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まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」

第2回「札幌の町を構想した島 義勇の佐賀の旅」

2023/03/15

 3月9日(木)、まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」の第2回「札幌の町を構想した島 義勇の佐賀の旅」を石狩市花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、郷土史研究家の武石 詔吾さん、受講者は33名でした。
 2回目の今回は、佐賀出身の島 義勇についてのお話です。
◇今日のお話
1.島 義勇の経歴・役職
2.札幌での取り組み・足跡
3.生誕地を訪ねて
4.島 義勇は佐賀七賢人のひとり
5.まとめ

 本論に入る前に、島 義勇の銅像が札幌市内に2体建立されており、講師がまとめられた「北海道の『銅像』建立の歴史」の年代別の銅像建立数についての説明がありました。
 
23,mati6,2,1.JPGのサムネール画像のサムネール画像
銅像の建立数を年代別に見てみると、明治5体、大正5体、昭和戦前15体、昭和戦後
20年代7体、昭和30年代9体、昭和40年代(42年が開道百年)18体、昭和50年代10体、昭和60年代3体、平成14体となっている。年代別で多いのは昭和40年代ですが、これは42年が開道100年にあたりそれに合わせて多くの銅像が作られたもの。
人物別で多いのは3体の松浦武四郎、石川啄木です。2体は、クラーク、高田屋嘉兵衛、大友亀太郎、榎本武揚。一番新しいのは伊能忠敬で平成30年、福島町にある。

1.島 義勇の経歴・役職
・1822(文政5)年、佐賀藩島市郎右衛門の長男として生まれる。
・1847(弘化4)年、家督を継ぐ。
・1858(安政4)年、藩主の命で箱館奉行所堀利煕(ほりとしひろ)の下で蝦夷・樺太探検をする(資格は中小姓)。この時、榎本武揚もいた。
・5月11日頃箱館を出発し、寿都、銭函、石狩と日本海沿岸を巡り宗谷から樺太に入り、網走などオホーツク海岸を経て厚岸、釧路から広尾、浦川、室蘭、長万部と進み3月7日に箱館着。その後5月上旬まで箱館滞在。
・探検の記録 入北記(雲・行・雨・施)に記す(植物などの記録も多い)。
・戊辰戦争後明治期
日本海軍第1号艦の観光丸艦長、会計局判事、蝦夷地開拓事務等歴任。
・明治2年
開拓使(開拓使は、文部省、外務省、大蔵省などの省と同格であった)主席判官となる。開拓使初代長官は佐賀藩主鍋島直正。判官は、島義勇、岩村通俊、松浦武四郎等6人。
※歴史ひと口メモ
函館から札幌へ⇒島は、函館を明治2年10月1日に出発、森、八雲、長万部、磯谷と進み、磯谷から厳内(岩内)までは往路は船で、帰路は陸行、余市、小樽を経て10月12日に銭函開拓使仮役所着、11月10日に札幌着。帰りは、明治3年2月11日出発、函館に2月23日頃着。
稲穂峠頂上で作った漢詩の碑が平成2年に設置された。
・明治2年11月10日に札幌に入った島義勇は札幌本府建設に取り組んだ。
※明治初期の札幌都心部の人口は、2戸7人。渡守として、志村鉄一、吉田茂八の名が残っている。
◇島 義勇の「石狩国札幌本府指図」
・松浦武四郎は、石狩を調査して、幕府に札幌に首府を置くべきと進言。
・志村・吉田・早山清太郎等の案内で国見⇒コタンベツ(北海道神宮裏参道の小山)からの眺め⇒本府構想が固まった。
◇札幌の町づくり―島 義勇の基本構想
・現在の南1条通りの大友掘(現創生川)を東西南北の基本の線として、東西に幅42間(約76m)の大通(防火対策)を設ける。
・大通の北側に官庁を定め、300間四方を本府敷とし、一間幅の堀(防衛的意味)を設け、その前方に間口50間奥行60間の敷地の長官官邸、判官邸等役人の官舎敷地を設定。ほかに学校、病院、倉庫や市政、刑法の各官舎の敷地等をとる。
・大通の南側は商家区域とし、西は円山の麓まで。市街地は縦横に碁盤の目状の区切りを予定。
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・ここを北辺の守備にすることや札幌を「北京」と改称して天皇の避暑地とする。
・札幌町づくり発祥の地
島が町の起点とした南1条西1丁目の創成橋東裾に、「札幌建設の地」碑が建っている。
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◇工事にあたっての決意
藩主あての書簡の中で、決意の漢詩を作っている。
「遠くに石狩川が悠々と流れ、一方は手稲の峰々が屏風を立てたようにそびえている。広々とした平原は、千里の彼方まで続き、しかも地味は豊かである。ここに北海道本府を開けば、交通は北海道はもとより、国内外の各地にも通じて便利で、本府を開くにはまさに最適の場所である。将来は、世界一の都市になるであろう」
・本府建設の様子
岩船修三による「札幌本府の建設」と云う画に描かれている。
※歴史一口メモ
本府建設時のエピソード⇒寒さが募る時は犬を抱いて寝て、夜通し焚火を絶やさなかった。
2戸7人だった札幌の住民は、明治4年には216戸624人となっていた。
アイヌも7家族40~50人ほどいた。本府建設の折には、山案内や牧夫として働いたが、明治6年頃のサケ漁禁止によりアイヌは次第に姿を消した。 
島義勇罷免後は、岩村通俊が町づくりを引き継いだ。
◇島義勇の罷免(明治3年2月9日)
※明治初期は諸藩分領であった。また、小樽、高島、石狩は兵部省(旧長州藩が主流)が支配し開拓使と対立していたが、明治3年1月に開拓使管轄となった。
・建築費6万両(現在の30億)を3か月で使った。
島は太政官に「大きな案件は長官(2代長官は東久世通禧)に伺うが小さな案件は自分で決済」との伺い書を出して承認を得ていた。
※歴史一口メモ
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)から島義勇への手紙・通知等
・「石狩の原野を開いて官舎を作るには6万両では足りず来年7月8月しか持たないであろう。そこで部下を東京に派遣して22万両の予算増加を申し込む」。
東久世は、島に「御用があるので上京するように」通知。
東久世通禧長官、明治3年1月に上京(島の処遇と建築費の協議)。
東久世長官は、得能判官に10万3000両を持ち帰らせる。
・罷免の原因のひとつ
場所請負制度を独断で廃止(余市、忍路、古宇、美国、岩内、厚田、積丹等の請負)
※場所請負制度:松前藩が商場の経営を請負人に任せ、運上金を納めさせる制度。
場所請負人は、権小主典等に登用し、米・味噌等を供出させる方針。
・明治3年3月2日、島は札幌を去る。
・明治3年8月に札幌入りした東久世長官は、「島判官の成績、規模は感嘆すべきものなり」と語った。

