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開校15周年記念特別講座「江戸期から明治における石狩の歴史について知ろう~村山家の資料をとおして~」

2023/10/30

 10月24日(火)、開校15周年記念特別講座「江戸期から明治期における石狩の歴史について知ろう~村山家の資料をとおして~」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、石狩市郷土研究会会長の村山耀一さん、受講者は72名でした。
 会場には村山家に関わる文書や地図などが展示されて、受講者が講座のお話以外にも多くの情報を得られるように配慮されていました。
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 村山さんは「私の先祖である初代は、元禄13(1700)年に能登の国(現石川県)から松前に渡り、松前藩のもとで廻船業や蝦夷地の漁業開拓を営んできた商人でした。その村山家の事業は、石狩の歴史にも関わっております。今日は明治41(1908)年までの約200年に及ぶ村山家の歴史について石狩との関わりをみながら、お話しいたします」と言って講座を始められました。
 以下は本日のお話の概要です。
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1.石狩と村山家に関わる資料について
(1)石狩市観光ポスター第7弾 平成26(2014)年12月作成。
 寒塩引と鮭献上箱がデザインされている。寒塩引の製法は、明治10年に黒田開拓使長官の命により村山家が書き記した「北海道産物製法手続」の中で記述されている。
寒塩引は、観光協会・水産会社により平成26年に再現された。
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(2)石狩弁天社(石狩市指定文化財第1号、昭和42年)
・元禄7(1694)年、松前家家臣山下伴右衛門(石狩川秋味上乗役)が海上安全を願い創建。
・文化13(1816)年、石狩場所請負人6代目村山伝兵衛が、石狩場所が村山家の単独経営になった事を祝って再興し、家の私神とした。
・昭和23(1948)年、村山家は石狩弁天社に関わる一切の件を石狩八幡社の花田宮司と総代に一任。
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(3)古潭龍澤寺の鰐口(石狩市指定文化財第9号、平成28年)
・現在、道の駅石狩「あいろーど厚田」に展示。
・古潭龍澤寺に伝えられている鰐口はふたつあり、ひとつは「松前城下村山傳兵衛」「寛政三年亥年三月吉日」、もうひとつは「寛政四年壬子歳八月廿日」との刻銘がある。
写真は、道の駅に展示されている寛政四年のもの。
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(4)石狩町からの表彰状
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(5)「石狩町開基300年、開町100年記念式典」
 鈴木与三郎町長の式辞の中で「石狩町は、慶長年間、松前藩の石狩場所設定に始まり、~鮭漁場を請負った能登の人、村山傳太夫によって発展のもとが築かれた(抜き出し)」と述べられている。
(6)石狩市歴史年表
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※石狩町では、快風丸が石狩に到着した1688年頃を開基と定めている。
2.松前藩の成立
(1)松前藩の成立と商場知行制
・慶長9(1604)年、道南の館を支配していた蠣崎氏は、徳川家康から黒印状を授けられて大名となり、蝦夷地交易の独占権を公認されて「松前」の姓を賜る。
・松前藩は、この慶長年間に「石狩その他の場所区画」を設定する。
・米の採れない蝦夷地では家臣への俸禄を米で与えることができず、和人地(箱舘付近から熊石)の河川における漁業権と交易権を知行地として与えて俸禄とした。区画された場所では交易船を出して和製品を持ち込んでアイヌと物々交換をし、アイヌから得た産物を商人に売って収入を得ていた。この制度を「商場知行制」という。
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(2)場所請負制度
