11月4日(土)、主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」の第1回「ロシアのラッコ猟問題から始まった日本開国史(その1)」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、ノンフィクション作家で北海道史研究家の森山祐吾さん、受講者は40名でした。
森山さんは、最初にサミュエル・ウルマンの作詩「青春」を紹介されました。「青春とは、人生のある期間ではなく心の持ち方をいう。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときはじめて老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり、80歳だろうと人は青春の中にいる(要約)」
以下は講座の概要です。
1.はじめに
現在、日ロ両国間では、ともすれば「北方四島返還」のみに注意が向けられがちで、1700年代からロシア人がなぜ千島列島沿いに蝦夷地へ接近して来たのか、それが日本開国とどのように関わったのか、という歴史的背景への関心が薄いと思われる。従来、アメリカやイギリスとの関係を中心に語られることの多い日本開国の歴史は、ペリ―来航以前の「ロシア人の蝦夷地接近」という観点から学び直す必要があるのではないか。今回の講座では、日本開国に至るまでのおよそ100年間の歴史的背景を、前半2回はロシアとの関係から、後半2回はアメリカとの関係からさかのぼって考えていく。
2.日本との交易ルートを目指したロシアの南下
・ヨーロッパ各国は、1500年代から200年間の大航海時代に海外から多くの産物を持ち込み繁栄した。
・ロシアは、元々農業国で良好な港も少なく海外からの産物移入に乗り遅れ、テンなどの毛皮が外貨を稼ぐ手段だった。
・ロシアは、毛皮を求めて17世紀中頃から北東アジアに進出し、ユーラシア大陸を東進しながらテンを獲りつくし、1688年にアムール川流域で清帝国と衝突して競り負け、南下をあきらめて東へ向かいベーリング海やカムチャッカに到達した。
・カムチャッカから南西に下ると、千島列島がありそこにはテンより価値の高いラッコが無数に生息していることを発見した。
・清朝とヨーロッパ各国王朝には、権威の象徴としてテンやラッコの豪奢な毛皮に対する巨大な需要があった。ロシアは、このふたつの大きなマーケットから利を得ようと千島列島を南下した。
◇ピョートル一世と漂流民・伝兵衛
17世紀末にカムチャッカ半島南部で発見された漂流民「デンベイ(伝兵衛)」の話から、日本の商業の発展に関心を持ったロシア大帝ピョートル一世は、日本に至る航路の探索と日本との交易樹立の努力を命じた。その後のロシア人の千島列島南下は、常にこのことを念頭に置いたものであった。
・大阪商人の手代伝兵衛は1695年に廻米船で江戸へ向かう途中暴風にあって6か月も漂流し、カムチャッカ半島南岸に漂着した。15人の乗組員のうち生き残ったのは伝兵衛一人だった。
・コサック50人隊長アトラソフは、カムチャッカ西岸の先住民・カムチャダール人部落に捕えられていた伝兵衛を取り戻して2年間暮らした。
・アトラソフに連れられ、カムチャッカからモスクワへ護送された伝兵衛は1702年1月、大帝ピョートル一世に謁見した。
・伝兵衛は「日本は農業や商業が発達し商品は金銀と交換する。その金銀は京都と江戸で鋳造している。また、中国に金銀を売り渡している」ことなどを話した。
・かねてオランダ人から「金銀の島」の伝説(イタリア商人マルコ・ポーロ著『東方見聞録』)を聞いていた皇帝は、伝兵衛の黄金情報に強い関心を抱いた。
