43年9月7日石狩町開基300年開町100年記念事業として、石狩灯台付近に設置、平成13年(2001)現在地に移設。
〇高浜年尾句碑 建立 平成17年(2005)7月
・碑文 わが橇の馬が大きく町かくす 年尾印
・高浜年尾 明治33年~昭和54年 俳人
高浜虚子の長男 「ホトトギス」代表 小樽高商(小樽商科大)卒。在学中から晩年まで石狩市に度々来訪し作品も多い。
◇石狩八幡神社
・創立 安政5年(1858)
石狩が幕府直轄地になっていた安政5年、函館総社八幡宮神主菊池重賢太蔵が、末社石狩八幡宮を現八幡町に鎮座する。
明治7年、神仏分離、廃仏毀釈により、弁天社は村山家の私神として、この場所から現在地に移され、そこに八幡神社が移設された。
〇石狩八幡神社石鳥居 《石狩遺産》
もと石狩弁天社の鳥居であったが、鳥居だけが残ったもので、大正7年、正式に八幡神社の所有となった。
石柱(左側)の彫字に道内最古の「秋味」の文字。
〇八幡神社碑 建立 昭和2年(1927)9月15日
・彫字 石狩□□□八幡神社
戦後、政教分離によって、近代社格制度が廃止されため□の3文字が塗りつぶされた。さて、何という文字でしょうか。
*答「郡郷社」
〇御神燈熟軸石 建立 大正8年(1915)9月
慶応4年(明治元年)7月、明治新政府の函館府石狩役所主宰を命じられた井上弥吉(長州鰐石の人、熊野九郎と改称)が、同郷の木戸孝允筆になる「文武一徳」「肇城四方」の文字を刻んだの石灯籠一対を八幡神社に奉納したものの遺材である。
約50年の変遷のなかで散逸したが、3代社司岡村静夫が棹石部分の石柱を見つけ、台座に由来を記してこれを碑とした。
~車窓から~
石狩灯台 《石狩遺産》
◇法珠山 金龍寺 創立 安政4年(1857)
金龍寺は昔、金竜庵といって石狩詰め荒井金助の時代、弟栄太郎が井上氏を継ぎ幕府に仕えていたが、早世し断絶したので、その菩提を弔うため、同家宗旨の法華経により建立したものという。
〇金龍寺 手洗鉢 《石狩遺産》
・彫字 正面 安政3甲午年正月吉日 *安永3年(1774)
奉納 千秋丸水主中 *水主(かこ)=船のり
もとは石狩弁天社にあったもの。飛騨屋の手船(北前船)で運ばれたものと考えられ、石狩で最も古い手水鉢である。
〇金龍寺の鮫様
・龍神・妙亀菩薩・鮫神像 《石狩遺産》
・建立 明治22年(1889)
・指定 北海道指定文化財(有形文化財)
この像は、生振村で鮭漁場を経営していた古屋長兵衛が奉納したもの。
台座の中央で龍に乗る「龍神」像、宝珠を持ち鮫の上に立つ「鮫神」像、剣を携え亀の上に立つ「妙亀菩薩」像の3体の神像で構成。
〇天野傳左衛門正庸の墓
安政4年に石狩詰めとなり、石狩シップ在住として同地を拓いたほか、新道を開くなど勤めた。安政7年没した。
〇村田正一郎の墓
長崎海軍伝習所一期生。海兵隊要員・下士官。石狩詰め役人として新井金助が建てた「教導館」で武道を教え、洋風の鉄砲教授にあたった。二つの墓は、ともに徳川幕府函館奉行石狩役所に在勤した役人の遺物である。
〇石狩川河口渡船場跡地
石狩川の最下流の渡船場。発祥の時期は明らかでないが、安政4年(1857)場所請負人村山伝次郎が渡船場を運営したという記録がある。明治に入り重要度が高まり、開拓使の運営から石狩町営に移管、昭和28年に石狩町直営となった。同年国道231号なったことから昭和30年国営渡船場に指定された。
昭和47年石狩河口橋の一部供用により、再び町営となったが、河口橋の本格運用による利用者減少により、昭和53年(1978)3月31日歴史は閉じられた。
かつては道の両側に家並があったが、今は左側が堤防となっている。
現在の渡船場跡
◇能量寺境内
〇山田文衛門の墓
村山家と同じ石川県の出身で文政年間に生まれ、のち函館に移る。