 自ら仕立てた船で商場に出かけて交易をしていた知行主たちは、交易の複雑化により資本的、技術的に行き詰まって負債がかさむようになる。そこで、交易権そのものを「場所請負人」の名目で商人に代行させ、知行主は一定の手数料として運上金を得る、という制度に変化する。これを「場所請負制度」という。
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※この時期に現れたのが、村山伝太夫(初代村山伝兵衛)。
3.村山家の郷里
・能登国安部屋村(現石川県羽咋郡志賀町)。
・安部屋は、能登半島の外浦(西海岸)に位置し、天然の良港で北前船の寄港地として栄える。
・外浦で鍛えられた船乗りは、大坂に拠点を持つ近江商人から北前船の船頭を委託されていたが、やがて自ら船を持ち大坂を拠点として春から秋にかけて廻船事業として蝦夷地との交易を行うようになる。
4.初代村山伝兵衛(伝太夫)
・初代伝兵衛(伝太夫)は能登国安部屋生まれ。廻船業を営む父・兄の影響を受けて、船乗りとして蝦夷地開拓を志す。
・元禄13(1700)年、18歳の頃松前に渡り松前藩士工藤八郎右衛門方を請宿として城下で商業活動を開始。
・その後、松前藩士御座船の船頭古谷勘左の娘れんの養子となって城下に籍を持ち、藩御用の廻船業を営んで村山家の基礎を築いた。
・伝太夫は伝兵衛と改称し屋号を「阿部屋(あぶや)」店印を「まるじゅうご(十五は、将来の持ち船目標数)」とした。
・宝暦7(1757)年松前で没す(75歳)。
◇初代村山伝兵衛の事業
(1)廻船業を営む伝兵衛は、宝永3(1706)年場所請負人となり漁業経営にも手を広げ、松前に本店を置いて西蝦夷の石狩地方場所、宗谷・留萌場所を請負った。
(2)伝兵衛は彦久丸、彦重丸など5艘の船を所有し、十数年後には26~27艘の手船(持ち船)を持つまでになった。
(3)アイヌに漁網の製法や海鼠(ナマコ)曳き具(ハッシャク)の使用法を教え(それまでアイヌの海鼠漁は三本ヤスを使用)、漁獲量の増加をはかって場所経営の基礎を作った。
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5.三代目 村山伝兵衛(直舊・なおもと)
・初代の娘れんと養子の二代目理兵衛(旧姓島崎)との長男として松前に生まれる。幼名市太郎。後に直舊に改名。父理兵衛は商才なく大坂に去る。
・宝暦7(1757)年、祖父初代伝兵衛が没したあと21歳で三代目伝兵衛として家督相続。
◇三代目伝兵衛の事業
(1)【問屋株】
 宝暦9(1759)年、23歳の時に問屋株を手に入れ、松前出入りの船の積荷に対して問屋口銭(手数料)を取る権利を得て富を蓄えた。手数料は、年に数百両から一千両に及んだといわれる。また、藩主手船の運営や松前藩御用の廻船業も行い信用を高めた。
※江戸時代の一両は、おおよそ初期の頃は10万円、中~後期は3万~5万円、幕末期は3~4千円。
(2)【場所経営】
 初代が築いた廻船業を基礎として、明和・安永(1764~1780)以降、石狩、しゃつほろ、増毛、ハママシケ、厚田など藩主や上級家臣の各場所(知行地)を請負い有力請負人として急成長した。
・しゃつほろ場所請負証文(明和2年、北海道博物館収蔵)
 伝兵衛が、藩士南条安右衛門の知行地を請負った時の請負証文で、イシカリ場所に関する最も古いもの。請負は、明和3年から6年までの4か年で1か年の運上金は27両。
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※石狩場所は、河口部及び海岸の藩主直領場所の他本流・支流域部には商場知行地の頃からの上級家臣の知行地が点在し、石狩十三場所の基本の形ができていた。
(3)【カラフト漁場調査】
 安永2(1773)年、伝兵衛(34歳)は藩主にカラフトの漁場調査を命じられ、200石積の船二艘を造り、4月に藩士らと共に福山を出帆して漁場調査を行った。現地ではアイヌの人々に漁法を教え、同地に記念標を立て9月下旬に寄港した。
 安永6(1777)年の藩士のカラフト巡視の際には手船を貸与した。
 カラフト漁場調査の功により13世道広から蝦夷錦を賜ったが、伝兵衛は、それを祖父(初代伝兵衛)の50回忌の時に安部屋村の西念寺に「七篠の袈裟」として寄進した。
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※間宮林蔵のカラフト探検は文化2(1808)年のことで、伝兵衛の調査は、それより30年ほど早い。
(4)【飛騨屋の宗谷場所及び石狩山伐木の請負】
・安永4(1775)年、松前藩は借財のため飛騨屋に宗谷場所の権利を15年間譲渡したが、三代目伝兵衛はその下請けを任された。
・また、飛騨屋の石狩山(漁岳 札幌山)伐木も天明8(1788)から7年間請負った。
