主催講座5「石狩歴史散歩」
2022/06/30
6月25日(土)講座5「石狩歴史散歩」の第2回「樽川地区の碑と了恵寺を訪ねて」を行いました。講師は第1回同様村山耀一さん、参加者は20名でした。
今日は石狩でも高温が予想されるので、水分補給を怠らないよう注意を喚起して、9時に旧公民館を出発しました。
以下、概要を紹介します。
◇本日の巡廻ルート図(赤線矢印で表示)
・右下角の石狩市役所辺りが発着地点
◇村山さんは、はじめに樽川地区・花畔地区(現在の新港地区・花川地区)のあゆみについて話された。
〇樽川地区・花畔地区のあゆみ
・明治4年(1771)花畔村開村と生振村開村
花畔には岩手県南部団体39戸129人入植。生振には宮城県・岩手から県29戸124人入植
・明治15年(1882)樽川村開村
・明治18年山口県より43戸185人が樽川に移住
~村山さんの問いかけ~
「この地域の当時をイメージするとどんな景色が見えますか」
・入植者は開墾地拡大、燃料確保等のため自由に原生林を切り開く
・これに問題を感じた金子清一郎は、風から農作物を守るために風防林の整備を要望する
・明治32年(1899)防風林保護規約が出来、その後原生林だけでなく植林も含め防風林が計画的に整備される
・現在残る防風林は、町の景観や住宅地、田畑を風から守るために役立っている
◇開港記念碑
・所在地 新港中央1丁目(道道225号線沿い)
・建立 平成6年(1994)7月
・高さ 205㎝ 横幅 142㎝
この場所は、目の前まで堀込港が延びて、新港公園が出来るはずの場所だった。しかし、現在は草木に覆われていて、よく探さなければ見つけることが出来ない。
〇写真によって確認
△碑文には概略次のようなことが記されている
・明治初期この地に開拓の鍬を下ろして以来、艱難辛苦を乗り越え砂地水田化を成功させたこと
・石狩の将来のため石狩湾新港開発計画に賛同したこと
・港が見えるこの地に碑を建立し末永く後世に伝えること (石狩町新港促進協会会長 田中 実 撰文)
村山さんは、「こういう立派な碑を、人々が見ることのできない所に埋もれさせておくことは、石狩の人間として非常に残念に思う」と語られた。
◇樽川発祥之地 碑
・所在地 新港2丁目(樽川公園内)
・建立 昭和60年(1985)10月
もともとの樽川発祥地はオタルナイ川(現在の新川河口付近)で、山口県人が移住した。石狩湾新港建設に関わって一部を小樽に割譲、新団地に移る。
「オタルナイ発祥之地」と「方向台」の二つの碑が現在小樽市銭函地区になった、当時のオタルナイ中心地に残っている。
◇樽川神社境内の碑
〇樽川神社
・創立 明治37年(1904)7月27日
・創立当時の所在地 旧樽川村6線7号
・現在地移転新築 昭和47年(1972)
樽川神社の発祥は明治20年に小詞建立に始まり、明治39年に創立許可を受ける。昭和47年石狩湾新港後背地の開発に協力し現在地に移転新築する。
〇開村五十年記念碑
・建立 昭和9年(1934)7月
〇開村百年 碑
・建立 昭和57年(1082)10月
碑文には、移転に至った経緯が記されている。
〇樽川村移転之碑
・建立 昭和48年(1973)10月
〇忠魂碑
・建立 明治37年(1904)12月5日
樽川村の戦役(日露戦争)の戦死者招魂のため、旧樽川神社境内に建てられ、昭和48年現在地に移転。
〇二宮金次郎像
・建立 昭和15年(1940)
皇紀二千六百年記念として建てられ、旧樽川小中学校校庭にあったが石狩湾新港後背地として買収されたため昭和48年この地に移転。
下半身のない金次郎像は珍しい。はじめから足が無かったのか欠損して無くなったの明らかでない。
◇南線神社境内の碑
〇南線神社
・建立 明治30年(1879)
南線地域は、明治14年横井元八以下14戸の香川県人が入植したのが始まりと云われる。
明治27・28年、開拓終了の報告を兼ねて、香川県人片山謙蔵が郷里讃岐の金毘羅宮に参詣し御文札を受けて神社を創設したのが始まりである。
・神社の位置の変遷
①明治30年 南5条5丁目(横井敷地内)
②明治38年 南4条1丁目
③大正6年 南2条2丁目(7線)
