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主催講座9「石狩市の近現代史を学ぼう」第1回「開拓使の設置による明治及び大正時代の出来事」

2023/09/07

 9月5日(火)、主催講座9「石狩市の近現代史を学ぼう」の第1回「開拓使の設置による明治及び大正時代の出来事」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、石狩市教育委員会文化財課の工藤 義衛さん、受講者は31名でした。
 工藤さんは最初に「みなさん、よろしくお願いいたします。今回、石狩の近現代の話の依頼を受けた時、市民カレッジではこれまで近現代の出来事について色々取り上げてきただろうしこれからもとり上げるだろう、そんな中で私が話をするというのは、どういう意味があるのかと考え、これからそういうテーマを取り上げる時の基礎となるようなお話ができればよいのではないか、と思いました」と言って本題に入られました。
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 以下は、お話の概要です。
1.本講座での石狩の時代区分と扱う地域
日本の近代は一般的に明治維新から昭和20年までとされているが、石狩の場合は違う区分で見ていきたい。
◇石狩の時代区分
近代⇒1868(明治元)年~1907(明治40)年
現代⇒1007(明治40)年~
講座2回目現代①⇒1907(明治40)年~1975(昭和50)年
講座3回目現代②⇒1975(昭和50)年~
◇扱う地域
旧石狩市域
2.石狩の近代(1868年~1907年)とは
「石狩市の原型が形づくられた時代」である。
それでは原型とはどんなことかというと
①人口の増加
②主要集落の形成
③行政範囲の確定
④主要産業の成立
があげられる。