・皇帝は、伝兵衛の帰国嘆願をすぐに許可せず、日本との交易が実現した時のために、1703年にペテルスブルグに日本語学校をつくり、伝兵衛を日本語教師に任命した。
・その後伝兵衛は、日本語伝授を果たした後は帰国を許す、という約束を果たしてもらえず、帰国をあきらめガヴリェルと改名してギリシャ正教徒となりロシアで没した。
・皇帝はシベリア当局に対して「清帝国との交易と同様の利益を国庫にもたらすべく日本との交易樹立に努力すべし。また日本商品の種類、日本人が望むロシア商品の調査、日本人の軍事状況についても調査し・・、そのために日本に至る道を探索すべし」との訓令を発した。
・しかし、当時はカムチャッカの南端がどこまで広がっているのかさえ不明で、北太平洋海域は世界の地政学上でも未知の海域だった。
・皇帝の訓令を実行するためには、まず日本への航路の発見に努めなければならなかったので、以後30年間、千島列島沿岸海域の調査のための探検隊が派遣されることになり、千島列島は、日本に至る航路の出発地として位置づけられた。
◇エカテリーナ二世時代の北方探検隊
・北方海域調査隊長を命じられたベーリング海軍大佐は、1728年にロシア最東端とアメリカ大陸が陸続きでないことを発見(ベーリング海峡)し、領土の拡大と港の確保などを成し遂げた。
・副官シュパンベルグは、1738年(ペリーが訪れる115年前)に3隻の帆船で千島列島の地図作成と日本への航路の調査を命じられた。
・1隻は根室付近まで南下した後、ニジニ・カムチャッカに戻った。翌年再び南下して、6月には男鹿半島先端1㎞に碇泊し、日本漁民と出会い、訪れた仙台藩役人千葉勘七を招いて交歓した。
・仙台藩主伊達重宗は、この出来事を江戸老中本田忠重に報告した。
・濃霧ではぐれた他1隻は、千葉房総天津村沖に碇泊し、食料補給のため乗員が上陸した。
・このようなロシア艦の来航は、「元文年間(1763~1741)の黒船」といわれる。
・日本では列島の島々に現れた異国人の話は、松前藩により長く隠されていたが、幕府の1781年~89年(天明年間)の蝦夷地及び南千島の探検の結果、ロシア人が列島伝いに南下している事実を知った幕府は驚愕し、危機感を強め始めた。
・ベーリング隊長の航海では、ベーリング海が「ラッコの海」であることが明らかになった。これが、「ゴールド・ラッシュ」ならぬ「柔らかい黄金」と呼ばれたラッコの狩猟ラッシュにつながった。以来ラッコの受難が始まった。
・ラッコは、数100頭から1000頭くらいで群れをなして生活するので狩猟しやすく、一挙に大量の毛皮を手にすることが出来る。カムチャッカ半島などでは、ロシア人のほかにイギリス人、アメリカ人、スペイン人などが次々にラッコの漁場に参入していった。
・ラッコの殺戮は、カムチャッカ半島東沖のコマンドル諸島からアリューシャン列島、アラスカ沿岸、千島列島まで広がり、17世紀には数十万頭はいたと思われる北太平洋のラッコは、急速にその数を減らしていった。1911(明治44)年に日米英露4か国間で、ラッコ・オットセイ国際保護条約が締結された時には、北太平洋のラッコは11群、2000頭まで激減していたといわれる。
3.食料供給基地として注目された日本
◇漂流民・大黒屋光太夫と使節ラクスマンの根室来航
ロシアのラッコ猟は軌道に乗れば乗るほどシベリアを越えての食料補給が困難を極め、切実に日本からの食料供給が求められていた。
・伊勢国出身で白子浜(現鈴鹿市)の船頭・大黒屋光太夫は、1783(天明3)年1月、紀州藩の廻米などを積んだ神昌丸で江戸へ向かったが、暴風に会って遭難、7か月の漂流の後、アリューシャン列島・アムチカ島に漂着した。11人が死亡、2人がギリシャ正教に改宗してイルクーツクに残り、後に日本に帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3人だけだった。
