7月20日(木)、講座4「石狩市を取り巻く地震・津波環境と防災」の第3回「自然災害対策への取り組み見学」を行いました。講師は前回同様、廣瀬 亘さん(北海道立総合研究機構産業技術環境研究本部エネルギー・環境・地質研究所主査)、受講者は33名でした。
バスは午前8時、中山峠経由で有珠・洞爺湖へ向けて出発。天気予報は曇天で気温25度前後の予想。講師の廣瀬さんには、車窓から見える風景(地形の成り立ちや観察のポイント)、見学場所などについて解説していただきました。以下、概要を紹介します。
〇 本日の見学学習行程
08:00 石狩市民図書館 発
11:10~12:10 洞爺湖ビジターセンター・火山科学館
12:20~12:35 旧三恵病院
12:45~13:25 昼食:有珠・昭和新山駐車場周辺
13:25~14:05 三松正夫記念館
14:20~14:40 道の駅 そうべつ情報館
18:00 石狩市民図書館 着
〇 中山峠を下り喜茂別へ向かう車窓より
・尻別岳:円錐形の火山
数万年前に活動した火山。現在は活動停止している。植生も回復して緑豊かな山となっている。富士山のような形をした円錐形の火山で、溶岩ドームからなる急斜面では雪崩が発生しやすくなっている。
・羊蹄山:活火山
10万年前頃から活動を始めていたよう。富士山のような円錐型の火山体を造ってはこわしを繰り返し、その後再び繰り返された噴火で成長して現在のような山になった。山頂の火口からは5000~2500年前に噴火が起きている。
・活火山:過去1万年間に噴火したことがあるか、活発な噴気活動がある山をいう
・羊蹄山も調べると、地下30㎞ぐらいのところで小さな地震活動(低周波地震)が見られ、今後に噴火する可能性は必ずしもゼロではないだろうと考えられる
・中山峠から見える山々も実は火山
この地域は、ニセコ周辺の古い活動(100~200万年前)の火山、尻別岳のように新しい火山など場所を変え活動を繰り返した地域。なので、羊蹄山が活動をやめてもまた別のところで活動を始めるだろう。
・ルスツスキー場:尻別岳の一部に作られたスキー場。東側にあるイーストマウンテンなどのコースも、300万年前に活動した火山の緩やかな斜面に開発された。
〇 喜茂別から有珠山・洞爺湖へ向かう車窓から
◇ 平坦でなだらかな地形は洞爺湖の影響
・深い谷とか高い丘などの起伏に乏しい、なだらかな地形。ジャガイモ、デントコーンなどの農作物を大規模な面積で栽培している。
・洞爺湖はカルデラ:カルデラとは、直径数㎞もあるような巨大な火口から火山灰や軽石が噴き出して大きなくぼ地となったところ
・洞爺湖の噴火は、今から10万6千年ぐらい前。噴き出した大量の火山灰と軽石は、高く吹きあげられて成層圏に達したものは北日本全域に降っているが、吹き上がり切れなかった大量の火山灰は火砕流となって周囲へ流れ下り、元々そこにあった起伏に富んだ地形を埋め尽くして火山灰でできた台地をつくった。
・火山灰が厚いために水はけがよく、そうした環境に適した作物を植えている
・有珠山が1663年(江戸時代)に噴火し、有珠山から北に離れた洞爺村~真狩にかけても火山灰が降った。火山灰は酸性が強いなど農作物に良くない影響を与えるイメージがあるが、この噴火では粘土鉱物(モンモリロナイト)を多く含むややアルカリ性の火山灰が降り積もった。結果として、平らで広大な台地の地形と植物の生育に向いた土壌が揃い、一大農業地帯となっている。
・洞爺湖・有珠に近づくと火砕流がさらに厚くなるため、起伏がより少なくなる
◇北海道の他の地域
・美瑛・上富良野あたりは百万年前の火砕流、支笏湖周辺は4万6千年前、女満別空港から東藻琴あたりは11万5千年前~4万年前に、それぞれ近くのカルデラで発生した巨大な火砕流噴火でできた地形
~どの地域も、土壌や地形のメリットを上手く生かして土地を利用し生活している~
〇 火口を登って洞爺湖・有珠山地域へ
最近数百年間繰り返し噴火が起こっていた地域で、住民は有珠山の火山活動の特徴を知り、山とうまく折り合いをつけて暮らしていこうとしている。
