令和5年4月27日(木)主催講座2『石狩川治水の歴史』の第1回「岡崎文吉とその事績について」を石狩市花川北コミュニティセンターで行いました。今回の講師は北海道産業考古学会会長で酪農学園大学元教授の山田大隆さん、受講者は46名でした。
山田さんは北海道産業考古学会会長のほかに産業考古学会理事や北海道遺産協議会監事、日本イコモス国内委員会委員なども務められ、産業考古学の意義と役割の重要性を認識されておられますので、講座は「産業考古学とは何か」から話を始められました。
1.「産業考古学」とは何か?
・一般に知られている考古学は対象が古代や中世であるのに対し、産業考古学は近代、特に1770年頃から始まった産業革命以降を対象としている。産業革命では動力が馬から蒸気機関車に変わり、それから鉄道などが生まれた。
・1950年頃廃止される英国の産業遺産を従来の考古学の手法で調査・研究し、それを町おこしに活用したことが「産業考古学」の始まりだと言われている。
・産業遺産(Industrial Heritage)とは過去の産業活動の結果として残された有形資料(工場、運河、鉱山、機械、港湾、鉄道、建築物、ダム等)であり、産業技術の発展や地域社会の発展に重要な役割を果たした産業文化遺産です。
・日本では1977年に日本産業考古学会が始まり、北海道産業考古学会は翌年の1978年に発足した(講師の山田さんは5代目の会長)。
2 北海道遺産
・平成13(2001)年の第1回選定から第4回選定(令和4(2022)年)まで総計74件の北海道遺産が選ばれた。
・昨年は石狩治水遺産研究会から岡崎文吉の遺産が提案されたが、残念ながら選にもれた。北海道遺産として有望であるので次回の選定を期待している。
3 石狩川治水の創始者 岡崎文吉
・岡崎文吉(1872ー1945)は岡山県出身。幼少から秀才の誉高く、15歳で地元の私学英学院で教師(経済、歴史、史学)を務めた。
・札幌農学校の9期生として入学したが、同校2期生で海外留学後札幌農学校工学科初代教授となった廣井勇の勧めで工学科1期生として再入学した。廣井に認められて首席の成績で卒業、ただちに22歳で助教授となった。廣井はのちに東京帝国大学工科大学教授となり、日本近代港湾建設の創始者として活躍した。
・岡崎の北海道開発における業績は、最初に欧米運河技術を導入しての石狩平野4大運河(銭函、創成、幌向、長沼)の建設、石狩川治水で生振捷水路の開削(石狩川の蛇行改修、直線化による洪水対策)、安価で効果的で世界的に認められた単床ブロック「コンクリートマット法」の開発・施工などで治水に成功した。
4 大友堀と運河建設
・札幌市が北海道開発の中心地となって、慶応2(1866)年に大友亀太郎(幕臣、神奈川県小田原市出身)が大友堀(全長4.5km)を建設した。
・大友堀は創成運河として、明治3年に吉田、寺尾らによって南北が延長され、さらに岡崎文吉によって石狩川河口の茨戸まで10km延長された(明治30年竣工)。その際、岡崎は当時の最新土木技術である階段式運河法を採用した。パナマ運河に先立つ新しい工法であった。
・創成運河を茨戸へ延長結合することにより、小樽の物資が銭函―花畔運河で茨戸に輸送され、さらに茨戸から創成運河で札幌中心部へ大量輸送される体系が確立し、札幌の急速発展に寄与した。
5 岡崎文吉の石狩川治水事業
・岡崎は札幌運河竣工後、母校札幌農学校助教授を兼任しながら、師廣井の指示で道庁技師として石狩川治水事業に取り組むことになった。初代の石狩川治水事務所長となり、最新の土木工学を適用して治水に成功した。石狩川治水の父と言われている。
・石狩川(日本第3位の流域面積)は石狩平野部分で極端に緩い傾斜の中で蛇行し、江別市区では急角度で蛇行、河口は砂が溜まって閉塞するため、雨が降ったら増水してよく氾濫した。
・本州の河川では護岸で治水するのが一般的であったが(内務省土木技師沖野忠雄らの治水工法;フランス式剛性護岸法)、岡崎は上記のような石狩川を治水するためには河川形成の自然法則を尊重して人工改修は最小限とする柔らかい護岸法(自然水利学の柔性護岸法)が最適と考えた。岡崎と沖野は対立する形となった。