※安永年間には、町奉行下代兼町年寄りとなり、名字帯刀が許され、天明2(1782)年には問屋のほかに長崎俵物(干アワビ、煎海鼠・昆布)買い付けの総元締めも兼ねた。
(5) 【クナシリ・メナシの戦い】
◇クナシリ・メナシの戦い
 寛政元(1789)年、場所請負人・飛騨屋の奴隷的な使役に対する抗議騒動がこじれて、国後と目梨で72人の和人がアイヌに殺害された。松前藩は討伐隊を派遣して騒動を治め、アイヌ37人を死刑にした。飛騨屋九兵衛はその責により請負を罷免された。
※この事件は、寛政11年の幕府による蝦夷地直轄の遠因となった。
 松前藩は、この戦いの後、飛騨屋の請負場所(厚岸・霧多布・クナシリ・宗谷)を直轄とし差配を伝兵衛に請負わせた。この事件の影響を被った東部のアイヌの人々への支援物資の緊急輸送を依頼された伝兵衛は冬の悪天候に苦しめられながらも輸送を成し遂げ、場所は落ち着きを取り戻した。
(6)【村山家の隆盛】
①寛政2(1790)年、松前藩は再度カラフトを調査、藩直轄として伝兵衛に請負わせた。
②35場所に及ぶ伝兵衛の請負場所
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※この頃、日本長者番付で「西の横綱 鴻池善右衛門、東の横綱 村山伝兵衛」と並び称せられた松前一の豪商となっていた。持ち船102艘、藩への運上金は1年で2500両におよんだ。これは、米に換算すると1万石にも当たる。
(7)【村山家の悲運と苦悩】
①福山(松前)の大暴風
 寛政4(1792)年6月26日、西海岸一帯が大暴風雨に見舞われ、福山湊では破船百数十艘。伝兵衛も手船・雇船とも24艘を失う。
②ラクスマン一行の受け入れ費用負担
 寛政4(1792)年ロシアの遣日使節アダム・ラックスマンが伊勢国漂流民神昌丸船頭大黒屋幸太夫・水主小市(根室で死亡)・同磯吉をともないエカテリーナ号で根室に到来(ロシア皇帝エカテリーナの命で漂流民送還を名目にシベリア総督の修交要望書を持参)の折り、伝兵衛がその費用を負担した。
※翌年6月に漂流民幸太夫・磯吉は日本側に還される。
③村山家追放
・寛政8(1796)年、伝兵衛の隆盛を妬んだ大坂商人、小山屋権兵衛、前藩主道広の血縁・板垣豊四郎等は、隠居していた道広と結託し、伝兵衛から廻船業、場所請負業を剥奪した。
・道広は、伝兵衛の差配場所を引上げ、下代役の罷免、地所、財産の没収と居所払いを命じた。
④幕府の指導による伝兵衛の復活
・寛政10(1798)年、幕府はロシアの南下に備え東蝦夷地を直轄にした。
・幕府は、蝦夷地を熟知している伝兵衛に対する松前藩の処遇に不満を表した。
・幕府は、同年2月、伝兵衛への財産の没収、居所払いの咎を解き、村山伝兵衛を蝦夷地御用掛の「官用取扱方」に任命した。
・松前藩は、この年、伝兵衛を藩の「一代侍・大広間格」に取り立て、同時に宗谷・斜里・樺太三場所の経営と苫前・留萌・石狩の鮭漁場の監査役に任じた。伝兵衛は、場所請負人として再生したが、問屋株は戻らなかった。
・文化2(1805)年、伝兵衛隠居。
・文化10(1813)年、三代目伝兵衛、76歳で没す。
6.六代目 村山伝兵衛(直之)
・文化2(1805)年、三代目伝兵衛の隠居を受けて、実質的に後を継いだのが孫の直之。
・六代目伝兵衛は、再び問屋株を得て、有力商人としての地位を保つ。
◇六代目伝兵衛の事業
(1)【石狩場所・石狩十三場所の単独経営】
・文化5(1808)年以降、石狩場所(秋味)、石狩十三場所(夏商)の請負人は、入札で決められていた。
・文化8年、石狩場所は、伊達屋、栖原屋、阿部屋(村山家)が請負ったが、その後伊達屋と栖原屋が返上したため、文化12年には阿部屋が単独で2200両で請負った。
・石狩十三場所は、文化6年までは米屋など複数で請負っていたが、文化12年に米屋の五場所を阿部屋が請負い、文政元(1818)年に阿部屋が石狩十三場所をすべて単独で請負うようになり、運上屋を一つにまとめて「元小屋」と呼んだ。
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(2)【石狩弁天社の再興】
 六代目伝兵衛は、文化12年、石狩場所の単独請負を祝い、石狩弁天社を再興して村山家の守り神(私神)とした。当時は、現在八幡神社がある場所に弁天社があった。御影石の鳥居は、文化10年に石狩場所請負人の栖原屋半助と米屋孫兵衛が寄進したもので、「秋味」の文字も刻まれている。
(3)【石狩場所で天然痘蔓延】