2.島義勇の札幌の足跡
①銅像
・札幌市役所ロビー 建立年 昭和46年 制作者 山内壮夫
現在の札幌市役所竣工の折、札幌の町づくりに貢献したことを讃えて建立された。
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・北道神宮境内 建立年 昭和49年 制作者 山内壮夫
島義勇没100年、札幌神社の北海道神宮昇格10年を記念。
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②碑、神社
・島判官紀功碑(昭和4年:全高6m)
・開拓神社(昭和13年)37人の中の1人(当初36人だったが後で依田勉三が加わった)
③北海道神宮境内の桜と菓子
・北海道神宮の桜 明治8年島の従者福玉仙吉が島の死を悼んで150株の桜を献納した。そのことを記念して大正5年に献納桜百五拾株碑が建立された。
・餅菓子:判官さま
六花亭の開拓使判官島 義勇に因んだ餅菓子。北海道神宮限定販売。
◇その後の島 義勇
・明治3年4月2日 大学少監(文部省次官職:判官職より上位)
・明治3年7月 明治天皇侍従(その後東久世通禧が侍従長就任)
・明治4年12月26日 初代秋田権令(現知事職)―この時に八郎潟干拓を構想(80年前)
・明治7年2月7日
太政大臣三条実美の内命を受け佐賀へ。佐賀県令岩村高俊(岩村通俊の実弟)と船上で遭遇。