・アムチカ島で厳しい生活を送っていた光太夫らは、4年後に難破船の材を活用して小舟をつくり、東シベリア総督に日本への帰国を嘆願するため25人のロシア人とともに島を脱出してシベリアの中心地イルクーツクへ向かった。
・光太夫は、イルクーツクで日本に興味を抱く博物学者キリル・ラクスマンと出会った。
・ラクスマンは、光太夫から得た日本の手書き地図をテルブルグ大学に送る一方、日本は毛皮の潜在的市場であり、南千島(択捉島以南)の不凍港確保はロシアにとり食料などの補給基地として重要であると考え、政府の要人に息子を団長とする対日使節団の派遣を建言した。
・1791(寛永3)年、キリルに同行した光太夫ら5人は、女帝エカテリーナ二世に謁見した。
・女帝は、光太夫一行の帰国を許すとともに、キリルの建言を受け入れ、日本との通商関係樹立のための使節団の派遣をピーリ総督に命じた。
◇エカテリーナ二世号の日本来航
・1792年8月、アダム・ラクスマン(キリルの次男)探検隊長他40人が、毛皮など交易品と残留を希望した2人を除く光太夫ら3人を乗せたエカテリーナ二世号で出発、10月に根室に入港した。3人のうち小市は8か月の越冬生活中に死亡した。
・エカテリーナ二世号は、国書提出と光太夫と磯吉2人の引き渡しのため、根室駐在役人の指示で箱舘へ回航。陸路で松前に入った。
・幕府は、老中松平定信の指令により2人を引き取ったが、シベリア総督の書簡は受理せず、通商などの希望がある場合は、長崎に出向かせる方針を取った。
・ラクスマンは、キリシタン禁教令を遵守することを条件に、長崎寄港と乗組員の上陸を認める幕府の信牌(入港許可書)を受け取ったが、オホーツクに戻った。
・光太夫と磯吉は、江戸で日本人の海外渡航を禁じた「寛永の鎖国令」に違反していないか取り調べを受けたが疑いは晴れ、十一代将軍徳川家斉に謁見したあと、一時帰郷を許された。
・幕府は、外国の様子を語らないようかん口令を布き、光太夫に小石川の薬草園に居宅を与えた。光太夫は幽閉ながらも比較的自由な生活を送り、77歳で没した。
・光太夫の帰国までの記録として、幕府取調べ記録「北搓聞略」がある。
◇外国人の蝦夷地接近と幕府の対応
(1)外国人の蝦夷地接近
・ロシアは、より多くのラッコを求め、アイヌらにヤサーク(毛皮税)を課しながら南下しラッコが多数生息する得撫島(ウルップ・別名ラッコ島)まで到達した。松前藩は、海獣を重視していなかったことと警備上の怠慢を責められることを恐れて幕府に報告しなかった。
・その後も、得撫島に住むロシア人が根室近郊のノッカマップに来て通商を求めたり、その5年後に日本人の住むカラフト南部を訪れるなど、ロシア人の上陸が頻繁になり始めた。
・これらの情報を得て、政治・経済に見識を持つ仙台藩医・工藤平助は、1783年に「赤蝦夷風説考」を著し、蝦夷地がロシアに領有される危険を指摘した。
・異国船の蝦夷地近海来航は、ロシアだけでなく、イギリシのキャプテン・クックが北太平洋を探検、フランスのラ・ペルーズが日本海から宗谷海峡を通過、さらに2度にわたりイギリスのブロートンが噴火湾を訪れ絵鞆(室蘭)に兵を上陸させる、など日本列島の北辺海域に対して各国の探検熱が高まっていた。
(2)幕府の対応
①田沼意次
・老中田沼意次は、重商主義政策を積極的に推し進め、殖産興業を志向した。ロシアとの交易なども構想したが、実現には至らなかった。ロシアの動向を懸念した意次は1785年に東西蝦夷地の2方向からの探検・調査隊30人を派遣した。その過程で、場所請負人に虐待されるアイヌの実情が理解されるようになった。