◇有珠山:活火山
・3万~4万年前から活動開始、その後長い休止期に入る。約460年前に活動を再開し、現在までわかっているだけで9回噴火を繰り返している
・最近では20年から3、40年の間隔をあけて噴火を繰り返し、次の噴火へ向けて地下ではマグマとエネルギーを溜めているであろう状態
・この地域は温暖な気候だったので、アイヌの人や本州から渡ってきた和人が多く住んでいた。一方で、噴火があるとその影響を受けることになる。
・1822(文政5)年の噴火では、100人以上が亡くなっている
・1910年(明治43)は、地震から噴火までの時間があったこともあり、ほとんどの人が噴火前に避難することができた
◇三松正夫さんについて
・地元の郵便局長として1910年の噴火を経験
調査にやってきた科学者たちを現地で案内した。火山の噴火によって何が起こるか、観測の仕方を学び、いずれまた噴火が起こるだろうことを実感した。
・1943(昭和18)年、昭和新山の辺りで地震が増えはじめる。やがて噴火が始まり地盤が隆起し、昭和新山が生まれることとなる。
・戦時中のことでもあり、三松さんは自分で記録を残さなければいけないと考え、昭和新山が成長するさまを、科学的な手法で定点観測し記録した(ミマツダイヤグラム)。
・1977年の噴火:火山性地震の増加から噴火まで32時間しかなく、住民や観光客の目の前で噴火が始まった。
・たまたま火砕流が起きなかったので、噴火そのもので亡くなった人はいなかった
・噴火から1年後の大雨時、有珠山に降り積もった火山灰から泥流が発生。2名が亡くなり、1名が現在も行方不明。
◇地元の意識の変化
・1977年からの噴火が終息した後、地元では火山噴火の記録や記憶を残そうという動きが次第に大きくなった。
・2000年の噴火では、地震から噴火まで3日間の余裕があったため、事前に避難をほぼ完了。直接亡くなる人はでなかった
・有珠山でどのような噴火が起こってきたのか、それに対して地元の人たちがどのように向き合ったのか、それらの記録や記憶を伝え、自然災害には率先避難者として行動する、「洞爺湖有珠火山マイスター」が活発に活動している。
〇 カルデラの中、洞爺湖へ
・洞爺湖の中島:5万~4万年の間に活動した火山
・有珠山:最近400年間は粘り気の強いマグマが活動し、激しい噴火だけでなく、著しい地殻変動を伴う溶岩ドーム・潜在ドームを多く形成している。
・新しいトンネル:2000年の噴火後に避難路として作られた。
〇 洞爺湖ビジターセンター・火山科学館
1977年、2000年の噴火でなにが起きたのか、映像と遺構で実感する
◇火山科学館
・シアター有珠山噴火
有珠山の火山活動を2000年有珠山噴火の貴重な映像を中心に、3面マルチビジョンの迫力ある映像で鑑賞。
・床面展示
・噴石が落下しクレーターの出来た舗装路面
・地殻変動により曲がった函館本線のレール
・火口の周辺には大きな噴石が降りそそいだ。
この様な噴火の痕跡を保存することで、23年前に起こった噴火の記憶や記録を伝えていく事ができる。
・洞爺湖ビジターセンター
◇金毘羅火口災害遺構:洞爺湖ビジターセンターの駐車場裏側
・2000年の噴火では金比羅山の斜面から流出した熱泥流が麓の団地や公衆浴場に流れ込み噴石が直撃し、大きな被害をもたらした
・撤去しようという動きもあったが、噴火の記憶を後世に残していくために遺構を残した。この団地に暮らしていた方が火山マイスターになっている
・噴火後23年経て、植生が回復しつつある。100年経つと噴火の痕跡はほとんどわからなくなり、300年経つと、植生はほぼ元通りになる。
◇泥流対策
砂防ダム、泥流提、小さなスラップなど、流路変更や勢いを弱めるさまざまな施設を組み合わせ、街への影響を最小限にして湖へ泥流を流下させようとしている。
・洞爺湖温泉町の東にある小山は、有珠山の潜在ドームの一つ。1910(明治43)年の噴火でマグマに押し上げられて隆起し、小高い山となった(明治新山。別名「四十三(よそみやま)山」)