・柔らかい護岸法の典型として岡崎が採用したのは「コンクリートマット法」である。洪水で岸が壊されても、コンクリートマット法は安価なので何回も作り直せるというメリットがある。
・コンクリートマット法とは、15cm角で60cm長のセメント製の単床ブロック(羊羹型)を、端から3分の1の箇所に2ヶ所の孔を開け、鉄線(亜鉛メッキのピアノ線)を貫通して網目状に結び、30m×50mのマットにして河岸の壁面に敷く工法である。独創的な工法であり、氾濫時期の石狩川を長期にわたって治水することに成功した。
・岡崎のコンクリートマット法は国外で高く評価され、米国のミシシッピー川の護岸で実際に使用されて成功を収めている。
・石狩川治水で忘れてはならないのは生振捷水路の開削です。岡崎は石狩川治水工事事務所長時代の明治42(1909)年に「石狩川治水調査報文」をまとめ、その中の石狩川改修計画書で生振捷水路を提案している。実際に工事が開始されたのは大正8(1919)年、石狩川の湾曲蛇行していた部分をカットして直線的な流れに改修する大工事であった。最終的に延長3,655m、幅約870mの生振捷水路ができ、石狩川治水に大いに役立った。
6 岡崎文吉の活躍
・岡崎の石狩川治水技師時代(明治2年―大正6年:26―46歳)は評価と排斥の入り混じったものであった。時系列的に示すと以下のようになる。
明治29年 道庁課長就任(25歳)
明治30ー31年 札幌豊平橋(最初の鋼鉄橋)設計(26歳)、石狩川総合治水取り組み開始(27歳)
明治32ー34年 道内港湾調査(28ー30歳)
明治35年 欧米調査(道庁派遣、治水工事・鉄道技術修得)
明治37年 石狩川洪水流量調査(33歳)[日本初の定量的調査;川の断面積と水流量から定量的に調査]
明治43年 石狩川治水工事事務所長(37歳)
明治44年 単床ブロック使用を土木学会で提唱(40歳)
大正3年 東大より工学博士授与(単床ブロック工法が評価)(44歳)
大正4年 丸善より「治水」出版(45歳)
大正6年 石狩川治水工事の報文(46歳)[岡崎の自然水利学方法の集大成]
・海外において治水工事を指導・支援した(大正9―15年:49歳―69歳)。
大正9年 中国の遼河工程司長として赴任(49歳)
昭和4年 同司長を辞任(単床ブロック工法での大規模治水事業に成功、世界的に高く評価された)(58歳)
昭和15年 遼河改修工事記録(満鉄出版)(69歳)[海外治水技術支援の集大成]
昭和20年 東京茅ヶ崎の自宅で逝去(74歳)
・中国から帰国後晩年を過ごした茅ヶ崎の自宅の庭には、岡崎が生前に建てた墓碑が今でも残されている。
今回の講座は豊富な資料を使っての話しで、好評のうち終了しました。
最後に、受講者の感想や意見のいくつかを以下に紹介します。
「岡崎の人物像のお話が大変おもしろかった」
「石狩市はサケを主とする漁業の歴史が多く紹介されているが、札幌を中心とする開拓史における創成川、銭函運河の役割とそれを掘削した岡崎について、もっと知るべきである。茨戸周辺は治水的にも重要で、もっと理解すべきである」
「大変専門的、学究的なお話しだったと思います。岡崎文吉の人となり、業績についてていねいな解説をしていただきました。多岐にわたる土木工学のお話しで、やや難しさを感じましたが、興味深い内容でした。ありがとうございました」
「岡崎文吉の話ということで大変期待して参りました。短い時間内での話はなかなか難しかったのではないかと思います。岡崎文吉と沖野忠雄との対立の時の文吉の苦悩などをもうすこし聞きたかったところです。私の色々な知識がつながったお話しでした。本日はありがとうございました」
「内務省の沖野忠雄と岡崎文吉の技術論の違いは何か感情的な対立ではなく純土木技術的な考えの違いと、それぞれの今日的評価についてどうか」
「前半部分、もう少し図表を交えて説明頂くとわかりやすかった」