 文化14(1817)年2月以降、天然痘が大流行し、翌文政元年4月までに石狩場所のアイヌの総人口2130人のうち926人が罹病、833人が死亡した。村山家では、漁獲の大巾減少のみならずアイヌの介抱にも多額の費用を要したため、松前藩に運上金の減額を要望し、文化14年の未納金の三分の一を免除されたが、翌年にも天然痘は治まらず文化3年に官許を経て経営を当分の間栖原屋支配人茂八に任せることになった。
その後、再建に成功。
7.石狩改革
・幕末期、日本は鎖国を解き、安政元年3月に「日米和親条約」12月に「日露和親条約」を締結。
・蝦夷地の日本帰属が定かではない状態だったため、幕府はロシアの南下を警戒した。
・幕府は近藤重蔵や松浦武四郎の意見を取り入れ、石狩の地(石狩平野)に本府を置くことで北方警備が万全になると考えていた。
・しかし、石狩川を中心とする地域は、阿部屋村山家が石狩場所・石狩十三場所を一括請負い、知行主に代わって行政権を行使していたので、幕府はまず村山家の請負を罷免し幕府が直接経営(直捌)することを考えた。
・安政4(1857)年、幕府は箱館奉行支配役並の荒井金助を石狩役所に赴任させ「石狩改革」を実行した。
・石狩改革により村山家は一出稼ぎ並になり、規模を縮小して石狩で漁業を経営することになり、石狩及び十三場所には新たに場所を請負う出稼ぎ漁業者が集まった。
・篠路や望来には農民の入植も行われた。
・幕府は、直接経営であがる収益をカラフト場所経営にあて、日本人をカラフトに送り込むことでロシアに対して既成事実を作ろうとした。
◇石狩改革後の石狩の様子
安政5(1858)年 石狩来住者   100余戸の市街地
        幕府直轄地となる
        石狩八幡神社創建(蝦夷地総鎮守)
        能量寺( 浄土宗)創建
安政6(1859)年 石狩役所をワカオイ(若生)に移す
        法性寺( 浄土宗)、金龍寺(日蓮宗)創建
文久3(1863)年 曹源寺(曹洞宗)創建
◇荒井金助の石狩での事績(2023年石狩市郷土研究会3月例会 工藤資料)
①場所請負制の廃止②通行、移住、営業の自由化③漁業経営の自由化(入札制)④税制改革による物流の活性化⑤農民移住の奨励(篠路村開祖)⑥行政の整備(役所を若生に)⑦林業資源の保護と鉱物資源の調査⑧公教育の開始⑨道路、通行屋、倉庫など交通インフラの整備⑩樺太開発
8.幕末期の村山家の業績(村山家文書より)
①ホッキ移植 文政4年頃
②石狩川の治水
 文化2(1845)年、村山伝次郎(漁業部支配人)が越後から治水に長じた者10人を雇い、氾濫で破壊した石狩川の堤防を修築した(工事は安政4年まで10年間におよぶ)⇒石狩川治水の始まり。
③石狩川の渡船
 安政元(1854)年まで村山家が石狩川河口渡船を請負う。
④新道開削
 安政2年までに、石狩―札幌間の新道(幅7尺)と石狩―銭函間新道(幅6尺)を開削した。
⑤新道開削
 安政5(1858)年、村山伝次郎はホシボッケ(星置)―島松間の道路を開鑿した。これにより銭函―札幌―千歳間の札幌越え道路が開かれた。
9.石狩改革後の村山家
・石狩改革で漁場を縮小させられた村山家は、一出稼ぎ漁業者として数カ所の漁場を経営するに過ぎなかった。多くの使用人を抱え、経営本拠の運上屋(元小屋)は幕府の石狩本陣(支配所)に指定されて、通行人の取り扱いを要求され、家産は傾いていった。
・慶応4(1868)年、徳川幕府が倒れ、同5年新政府による箱館裁判所が五稜郭に開庁されると、村山伝次郎は石狩場所の復活を求める嘆願を繰り返したが聞き届けられなかった。
◇旧幕府脱走軍と村山家
・五稜郭と福山城を占拠した旧幕府脱走軍は、村山伝次郎を召喚し、石狩十三場所の請負を命じ、運上金2500両の即納を要求した。
・伝次郎は辞退したが聞き入れられず、工面してまず600両を納めた。
・榎本軍の降伏により600両は水泡に帰し、新政府からは審問、収監されて、小樽、高島、厚田の鰊漁場、建物他蔵や諸道具類はすべて封印された。
・取り調べの結果、罪は赦免され漁場建物や蔵等の封印は解かれたが、600両の借金は残り、石狩本陣の取り扱いも戻らなかった。
10.明治期の村山家
①石狩町成立
・明治2(1869)年 蝦夷地は北海道と改称、開拓使が置かれる。
・明治4(1871)年 戸籍法制定により石狩町と命名。10町に分ける。花畔村と生振村が開村、内陸部の開拓がはじまる。
・明治5(1872)年 人口891人。
・明治7(1874)年 開拓使は国の神仏分離方針に従い、石狩川右岸の石狩八幡神社を左岸にある石狩弁天社の敷地に移転させ、石狩弁天社は村山家の私神であるとして現在地に移転させた。
・明治30(1897)年 人口6911人。
・明治40(1907)年 人口9077人