先代は勇払を請負っていたが、文衛門は、その跡を継ぐとともに1858年から7年間カラフト東海岸の漁場を開く。
石狩改革で村山家が請負場所を縮小され、罷免される時期がある。その時に石狩場所の一部の経営にあたってくれた。また、1860年、日高沙流の海岸に岩石を投入して昆布の養殖に力を入れ成功させた。
〇藤田家累代之墓
藤田利兵衛は村山金八郎に仕え、村山家が石狩漁場3か所を経営するのに苦境にあった時、資金調達に井尻家の力を借りて、漁場取締監督として村山家の回復に尽くした。債務が重なって井尻家が漁場を引き受け経営することになり、井尻家の支配人となって力を尽くした結果、漁業権が再び村山に返還されるに至った。利兵衛は尚古社社主、町総代人を務めるなど町の名士でもあった。
〇井尻家の墓
初代半左衛門は、明治7年渡道し小樽で鯡漁業を経営していたが11年石狩町に転籍。村山家の復興に力を貸し、これを引受け経営にあたる。
2代目清藏は、厚田の鰊漁場20場所を経営、石狩、厚田漁業者の雄となった。小樽で倉庫業を初めて開いた。妻は当別の伊達家(邦直)の娘である。
〇大谷句仏句碑 建立 昭和25年(1958)
・碑文 石狩能量寺を立ち去るとて
石狩は鮭の魚飯に名残あり
大谷句仏―本名大谷光演、東本願寺第23世管長
昭和2年と3年に北海道布教のため来道、能量寺を根拠とした。
魚飯とは 大きく厚く切って焼いた鮭の身をほぐして布巾で固くしぼり、そぼろのようにしたものをご飯にのせ、ネギとノリなどの薬味をのせ、濃い目のおすましをかけて食べるもの。 井尻正二『石狩湾』参考
*受講者の中には、実践した人がいたようです。ぜひあなたもためしてみませんか!
◇親船市営墓地
〇村山家墓 《石狩遺産》
現在お墓を守っているのは、直系子孫である村山燿一さんです。
村山家は、松前の巨商で、場所請負人でもあった。初代伝兵衛は、能登国羽作郡阿部屋村に生まれのち松前に移住。宝永3年(1706)石狩場所を請負い、鮭漁場を経営するとともに宗谷・留萌場所も請負った。
3代目伝兵衛は、石狩場所を根拠地として宗谷や東蝦夷地・国後など約200余の場所を請負い、所有船100石から1800石積まで、102隻にもおよび、その富は松前一と云われた。
その後、6代・7代と石狩場所を請負い明治維新に至る。明治41年、石狩より小樽に移転した。
以上、好天に恵まれた中で、碑の宝庫をめぐる散歩でした。ご案内いただいた村山さん、熱心に学習された受講者の皆さんありがとうございました。
◇最後に受講者の感想を紹介します。
「何時も乍ら歴史資料は大変参考になり、永年保存版し、又読み返したいと思います。石狩は道内で最も歴史がある事を認識したが、多くの市民は石狩の歴史を無知なのではないだろうか?後継につなげるため認識を広めたい」
「すばらしい資料、情熱あふれる村山先生の4時間に及ぶ解説、充実した内容の濃い半日でした。この度も村山先生の歴史散歩に参加でき大変うれしく感動しています。石狩散歩シリーズは市民カレッジの大きな意義深い講座です。末永く続けていただきたいと思います。」
「石狩歴史散歩1回目八幡地区の碑と歴史についてはとても詳しく資料と現地を訪ねての講座、村山講師のお陰で学ぶことが出来大変感謝しています。運営委員の皆様いつもご苦労様です」
「身近な歴史が大きな勉強になりました。再度個人で廻りたいと思います。第2回樽川地区も楽しみにしています」
「街中に点在する記念碑や史跡などが歴史的なつながりを持って理解でき、大変良い機会でした。村山先生には大変貴重な資料を頂き感謝しています」
「いつもながら村山先生の分りやすい解説と、詳しい資料で、歴史の一端をよく知ることが出来ました。ありがとうございました」
「何回歴史散歩しても、又参加したくなります」
「新たな発見もあり、今後が楽しみです」