①人口の増加について
◇人口の推移
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・明治15年から明治35年にかけて右肩上がりとなっている。
・その後は、昭和40年まで1万人を超さず下がらずで推移している(1万人の壁)。
②主要集落の形成
集落が出来たと云うことは、各地域に名前が付いたと云うこと。明治4年に戸籍制度ができて地名、字名が必要になり、土地の個人所有のためにも地番が必要になった。
※よく使われる開村と云う言葉の意味は、土地制度と戸籍制度が確定したことを云う。人々の生活の基礎が形づけられたということである。
・明治4年 本町ほか9町(石狩川河口地域)
明治初期、河口部には本町側に石狩駅(駅逓所、元小屋《運上屋》を利用)が、八幡町側に石狩出張(開拓使石狩出張所、石狩役所を利用)が置かれていた。
つまり河口部には、すでに集落や建物があったが、集落があったのは河口部の狭い範囲だった。
明治初期には道路もほとんどなかったが、明治24年頃までには現在の石狩・手稲線や花畔から本町への道路が作られた。
・明治4年  花畔村、生振村開村
・明治15年  樽川村開村
・明治18年   高岡(八幡町)開村
 ◇明治初期(10年代)の石狩の様子
・北海道札幌開拓絵巻(明治16年、イナゴ駆除のため来道した農商務省の官吏が見た生振村でのイナゴ駆除作業の様子やアイヌについて描いた絵図、筑波大学附属図書館所蔵)
それを見ると、服装や月代などまだ江戸期の風俗が残っていたことが分かる。
◇集落形成の原因
・本町、八幡町など河口部の集落⇒商業者、漁業者の移住
※移住は幕末から。
・花畔村、生振村、樽川村⇒農業者の移住
※移住は明治4年以降。
農民が移住してきたのは、北海道に本州のような農村を作る事が国策だったから。
国の移民政策は、当初来る者は拒まずと云う方針だったがうまくいかず、成功率の高い団体移住( 成功例―伊達岩出山藩の当別)を推奨するようになった。
◇各地の開拓
●生振村:明治4年5月、宮城県宮城郡から29戸124名(引率者:米沢藩士玉木琢蔵)  
●花畔村:  明治4年5月、盛岡健岩手郡から39戸129名(引率者:佐藤熊太郎)
●南線地区:明治12年、四国より14名
●樽川地区:明治18年、山口県から2戸(引率者:河本荘七)
●高岡地区:明治18年4月、山口県那珂郡中津村から20戸106名
◇近代の人口増加
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石狩の町は、明治末(40年代)には農村になり、その状態が70年ほど続いた。農村が完成したのが明治40年代で、その後人口の変化がないということは、農業が比較的安定していた半面、それ以上農地を増やす余地がなかったことを示している。
③行政範囲の確定(行政区域の変遷と殖民区画)
●農民移住と町村合併
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●花畔村と樽川村
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樽川村の開村は、広すぎる花畔村を分割することだった。
昭和51年の字名改正まで、防風林の南側は大字樽川村、北側は大字花畔村だった。
明治40年、石狩町と花川村が合併して石狩町となり現在の行政区域が定まった。
◇殖民区画(明治27年)の設定
開拓当初は、入植者が入植地を個々に選んでいたが、まちづくりが進むと、道路、駅、学校などの公共施設が遠くなるような不便さも生じた。そこで、最初から入植する場所を指定することにしたのが、殖民区画。
540m間隔の区割りを設け、縦軸を線、横軸を号とした。
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殖民区画は現在の町(花川南)の区画として残っている。
④主要産業の成立
●石狩の諸産業①漁業
・鮭漁獲高の推移
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鮭漁業は、明治10年代後半をピークに減少して、北洋漁業へ転換した。
●石狩の諸産業②農業
・砂地と湿地が混在する地域
砂地⇒弱い地力
ソバ、アワ、エンバク、バレイショ、大豆、小豆、小麦、トウモロコシなどが主な農産物。
明治中期以降に、亜麻、除虫菊、果樹栽培、牧草などを栽培。
湿地⇒排水が必要⇒花畔・銭函間運河(水運としてより排水路としての役割が大きかった)
・米作り⇒明治20年代から高岡など丘陵部や河川の氾濫原で行われた。
・砂地に影響された農畜産業
地力の弱さから有機物投入の必要性があり、牧場と有畜農業が広まった。
米作りでは、砂地での水田が試みられ成功した。
●石狩の諸産業③鉱業
石狩油田:明治36年インターナショナル石油会社が良好な原油層を発見。明治44年に日本石油(株)に譲渡。昭和3年から手稲の精製工場までパイプラインで流層送。昭和35年に閉山。
採掘のみで加工は町内では行っていないので、町内への波及効果は少なかった。
●本町地区 の発展
本町の井尻家や遠藤家は小樽に進出した。
3.残された課題
◇石狩港計画のゆくえ
・明治11年 3月 幌内炭鉱開発予算150万円認められる
      8月 幌内炭田―石狩―小樽ルート決定
      12月  クロフォード着任
・明治12年  2月 ファン・ゲント着任
      4月  石狩川大洪水
      8月  クロフォード 幌内―札幌―小樽ルート提出
          ファン・ゲント  石狩港計画提出
      9月  再び石狩川洪水
・明治13年  8月  クロフォードにより手宮―札幌間鉄道開通
      12月     ファン・ゲント横浜で病死
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◇石狩港建設計画中止の影響
幌内―石狩―小樽ルートは、港湾と鉄道がセットになった計画で、現在の金額で1千億円以上のプロジェクトであった。⇒その頓挫で住民の落胆は大であり、海運が発展する機会が喪失し、鉄道輸送によるルートから外れるものであった。
4.まとめ―石狩の近代とは
石狩川河口周辺や沿岸部だけだった集落が内陸部にも広がった。
内陸部の移住者は農民だったので農村が生まれ、主産業は農業になった。
行政区域が定まった。
これらは、以降約70年にわたって大きな変化を起こすことはなかった。
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 以上が本日のお話の概要ですが、明治40年代の頃に今の石狩の原型が出来上がった事が良く分かりました。
 最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「『石狩の近代』を多角的に学ぶことができました。講師の方の豊富な知見が講座を豊かなものにしていたと思います。明治初期の人々の衣装(絵を使って)の話など面白かったです」
「大変興味深いお話でした。次回の講座も楽しみです。港と鉄道の問題が明治の時代からあったことに驚きました」
「開拓絵巻が面白かった。時代区分が独特で次の講座も楽しみ」
「説明はゆっくり話をされ実に聞き取り易くよかった。中味もイメージが出来るような説明でよく理解できた」
「石狩市の近代~現代の間の事柄が詳しく解りました。石狩は漁業の町と思っていましたが農業が主体との事で教われなければ分からないことだと思いました。次回が楽しみです」




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