7月8日(土)、主催講座5「新北海道遊里史考」の第3回「箱舘から道東へ、ある妓楼一族の足跡を辿る」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、民衆史研究家の石川圭子さん、受講者は43名でした。
前回は、薄野遊郭の誕生から白石への移転までの経過や神仏習合と廃仏毀釈、花輪喜久蔵の建築物の足跡などのお話でしたが、今回は箱館の遊里事情とある一族の道東への移転についてのお話でした。
1.金毘羅山と高田屋嘉兵衛
①金毘羅山
・金毘羅山と云えば讃岐の金毘羅さん(香川県仲多度郡琴平町)が名高いが、元々真言宗で神仏習合の金毘羅大権現を祀っていたもの(明治以降は神仏分離令により神社へ移行)。
人々に広く親しまれていた宗派だが、19世紀中頃より海運の守り神として漁師や船員、海運業者な
どの崇敬を集めた。また、花街では金毘羅山を開くと栄えると信じられていた。
②高田屋嘉兵衛(淡路島生まれ)
・国後、択捉島までの航路を開拓したことが箱館の経済効果につながった功績により、幕府より「蝦夷地定雇船頭」に任命され、苗字帯刀(江戸時代の身分標識。明治になってからは、8年の「平民苗字必称義務令」で一般庶民にも苗字が義務付けられた)を許された。
・根室に金毘羅神社を創祀(1806⦅文化3⦆年)。
2.箱館の遊郭
・木版画「函館真景」明治15年浅野文輝(函館)/渡辺寅蔵(後述の渡邊儀三郎)が発行。
明治11年~12年の大火の復興の過程で大規模な街区整理が進んだ函館の様子を描いている。
・妓楼の楼主は、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八つの徳目をすべて失った者として、忘八と呼ばれた。⇒郭内の人々は、一般社会では差別されていた。
・1822(文政5)年、幕府は築島(高田屋嘉兵衛が造船所をつくっていた)に遊女屋五戸の出張を許した。
・1858(安政5)年、幕府は外人の遊興を許可し、山之上町の遊郭内に「異人揚屋」を許可。
・有無両縁塔
1864(元治元)年、楼主たちにより建立された遊女たちの供養塔。台座に引き取り手がなく供養された女性たちの名が刻まれている。
・1865(慶応雁元)年の山之上遊郭
「有無両縁塔」説明板によると、遊女屋25軒、遊女329人、引手茶屋(遊郭へ客を案内する茶屋)21軒、異人揚屋1軒、男芸者5人、女芸者113人。
・1868(安政5)年、箱館奉行所は山ノ上遊郭として公認した。
・山ノ上遊郭の大火
明治4年、「切見世火事」が発生、1,123戸を焼失。遊郭は蓬莱町へ移転した。なお、この頃の函館には山ノ上町と新築島の2カ所に遊里があった。
・蓬莱町遊郭
明治5年、函館支庁は遊女屋株25軒、引手茶屋株25軒とし、替地に新築し営業を始めた者へは新規営業を認めた。この時、髪結いや鮨屋、荒物屋、風呂屋など多種多様な商売人が同時に移り住み遊郭を中心としたあらたな文化圏が形成された。
3.函館遊郭に関わる人物たち
①桃木森三郎(楼主)
・明治6年に起きた「屋根屋火災」の際、金20円を寄付した。
・蓬莱町で貸座敷(遊女屋)を営んでいた。
いずれも、北海道立文書館所蔵の古文書が残っていて、桃木森三郎の存在と職業が分かる。
・明治6年~9年の頃の蓬莱町89番地の開拓使函館第16大区の地図に桃木森三郎が百七十五坪の土地を所有していたことが掲載されている。近くに、女紅場(遊女たちの学校、土地はかって高田屋嘉兵衛が所有していた)があった。
・富原章著「箱館から函館へ」(財団法人函館文化会 発行)の地図にも、桃木森三郎の住居が記載されている。
・桃木森三郎は、明治11年の函館新聞に妓楼の売却広告を出した。⇒手を上げたのは(売却ではなく賃貸であった)、武蔵野楼(楼主は武蔵野清次郎。新政府軍の総攻撃を前にして箱館政府軍が宴会を開いた妓楼。その時新選組の土方歳三らも参加したと云われる)。
・明治12年、地蔵町消防演説会へ50銭を寄付(函館新聞)
・これ以降、新聞などに消息がないことから、あるいは明治12年の大火で被害にあったか?