・現在、よりスムーズな避難のために湖岸道路の拡幅工事を行っている。
◇旧三恵病院の遺構
バスを降りて坂道を5分ほど歩き、登り詰めたところに朽かけた建物があった。
建物の屋根や中には鳥が運んだ種子から育った草や木が生えている。
・1977年からの火山活動では、地殻変動が1982年まで続いた。建物の真下を通る横ずれ断層によって、建物は引き裂かれるように変形した。
有珠山の東山麓にある壮瞥町では、1977年の噴火の後、住民や行政が火山活動の記録や記憶を伝えていこうという動きが強くなった。旧三恵病院はその象徴的な存在。
・噴火の記憶や遺構を、屋内だけでなく屋外にあるものも含め、まるごと博物館として残す活動が始まった(エコミュージアム)
➞その後、ジオパークという考え方が入ってきた。エコミュージアム構想と共通の理念を持つことから、2008年世界ジオパークネットワークに加盟。
・世界ジオパークは、現在はユネスコの事業となり、地形や地質だけでなく災害の記憶や記録も、未来にこの地に暮らす人々のために残す、という動きを世界的に広げようとしている。最近は火山の多い中南米の国々からも見学に訪れている。
◇ 昭和新山を眺めながら昼食
〇 三松正夫記念館
この記念館は、火山とともに生きた三松正夫さんの人生や考え方を未来へ伝えていこうと、正夫さんの義理の孫にあたる三松三朗さんが個人で経営している博物館です。今日は、記念館前の広場で三松三朗さんから直接お話を聞くことができました。ユーモアを交えながらのお話は、示唆に富んだ貴重な時間でありました。
◇ 三松三朗さんのお話
私は活火山の所有者という顔を持っている。京都生まれで正夫さんとは血縁はない。帯広畜産大学(専攻は獣医)に入る。正夫さんと出逢い、正夫さんの生き方を引き継がなくてはいけないなと思ったことが原点にある。
・昭和新山ができる前、ここは何もない畑だけが広がっていた。
・昭和新山ができた際に、三松正夫記念館のあたりも、元々の地形から50mぐらい持ち上がっているだろう
・昭和新山が育っていく様子を、正夫さんは郵便局から見続けていた
□正夫さんから引き継いだ山と資料は守らなければいけないと考えている
・正夫さんが残している新山の記録は、ここにしかないもの
・ここの資料を見て、火山の研究者になろうとする方のために、年中無休でやっている
□ 2000年の時活躍された岡田先生や廣瀬先生が過去の古文書を分析して教えてくれた。
・有珠山は噴火の前に必ず地震がある
・地震が始まったら噴火があることを想定しなさい
自然災害では、過去の経験にこだわり、これからも前回と同じことが起こると考えるのは、危険。
□ 火山はけっして悪さばかりするわけではないが...
・明治43年の噴火で洞爺湖の湖畔に温泉が湧いた。観光地となり、全国から金持ちが集まりホテルが建った
しかし、もともとは噴火でできた扇状地。雨が降ったら土石流が流れてくる場所なのに、開発が進んで地形がよくわからなくなっていた。ために、大雨で3名がなくなった。
□ 三松正夫さんが残したもの
・我々は、住んでいる環境や、過去の事例を頭に入れて、自ら対処すること
・この素晴らしい地球に住んでいるのだから、起こることも全て我々が背負わなければならない
地球を知って、命を全うする、ジオパークと同じ精神で、ジオパークに先行して自ら実行したのが三松正夫です。
噴火が始まった時、調査にきた東大の先生方から、「噴火こそその山を知る絶好のチャンス、これを逃したらいつ出逢えるかわからない」とう話を聞いて、非国民、スパイと言われながらも残したものがここにある。
〇 壮瞥町へ
・洞爺湖:カルデラ湖で深さは180m。流れ込む大きな川はなく、出口から流れ出る川は壮瞥川。湖水面の標高は83m
・見えているなだらかな尾根は、今から1千万年前の古い火山。火山活動の恵みでもある銅や鉛、亜鉛などの鉱山があり、昭和の中頃までは、林業や鉱山が経済を支えていた
・壮瞥町は、火山のすぐそばにある。1977年のときは目の前で噴火の始まりを見ることになったが、2000年の噴火では、気象庁が緊急火山情報を出す前、地震が増え始めた段階で避難した人も多かった。