④昭和45年 南3条1丁目 現在に至る
〇南線神社創建百年碑
・建立 平成9年(1997)9月14日
南線神社の歴史を記している。
〇牛馬大神碑 《石狩遺産》
・建立 昭和11年(1936)9月
旭川での陸軍特別演習を記念して建てられた碑であるが、台座の痛みが激しく平成元年に修復された。南線地区は樽川地区と同様、本道酪農の発祥地と云っても過言ではなく、ともに苦労を重ねた牛馬を祀る碑である。
〇開田之碑 《石狩遺産》
・昭和33年(1958)8月
石狩で砂地に水田を始めたのは、花畔10線の方で昭和3年。戦後の食糧難を機に花畔・樽川・生振一帯で大規模な造田事業を行った。ここの米は道央圏でも最上級と云われるような良い米ができた。この碑は造田10周年を記念して建てられた。
〇町村農場發祥之碑
・建立 昭和54年(1979)9月
明治30年町村金弥が南線地区(樽川村・花畔村)に120町歩の農場を創設。大正6年、長男町村敬貴が樽川南6線に町村農場開設。昭和3年江別市に移転。平成4年江別市篠津に移転。
◇南線小学校
〇「南線」呼称の由来について
・明治26年殖民地区画設定
・新川(運河)を起点に、南から北へ向かった第1線~第12線
・北の本町方面から第1線~第14線まで区画
・横の区画は、1号は現「石狩手稲線」を境に西・東に2号・3号と付与された
・明治35年の花畔村と樽川村の町村合併が「南線」と呼称される由縁であった。
〇南線小学校の沿革
・明治33年 私塾樽川簡易教育所開設(西6線2号)
・明治39年 南線尋常小学校として認可
・昭和31年 現在地に校舎確保
・昭和40年 団地造成はじまる
・昭和41年 3学級46人 *閉校も危ぶまれる
・昭和56年 33学級1409人 *花川南小学校分離
・昭和59年 30学級1174人
・昭和60年 紅南小学校分離
・令和4年 29学級946人 *現在も大規模校
◇砂山(紅葉山砂丘)から新川
了恵寺や紅南小学校のあるところを含め、生振から美登位まで続く砂丘が4千年ぐらい前からあった。これを紅葉山砂丘いう。
花川南地区の斜め防風林から東側を紅葉山砂丘と呼び、西側の花川南小学校から新川まで続く砂丘を「砂山」と呼んでいた。
〇車窓から砂山の痕跡を探る
・新川から花川南9条辺りまで斜めに出来た道路を走る
・交差する道路の左右が低くなっているように見える
・この道が砂山の頂上部であることの証明であり、大昔から砂山の踏み分け道が現在に残っていることが分る
◇三角点
・所在地 石狩市花川南中学校 前庭
・種類 二等三角点 樽川Ⅱ
・設置者 国土交通省国土地理院
三角点は三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点。日本では明治4年に東京で13点設置したのが始まり。
二等三角点は、四角柱の御影石で出来ており、上部の一辺が15㎝角と決まっている。
◇紅葉山33号遺蹟 《石狩遺産》
・所在地 花川南公園内(花川南6条5丁目)
・この遺跡は縄文文化時代前半期の墓地で、今から2000年前ごろと推測される
・発掘されたのは昭和57年(1982)、32基の墓と、多数の副葬品が出土した
〇飾り弓と紋様
・弓全体に赤や黒の漆を塗って、美しく飾られている
・儀礼あるいは権力の象徴など儀礼的な弓と云われている
・墓穴の底にあり、遺体の横の台上の部分に安置されている
・「飾り弓」の紋様は、渦巻き紋を基調としたもので珍しいもの
・これは、アイヌの基本的紋様「アイワシモレウ」(矢を持つ渦巻紋)に酷似しており、アイヌ紋様の原型とも考えられている
◇横井橋
・横井家は、斜め防風林の脇の旧発寒川に橋を造り、屯田側に行き来していたようだ。左側が斜め防風林
・明治14年(1881)南線地域に香川県人横井元八以下14世帯が入植
・明治27年(1894)高木了玄は南6線に草庵(了恵寺創立)
・明治30年頃片山謙蔵は防風林傍に小さな祠を建てる(南線神社創立)
◇斜め防風林 《石狩遺産》
・花川南公園から石狩湾に向かって真北にのびる防風林で、当初は約5.3㎞あったが、現在は4㎞程に短縮された
・石狩では、現在でも風雪から市民の生活の場を守ってくれている