3.生誕地を訪ねて
佐賀藩と佐賀県
・佐賀藩(35万石) 藩主は鍋島家。薩長土肥と云われる雄藩。
・江戸時代 長崎警備を務める⇒外国の情報を収集、開明的な藩。
・殖産興業⇒国内初の反射炉や大砲、軍艦。
・明治期の佐賀
明治7年の佐賀の乱後、明治9年から16年まで、長崎県と福岡県による分割統治⇒地図上から佐賀県が消滅⇒明治17年復権。
・現在の佐賀県
人口81万(令和3年)で全国42位。佐賀市:24万人。
・唐津、伊万里、有田等⇒陶磁器、吉野ケ里古墳等。
島義勇の人間形成
・義祭同盟
枝吉神陽が設立した勤皇結社。佐賀7賢人が学ぶ。
大隈重信談:これに加盟したことが予が世に出る志をたてるきっかけ。
・藩校:弘道館
8代藩主鍋島治茂が設立し、10代直正が拡張。
文武課業法(25歳までに卒業できなければ藩の要職に就けず家禄も削減する規定)⇒成績優秀者は3年間の遊学が出来る。
陽明学(知行合一)を学ぶ⇒島は水戸藩藤田東湖に学ぶ。
天下の三弘道館⇒水戸、但馬、佐賀。
佐賀の乱と島義勇
明治7年2月16日、明治政府に対する士族の反乱が勃発⇒思想的には異なる江藤新平の征韓党と島義勇の憂国党が、郷土防衛・薩長独裁排除で共同戦線を張った。
明治7年3月に、鹿児島で逮捕。
※征韓派⇒西郷隆盛、江藤新平、後藤象二郎等。
非征韓派⇒大久保利通、大熊重信、伊藤博文等。
・佐賀の乱の裁判
明治7年4月8日、9日。尋問、審理、弁護人、傍聴者、上訴等はなし。
死に臨んだ島の詞「・・こと志と違って逆賊といわれ、いま、刑場の露と消えようとしている・・七たび生まれ変わっても勤皇のために身を捧げよ・・」享年53歳。
没後42年目の大正5年「従四位追贈」され名誉回復。
※歴史一口メモ
江藤や島の裁判の裁判長はかって江藤の知遇を受けた河野敏鎌で、即刻斬に処すべき、とする大久保利通の意向を受け「主魁の江藤新平と島義勇は梟首(きょうしゅ、さらし首)、幹部11人は斬罪」の「断罪意見書」に基づき処刑。河野は金で動かされたと云われた⇒「首切代千両」。
・「佐賀の役殉国十三烈士の碑」昭和58年に建立された。
・「万部島招魂」
明治18年に建立。梟首された江藤新平、島義勇はじめ佐賀の乱の戦死者200名余の名前が角柱に刻まれている。
・島一族のお墓
「楽斎(島の雅号)島府君之墓」来迎寺。

4.島義勇は佐賀七賢人のひとり
七賢人⇒鍋島直正、大熊重信、副島種臣、佐野常民、江藤新平、大木喬任、島義勇。
※歴史一口メモ
東京遷都⇒大木喬任(おおきたかとう)と江藤が岩倉具視に建白。大木は、初代東京府知事。
・平成30年、佐賀に「島 義勇像」が建立される。
近くに、エゾヤマザクラが植樹されている。
※島の佐賀での知名度は案外低い。
※歴史一口メモ
落城間際に書き残した詩。
「維新により神世純朴の風に戻ると願っていた・・旧藩主ら元老を用い、内に仁政、外に武威を張り、封建郡県制を再建せねば、とても神州を治めることはできないであろう・・」。
尊王攘夷者にして、時代に即応しない、思想的に転身、転向もしない人物であったか。

5.まとめ
島が活躍した理由。
・本人の持って生まれた能力。
・思想構築に影響を受けた環境は、義祭同盟、藩校(弘道館)、遊学で交流した人物等
・引き上げてくれた人物及び人脈との遭遇
鍋島直正や賢人達。
・明治維新の時代の流れ、趨勢等。

 以上が本日のお話ですが、わずか数か月しか居なかった島義勇が構想した札幌の町の基本的な配置は150年経った今日までしっかりと残されていて、いかに先を見据えた構想だったかが分かります。島義勇は、どちらかと云うと前回の黒田清隆等に比べて知名度の高くない人物ですが、その業績が良く分かるお話でした。
23,mati6,2,3.JPG
 最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「時代の流れで反政府人としての評価となっていますが、もし生きていれば、まだまだ大きな成果を残せたのではないかと思いました。大変豊富な資料での話でしたが、分かり易かったです」
「断片的に知っていた明治初期の知識が本日の武石さんの話でかなりつながり、非常に参考になった」
「大変興味深いお話で楽しく聞き学ぶことが出来ました。歴史一口メモも良かった!特に島義勇については、十分知識もなく(札幌市の・・)という感覚でしたが、この度のお話で理解が深まりました。ありがとうございました」
「話し方が早口調で聞き取り難い所がありました。史蹟の資料をよく調べた事に感心しました」
「島義勇が北海道を離れてからのお話をあまり聞く機会がなかったが、詳細を説明していただき初めて知る事も多く良い講演会でした」
「島義勇については多少の知識はあったが、より詳しい講義内容でとても面白かった」

  
  


  




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