2023/09/18
9月12日(火)、主催講座9「石狩市の近現代史を学ぼう」の第2回「戦争に巻き込まれた昭和時代、平成、令和の発展時代」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、石狩市教育委員会文化財課の工藤義衛さん、受講者は28名でした。
前回の石狩市の近代のお話に続いて、今回は石狩市の現代の1回目のお話です。
以下は、お話の概要です。
はじめに石狩町で最初と思われる昭和26年の観光パンフレットが紹介されました。パンフレットには、灯台と馬と船とはまなすが描かれていて鮭など石狩を象徴するような風物が示されず、この頃はまだ石狩を外に向かってアピールする風物が定まっていなかったようです。
◇石狩の現代(1907年~1970年)
本日のテーマは
1.模索する農村
2.模索する漁村
3.石狩文化のめばえ
4.港と鉄道
5.新しい石狩への胎動
1.模索する農村
農村となった石狩では、明治40年代から昭和40年頃まで人口がほぼ1万人で推移している。これは、農地が増えなかったことを示しているが、その中で農村では種々の試みが行われた。
■高付加価値作物の導入
○除虫菊
・花畔村では、明治25(1892)年から栽培開始。
・大正6(1917)年、「石狩町除虫菊栽培組合」設立。
・栽培だけでなく、成分を使った蚤取粉や肌クリームなどの製品を開発して販売活動も行ったが、販売面では困難もあったと思われる。
・昭和7(1932)年、他町村の農家と「北海道除虫菊製品工業組合」を設立、製品を道内外や海外へ販売。
・第二次世界大戦後は、安価な化学農薬が輸入され、除虫菊栽培は下火になる。
・蚤取粉などのラベル
○砂地造田
・米づくりのはじまり:明治20年代から高岡など丘陵地(粘土地)や河川氾濫原などで行われた。
・平野部の砂地地域
昭和2年:花畔で造田に成功。
昭和22年から30年まで:花畔、生振、北生振、志美、樽川など各地で造田。
昭和38年:作付け面積3,383ha、出荷量12万俵となる。
昭和45年:減反政策開始。
昭和46~50年:町内の土地改良区、揚水組合が解散。
○大規模牧場
・前田農場
明治27年に堀基氏所有の牧場をもとに前田侯爵家が開設。昭和5年、小作に農地を開放。
・町村牧場
大正6年、南線地区で経営開始。昭和3年、江別市に移転。
南線地区は町村牧場に代表される酪農地域だったが、戦後は造田が進み米作地域となった。
・極東農場
明治41年、花畔、樽川地区で開設。昭和15年に極東練乳から明治乳業に改称⇒現在の樽川明乳パストラルシティにつながっている。
2.模索する漁村
鮭の漁獲量は、明治10年代をピークにその後は急激に低下。
○北洋漁業への転換
・昭和7年、北洋への出漁開始。
・昭和20年、戦争の為出漁中止。
・昭和27年、北洋漁業再開。
・昭和52年、200海里問題などで出漁中止し、この年で廃止。
○養豚業
昭和36年、石狩漁業組合と北海道漁業組合は業種転換事業として、石狩畜産センターを建設。養豚事業を始めるが食肉価格の下落により、昭和52年閉鎖。
○養殖事業
・漁礁の設置(昭和12年~)。
・鮭稚魚ふ化場設置(昭和26年~)。
・ワカサギ養稚魚放流(昭和35年頃~)。
3.石狩文化のめばえ
○漁業のイベント化―石狩さけまつり
・石狩さけまつり(第1期―昭和31年~昭和45年)
鮭をテーマに、鮭地引網見学のほか歌謡ショーや参加型ボートレースなどのアトラクションを組み合わせたイベント。
・石狩の鮭地引網は、明治時代から観光化されていた。
・戦後の鮭地引網観光ブーム
戦後、平和な時代にレジャーが求められた。
国産大型バスの生産が開始(昭和25年)された。
軽油の統制終了(昭和27年)以降、中央バスの観光バス事業が本格化した⇒鉄道が無い石狩(それまでは江別まで鉄道で行き、江別から船で石狩に移動していた)では、大型バスの普及によりそれまで難しかった多数の観光客の呼び込みが可能になった。
・石狩さけまつりが育てた「石狩鍋」
石狩鍋の原型となる料理は、明治初期には確認できるが、元々は石狩の家庭料理であった。
昭和20年代後半から鮭地引網観光に来た客に提供する料理として「石狩鍋」が完成し、積極的にPRするようになって全国に広まるが、その契機となったのは石狩鮭まつりであった。
4.港と鉄道
◇石狩港建設構想の歴史
○現代前期の港湾建設計画
・石狩川の頻発する洪水対策として、生振捷水路が建設された。大正6年の生振捷水路の完成に伴い、切り離された茨戸川、真勲別川は流速の遅い湖のような状態になったため、その活用が考えられるようになった。
・昭和11年の伊藤、中村案。
銭函に建設した港と茨戸川を運河で結び、周辺を鉱業地域にする案。
・昭和17年の伊藤案
石狩川をショートカットで新たな河口をつくり、これに運河を繋いで札幌から石狩を工業団地にする案。
※昭和11年、17年の両案とも石狩川河口を利用しない計画だったのは、河口は深さが3mしかない上に土砂が堆積しやすく、河口自体も流路が変わる難点があったから。
・昭和33年発表の石狩町石狩港湾造成計画
他の案と違い、石狩川の河口を利用する案であった。それは、導流堤を伸ばして石狩川の流路を安定させる計画があったから。
5.新時代への胎動
■石狩木材工業団地
昭和33年頃から茨戸川を木材貯留場とし、その周辺に製材などの木工関係の工場を整備するプランが検討された(現在の新港南1丁目)。
■石狩開発株式会社の設立
昭和38年、石狩木材工業団地内の用地造成、売買を行う石狩開発株式会社が設立された。
これが、新港地区が工業団地化する次の時代に繋がっていく。
◇本日のまとめ
・明治以降、農民の移住で石狩は急速に農村化したが、砂地のため米作が困難で、畑作、酪農が主であった。
・昭和初期から砂地水田の試みが始まり、戦後になると大規模な灌漑工事により水田地帯となった。
以上が本日のお話のあらましですが、農業、漁業ともになかなか厳しい状況の中で様々な取り組みがあったこと、「石狩さけまつり」は漁業をイベント化したものだったこと、その「石狩鮭まつり」の成功は、大型観光バスの普及によるものだったこと、ショートカットにともない湖化した茨戸川を活かす港湾計画があったことなど多岐にわたって学ぶことが出来ました。
最後に受講受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「さけまつりのイベントはおもしろかった。港湾開発、いろいろトライアルした結果、新港につながったことがわかった」
「大変おもしろく興味深く受講しました。コンパクトにわかりやすくまとめて話されたので良かったと思います。ありがとうございます」
「大正・昭和の戦前そして戦後に石狩が歩んだ状況が良く分かりました。鮭の町から脱皮しようとしていた時代ですね」
「明乳タウンの名が不思議だったが、今日ナゾが解けました」