〇斜め防風林を歩く
防風林の中は、単なる原生林ではなく、タヤ、サクラ、キハダ、ミズナラなど様々な木々や野草が生繁り、野鳥のさえずりが聞こえ心癒される。
・今来た道が、横井さん達が歩いた道。左の方向が砂山へ、右側が紅葉山砂丘へと繋がる分岐点(ルート図赤と黒線の接点)
◇紅葉山 了恵寺
・創立 明治27年(1894)4月
浄土真宗興正派と、香川県井本山を持つ寺から分離して明治26年に開教した。当寺開祖了玄師と二世法恵師の一字をとり「了恵寺」とする。
・昭和37年近隣住民の要望に応え、お寺の庫裡で季節保育園を開く。のちの「南線保育所」である
〇創田之碑 《石狩遺産》
・建立 昭和32年12月
昭和23年発寒川から揚水して創田、10周年を記念して建てられ、昭和60年に移設された。
〇六畜謝恩之碑 《石狩遺産》
・建立 昭和52年(1977)11月6日
・六畜 馬・牛・羊・犬・豚・鶏
・短歌 『ふる里の家の庭へに藍よりし
深きえにしを思い出でつつ』 横田庄八
・横田庄八
石狩町花畔に生まれ。のち教育者として道立高校校長・札幌北斗高校校長を勤める。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの祖父である。
〇南線小学校奉安殿と門柱
・奉安殿 昭和20年10月、南線小学校にあったものを移設
・門柱 平成15年4月南線小学校のプール建設の際に移設
〇栗の二本木 《石狩遺産》
・平成3年8月 石狩市記念保護樹木に指定
・保護樹は外に、花川小学校の「イチョウの二本木」がある
〇瑞穂堂(旧花畔瑞穂神社本殿)
・戦後、飯尾町長指導のもと大規模造田事業が実施され、「花畔瑞穂神社」が建立された
・昭和30年代以降、花畔地区は工業化・宅地化が進み役目を終える
・当神社は花畔神社に合祀され、鳥居や標柱は花畔神社に、本殿は了恵寺に「瑞穂堂」として保存されている
〇宝蔵館
・設立 平成3年(1991)11月9日
・正式には「為衆開法蔵」といい、同寺の開基百年を記念して建てられた
・館内には、経典、仏像、仏画等の法宝物、古文書のほかに、四世住職が収集された多数の史資料が収蔵展示されている
・行事に合わせて茶会を催し、不定期に展示品の入れ替えも行っている
・館内の展示品の数々(進藤さん⦅右の女性⦆の案内で)
以上で、今日の講座は終了です。
2回の講座を通して、今を生きる私たちが、それぞれの時代に生きた人々の思いや願いを知り、次の発展に繋げるうえで、碑や史資料をもとに真実を探求することの大切さを学びました。
最後に、受講者の感想を紹介します。
「第2回樽川地区の碑と了恵寺を訪ね、村山(郷土研究会)会長のお世話で今回もとても詳しく歴史を学ぶことが出来、感謝に耐えません。運営委員の皆様いつもご苦労様です」
「さすが!すばらしい歴史散歩。ひと巡りの時間設定もお見事。大変わかりやすい解説ときめ細かなすばらしい資料。新鮮な感覚で発見のある充実した学びの時間となりました。村山先生の歴史散歩、実は多くの石狩市民に聞いてもらいたいと思います」
「前回同様、大変内容のある講座でした。特に、石狩地域の変せんについて良くわかりました。了恵寺の宝物は、またゆっくり来たいと思います。ありがとうございます。スタッフの皆様に感謝します」
「私も含め高齢者のため、村山先生のお話も数年たつと忘れてしまうので、同じコースで良いから再度訪ねてみたいです。特に村山様の元気なうちに期待しています」
「天気も良く、楽しく石狩の歴史を学ぶことが出来ました。担当の方々、本当にご苦労様でした。村山先生、有難うございました」
「ブラタモリ石狩、先人達の苦労がよくわかった。横井めぐみさんと石狩の関係。砂山は地質の専門家によると、手稲山の地滑り土が石狩川に流出、湖のバランスで堆積されたものとのこと」
「非常に良かった。今迄の歴史講座の資料を一冊にまとめてほしい(優良)」
「後世に残すことが大事だとつくづく思いました」
「了恵寺は栗木や法蔵館等、再訪の価値あり」
「あらためて石狩の歴史の深さを認識しました」
「何よりも天気が良くて石狩歴史編、大変勉強に成りました。感謝です」