・有珠山の火山ハザードマップでは、滝之町のあたりも火砕サージが到達する範囲とされている。
◇ 道の駅 そうべつ情報館
普段は道の駅だが、役場のシステムがこの施設にもリンクしていて、火山災害が起きたときには、避難所となるだけでなく、この施設が壮瞥町役場の機能を肩代わりする。
・2階には、有珠山を中心に火山の資料が展示されている。
以上で今日の見学学習のすべてを終了。道の駅望羊中山を経て石狩へ。
廣瀬さんは中山峠への車中でも、車窓からの風景について解説してくださいました。3回に分けて行われたこの講座では、地震や噴火などの自然災害を自分にとって身近なこととして捉え、何をなすべきかを学び考えることがテーマでした。石狩や有珠山の事例について、じっくり話を聞き、様々な遺構を目にしながら考えることで、それを深く理解することができたと思います。受講生の皆さんも大満足のようです。ありがとうございました。
最後に受講生の感想を幾つか紹介します。
「天候にも恵まれ広瀬講師の上手な説明を受け、洞爺カルデラや有珠火山を取り巻く規模の地殻変動について知ることができ満足でした。30年周期で噴火する火山山麓に住む方々は、災害に負けず力強く観光や農業で頑張っている様子も伺えました」
「久しぶりに三松記念館を訪れたが、改めて三松正夫さんの生き様に感動を受けた」
「S25 年、小学校6年の修学旅行以来、昭和新山を目近に見ることができました。 とても嬉しく思いました。十勝岳のふもと育って、山の噴火の恐ろしさを知っていたつもりでしたが、こんなに身近に人々が住んでいて、度々噴火するのと、突然どこからでも吹き出す恐ろしさを感じることができました」
「今回のバス旅行で初めて自然災害の恐ろしさを実感致しました。特に昭和新山を近くで見て圧倒されました。当時の様子を細かく記録に残してくださった三松正夫さんのお仕事には頭が下がりました」
「いろいろと学習(勉強)させていただきました。外観だけ知っていても内面を深くは知ってなく、知らないことばかり多かったようで、すぐ忘れるだろう知識を増やすことの楽しみが増えました。天気にも恵まれ充実の一日でした。三松さんのお話も講師の方のお話もとても良かったです」
「洞爺湖ビジターセンター科学館に初めて寄りました。火山活動を目にし、驚きました。自然の力は到底人には及ばないことがわかり、改めて感じました」
「防災関係の施設をいろいろ見学し、お話も聞き、勉強になりました。特に三松記念館は再訪問したいです。石狩は津波避難の高い場所を早く作る必要がありますね」「広瀬講師、三松館長さん達の話はわかりやすく勉強になりました。パス発着時の指示がハッキリせず、事故のもとと思います。運営について、時間の配分がスムーズでなかったような気がします。」
「楽しく有意義な一日でした。広瀬先生の気さくなお人柄、さすがの見識の深さに バスの中での解説も充実感があり、ありがたいと思っています。改めて教わること学ぶことの楽しさを感じています」
「三松正夫氏の昭和新山への愛情の深さが伝わった。記念館の時間が足りなかった」
「天候にも講師にも受講生にも恵まれ、内容もとても良かった。大満足です」
「個人で記念館など訪れることが無いので、説明を聞きながら実態を見ることができてとても良かった。何十年振りの昭和新山が嬉しかったです。ガイドの方の話、 広瀬先生の詳しいお話がとても良かったです」
「三松館長の説明が新鮮で面白かった。それと講師の詳しい丁寧な説明ありがとうございました」
「ていねいな資料説明ありがとうございました。約30年毎に発生する地震災害、次の地震までにどのように対応するかが大きな課題である。学術、行政、地域の一体的な議論と具体的な活動が重要である」
「講座4、3回目見学学習、広瀬講師による説明、詳しく学ばせて頂き大変よい考察ができ、スタッフの林様始め~須藤様の皆様に大変お世話になり感謝とお礼申し上げます」
「火災、噴火の機会に火山のクセを探る事が、次の噴火に備える道である(三松正夫記念館)」