・東蝦夷地調査隊員の最上徳内は、1786(天明6)年に単独で千島・得撫島まで到達した。同島にはロシア人の他に千島アイヌが混住していたが、彼らの中にはロシア正教会の信徒もいたことに徳内は驚き、ロシア帝国の進出は単に領土拡張ばかりでなく常に布教とセットであることを知り、蝦夷地の危機は現実のものであることを思い知らされた。
・西蝦夷地隊は、樺太に渡り、樺太アイヌと対岸異民族や清国との交易の実態を調査した。
・1782(天明2)年の東北地方大飢饉や翌年の浅間山の噴火で多くの死者が出て、意次の重商主義に基づく蝦夷地開発は否定され、自身も失脚した。
②松平定信
徹底した緊縮財政政策を布いた後任の老中・松平定信は、費用のかさむ蝦夷地調査を中断した。しかし、ロシアの南下で蝦夷地は急激に緊張度が増し、定信は蝦夷地の直轄政策に取り組んだが、開発までには至らなかった。
・1793年の定信辞任後、後任の松平信明らは、択捉島とウルップ島の間に線引きして、北海道アイヌにも及んでいたロシアの勢力を遮断した。
・ロシアが、経済的にも宗教的にもアイヌを取り込もうとしている現実を前に、幕府は松前藩が化外(けがい、外国)とみなしていた南千島と蝦夷地に住むアイヌ民族を一転して日本の国民にする必要に迫られた。
・アイヌに対する撫育政策のひとつとして、幕府はロシアのキリスト教勢力に対抗するため、将軍家ゆかりの本山から僧侶を派遣し、東蝦夷地に三官寺(有珠の善光寺⦅浄土宗⦆、様似の等澍院⦅天台宗⦆、厚岸の国泰寺⦅臨済宗⦆)を建立して、蝦夷地での宗教統制に乗り出した。国泰寺の僧侶は択捉島まで、有珠の僧侶は宗谷まで巡回に務めた。
◇この時期の蝦夷地内外に起きた歴史上の特筆事件
・フランス革命1789(寛政元)年
・「クナシリ・メナシの戦い」1789年
松前藩は、場所請負人飛騨屋久兵衛から借り入れた莫大な借金(8200両)返済の代わりに、藩主直轄の絵鞆、厚岸、霧多布、国後、宗谷場所を飛騨屋に請負わせた。飛騨屋は貸金回収の為、アイヌ多数を強制使役し、大型網を使ってサケマス漁、〆粕、魚油の生産を拡大したため、アイヌは生活を維持するための生業の狩猟・採集が出来なくなった。これが原因で「クナシリ・メナシの戦い」が起きた。
国後のアイヌが乙名(首長)のマメキリに率いられて蜂起。次いでメナシのアイヌが呼応し、飛騨屋の運上屋、番屋、船などが襲われ71人が殺害された。
蜂起したアイヌは、厚岸や国後のアイヌに説得され、37人のアイヌが和人殺害のかどで処刑されて蜂起は収束した。これに対して、幕府は東蝦夷地を仮直轄地とし、北辺防備を重視した。
・寛政の蝦夷地調査隊
1798年、幕臣近藤重蔵らは、大規模な蝦夷地巡検隊(寛政の蝦夷地調査隊)で最上徳内とともに国後を経由して択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」と書いた標柱を立てた。
・1799(寛政11)年、幕府は太平洋側の東蝦夷地を正式に直轄とし、警備は津軽藩と仙台藩に当たらせた。
・同年、幕府は伊能忠敬に命じて、東蝦夷地の海岸線を測量させ、後に間宮林蔵に西蝦夷地の海岸線を実測させた。両者の測量図は、その後幕府天文方の高橋景保によりほぼ現在の北海道地図と同様の精度の高い「蝦夷国測量図」が作成された。
・1800年、蝦夷地と内地の交易に従事していた箱舘の高田屋嘉兵衛により択捉航路が開かれ、幕府は嘉兵衛に命じて、択捉島に17カ所の漁場を開設させた。
◇ロシア使節レザーノフの長崎来航
・バイカル湖南方に位置する国境の町キャフタは、ロシアと清国の唯一の貿易都市であった。