②再興に向けた村山家
・多くの奉公人と莫大な負債を抱えた村山家だったが、伝次郎は知り合った鹿児島出身の井尻半左衛門に石狩の西濱(大網)・貞寧(上テイネ・下テイネ)の鮭網揚げ場所を村山名義のまま諸道具付き7500円で7年間貸与する契約を結び、復興の助けとした。7年が3年延びた明治18(1885)年、井尻家に託していた鮭漁場三カ所が全て返却され、村山家は再び石狩で漁業経営を始めることになった。
◇「北海道産物製法手続」
 村山家は、明治10年に開拓使黒田清隆長官の命を受け、「北海道産物製法手続」を作成。その第五条に「鮭及び筋子寒塩引製法ノ部」が記述されている。
③明治後半期の村山家
・井尻家から戻された石狩の鮭漁場は、支配人加藤圓八(漁場貸与期間は、井尻家に出向)が管理。伝次郎亡き後は村山ソノ(曾乃)が戸主となる。
・ソノは石狩町の公共事業に常に寄付を行った。
・ソノは長女コトの長男栄蔵を本家8代目として小樽裁判所に届けた。
・ソノの死後、長女コトが家督を相続。コトもソノ同様石狩町の公共事業に寄付を行った。
◇石狩の鮭漁獲量は明治15年の1,480,000尾をピークに減少が続き明治35年には215,000尾になった。
11.村山家の漁業経営の終焉
 村山家は、講師の父が誕生した明治41(1908)年に石狩を離れて小樽に移転し、元禄13(1700)年から200年余り続いた村山家の漁業経営は終焉を迎えた。
◇親船町にあった村山家の全景写真(大正11年夏 撮影 能量寺向い)
 この建物は戦時中海浜ホテルとともに健民修練所(海浜学校)として使用されていたが、昭和20年7月15日の空襲で大破した。
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◇石狩実業家案内
 石狩における有力実業家としてて、村山コト、井尻静蔵、畠山清太郎等の名前が記されている。
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12.北海道開拓功労者として開拓神社に祀られた村山伝兵衛
◇大正期の顕彰
①大正4年の大正天皇即位礼
 村山傳兵衛は、従五位を贈呈される。
②開道50年記念式典
大正7(1918)年8月15日 
 村山傳兵衛を含む開拓功労者130人が表彰される。
大正8(1919)年 
 北海道廳発行の「北海道拓殖功労者旌彰録」には村山傳兵衛の功績が記述されている。
◇開拓神社の創立と36柱(当時)の選出
 昭和13(1938)年8月15日に開道70周年記念式典が行われ、北海道開拓功労者の偉業を顕彰、讃仰するため札幌神社(現北海道神宮)境内に「開拓神社」が創立されて、選考された36柱(現在37柱)が祀られた。
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【開拓神社御祭神37柱】
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 以上が本日のお話の概要ですが、村山家の業績と併せて江戸時代から明治にかけての石狩の歴史が良く分かるものでした。また、場所請負制度についても理解することが出来ました。
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 最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「明治以前のエゾ地の和人による開拓の歴史の一端をかいま見ることが出来たような気がした」
「石狩の歴史、村山家の活躍、よくわかりました。資料もとてもくわしく参考になりました。ありがとうございました」
「非常に内容が豊富でしかもキッチリとまとまっていて大満足です」
「石狩の歴史における村山家の位置付けがよくわかりました。ありがとうございました」
「石狩に移住して40年が経ったのに、あまり歴史を知る機会が無いまま過ぎてしまいました。こんなに古い、深く一族の姿を通して教えて頂いたことに感謝です。ありがとうございました」
「石狩の歴史は、村山家と結びつけて解説され良くわかりました。大変素晴らしい講座ありがとうございました。村山家興亡の歴史、政治との関わり良くわかりました」
「村山家の歴史をとおして江戸時代から明治に至る石狩の様子が生き生きとお話いただき感銘を受けました」










































 
  
 
  

  



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