②渡邊勇助(桃木森三郎の娘・桃木マサと結婚)
・新潟県燕市の豪農阿部兵右衛門の次男
・阿部氏の次男がどうして渡邊なのか?⇒阿部勇助が渡邊儀三郎の養子となった際の除籍簿が存在。
・函館の渡邊姓の人物で著名なのは、渡邊熊四郎。屋号を森屋としカナモリと云う海産商を営んだ。函館新聞も発刊。渡邊勇助とは戸籍上は無関係。
③渡邊儀三郎
・渡邊勇助とは同じ年であるが、勇助を養子とした。渡邊寅蔵とも名のる。兄は、西村傳兵衛。
・明治11年、戸長に採用される(住所地蔵町20番地⦅酒屋の夏堀萬右衛門から譲り受けたと思われる⦆。北海道立文書館公文書)
※(夏堀萬右衛門は、明治15年釧路大成寺建立時の寄進者として位牌に名が刻まれている⦅資料提供 浄土宗無量山 大成寺⦆。大成寺創建の頃、釧路の和人戸数は100戸ほど。位牌に刻まれた12名の内9名は明治14年に釧路戸長役場に就任。他の3名の内、「米山ヤス」は永住者の戸主として記載される。米山家は、明治10年以降料理屋及び貸座敷業の経営者。また、夏堀は、曹洞宗釧路山 定光寺にも寄進している)。
・明治11年、函館市街全図・地図を植田清治とともに出版発売。
・晩年は小樽で過ごす。
明治16年小樽山ノ上町の払い下げを受ける。
・明治42年・大正12年 小樽仲立業
利尻島 沓形回漕店
・昭和3年 海産物 色内6-46(帝国信用録記載)
④西村傳兵衛(渡邊儀三郎の兄)
開拓使美々鹿肉罐詰製造所の管理人のような仕事をしていた( 明治11年開拓使文書)
鹿はアイヌの人たちが獲ったが、西村はアイヌの青年たちの斡旋をし、苫小牧村18番地にアイヌの寄留地を設けた。
傳兵衛は、明治7年苫小牧村18番地で貸座敷設置を出願(苫小牧における正式な女郎屋の始まり。苫小牧町資料―人事関係)
その後、貸座敷業はやめ、旅篭屋渡世を出願、総代人(村会議員の前身のような職)になった(苫小牧市下巻)。
明治14年、龍谷山 本願寺創立の際、寄進(星野和太郎著 「北海道寺院沿革誌」)。
・苫小牧市史下巻 遊郭の変遷
勇払地方では夏場だけの出稼漁だったので女郎屋の設置には至らず、出稼漁夫はアイヌ女を求め、「ネコにカツオ節・南部集にメノコ」と云われた。
また、イザベラ・バードは、アイヌ女性たちの楽し気な様子を「日本紀行」に記述している。
4.函館から釧路へ
経済人が、函館から小樽へ、さらに道東へと進出していった。
釧路の開発
・明治4年、厳島神社の草地に草小屋の貸座敷ができた。
・釧路の移民計画は、漁場の役割とともに釧路川を利用した内陸部への入植を可能とする河口港としての役割もあった。
・釧路川中流の標茶では権力による集団移住(強制収容)があった。
・小樽と共に特別輸出港となり、釧路集治監が設置され、アトサヌプリ硫黄山での囚人使役が行われた。
・山田慎(福井市生まれ)
明治16年函館区で山田銀行を設立。明治18年、釧路・佐野孫右衛門よりアトサヌプリ硫黄鉱の採掘権を譲渡され、釧路集治監の囚人を使役した。その後、硫黄鉱・炭鉱ともに安田財閥に譲渡。山田銀行廃業。網走(現・大曲)に大規模な製軸所(マッチの軸木)を操業。工場では、北海道集治監網走分監の受刑者を使役。
・釧路港は明治33年に開港。明治42年、帝国議会で大規模修築予算が決議される。
・渡邊勇助は、明治34年~大正4年(52歳~66歳)釧路市浦見町5丁目へ転居。
・同時期(明治41年1月から76日間)石川啄木が釧路に居住。
・新聞人であり政治家でもあった白石義郎も啄木とともに釧路へ渡り、釧路新聞社を創立(兼小樽日報社社長)。また、勇助が住んでいた浦見町は立憲政友会の拠点だった。立憲政友会の大立者の木下成太郎も白石とともに自由民権運動に加わっていた。ただ、当時の民権とは真の民権とは云い難かった。
釧路の経済が活況を見せていた時代は、全国で新聞の創刊が相次ぎ日清、日露戦争の開戦とともに発行部数が伸びていった。和田藤吉著「北海道の新聞と新聞人」(北海春秋社発行)は、この間の事情を明らかにする好著。
・釧路米町遊郭
大正中期~末期が全盛期。
大正9年~10年の妓楼数19軒。娼妓数、約220人。遊客数がもっとも多かったのは、大正8年で約8万人。
5.渡邊勇助網走へ
渡邊勇助は、大正4~8年(66~70歳)、網走町大字北見町中通り7-6で、料理屋「マルサン」を営む。
写真の赤ん坊は、渡邊正光(金澤正光)。1912年撮影。
渡邊勇助は、1919(大正8)年、6月26日没。
以上が本日のお話の概要ですが、この講座の特筆すべき点は、どんなお話にも必ずきちんとした資料の裏付けがされていたことです。過去の人物の存在や業績を証明する資料を探すのは大変困難をともなったことと思われます。石川さんの粘り強い努力には頭が下がる思いです。3回のお話の中でその努力の一端を垣間見ることができました。ありがとうございました。
最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「とても印象深いお話でした。本も読んでみたいと思いました。イザベラ・バードの本も。お若い先生なのでこれからも研究、頑張っていただきたいと思いました。ありがとうございました」
「学んだことのない『遊里史考』を勉強することができました」
「よくぞ調べました。探求心と実行力に脱帽!まだまだネタは尽きないようなので、ぜひ続編もしくは全10回くらいのシリーズ講座を希望します」
「せっかくの講義の声、あまり良く聞き取れず調整(を)何度もしてくれているのに申し訳ありませんね」
「北海道の開拓史と人々の動きが伝わって非常に興味深かったです。更にお話を伺いたいと感じました」
「今まであまり知らないできた内容のおはなしで貴重な講座でした。女性の最古の職業ともいわれたことにも納得の思いで、歴史を作っている事実を知る機会になりました。複眼的に人間の姿や歴史をみていかなければ・・と感じさせられた石川さんのお話に感謝しています」
「遊郭の歴史が、本質が少し分かった感じです。悲惨さ、残酷さ、胸を締め付けられる思いです。女性がいかに苦しめられていたか、気持ちが重くなります。3回の講座だけでは全然足りません。また講座を開いて頂けるのを期待しています。ありがとうございました」