・1727年に両国が結んだキャフタ条約締結後、清国の毛皮の需要が増加、キャフタにおける毛皮取引は1760年代から1820年代にかけて隆盛を極め、ロシアの財政を潤した。
・ロシアにとって、商品をアリューシャン列島や千島列島から海路と陸路でキャフタまで運ぶのは、時間と費用がかかり過ぎた。
・しかし、ロシアは清国とはキャフタで毛皮貿易を行うのみで、運送問題解決には注力しなかった。
・ロシアの植民地管理と毛皮貿易業務を担当する国営「露米会社」は、1802年に各国へ直接販売する計画を皇帝アレキサンドル一世に請願した。
・計画の骨子は、対日や対中貿易のみならず対東南アジアなどとの通商を円滑に行うためウルップ島を拠点として毛皮を集荷し、キャフタ市場を経由せず、直接船舶を使って清国ほか各国へ輸出しようとするものであった。
・翌年、皇帝はこの計画を許可し、同社の総支配人レザーノフを対日使節団長に任命した。
・レザーノフは、ラクスマンにならい、イルクーツクに拘留されていた石巻港若宮丸の漂流民10人の中から津大夫、儀兵衛、左平、太十郎の4人を送り返すことを条件に通商交渉を行おうとした。
・レザーノフのナデジュダ号は1804年に長崎に入港した。
・レザーノフの通商要求に対する将軍徳川家斉の回答は以下のようなものであった。
「日本の対外政策(鎖国令)が、ロシア1国のために変更されることはない。ロシアとの交易では、日本は無益な外国品を受け取り、自国に有用な必需品と貴金属を失うだけである。通商の拡大は、日本の良俗と秩序を混乱させる恐れがある。ロシア側要求の江戸参府、日本沿岸の航行、長崎市内の遊覧、出島オランダ商館の訪問などは、すべて断る。今後遭難してロシアに入った日本人はオランダ船で送還されることとする。ロシア人は、食料と薪水を受け取りただちに長崎を出港し二度と日本沿岸に近づいてはならない」
・長崎で6か月も待たされた挙句、何一つ有益な回答を得られぬまま、門前払いを喰ったレザーノフは、翌春大変怒ってナデジュダ号に乗り日本海を北上。樺太海峡を経由してカムチャッカ半島ペトロパブロフスクに戻った。
今回のお話はここまでで、この続きは2回目になります。これまでも蝦夷地へのロシアの南下という話は度々聞いていますが、今回ロシアが南下せざるを得ない事情について詳しく知ることが出来ました。お話を聴いて、幕府の蝦夷地直轄化や場所請負の廃止、石狩改革などの背景が良くわかりました。次回が楽しみです。
最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「大変やさしく判り易い説明は有難かった。特に地図を提示しての説明も判りやすい。また文章に丁寧に書かれたものに基づいた説明で有難い説明でした。ありがとうございました」
「大変明解なわかりやすいお話で興味深く楽しく受講しました。この時代のこと、人物について学び直してみたいと思いました。4回シリーズ楽しみです」
「とても詳しい資料で北方とロシアの関係がよくわかりました。ロイア正教徒とギリシャ正教が出てきますが、どのように使い分けているのでしょうか。次回もとても楽しみです。またよろしくお願い致します」
「森山先生の丁寧な語り口に引き込まれました。非常に興味のあるテーマで頭の中にあった情報がつながりました。ありがとうございました」
「今までの断片的な知識がまとまって認識できてよかった。今後のお話に期待します」
「新たな視点からの日本の開国史を聞くことができ大変興味をもった。講師の語りも大変明解で聞きやすい講座であった」
「17世紀のロシアの動きは今まで殆ど知らなかったので、大変勉強になりました。ありがとうございます」