11月25日(土)、主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」の第4回「アメリカ捕鯨船の難破問題から始まった日本開国史(その2)」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、ノンフィクション作家で北海道史研究家の森山祐吾さん、受講者は31名でした。
森山さんは、前回の講座内容をまとめた資料を1枚追加され、その説明から始められました。
■前回(11月18日)の講座のまとめ
・18世紀後半の産業革命により産業を発達させた欧米各国は、19世紀に入ると、経済力と軍事力を背景に、原料・資源・市場の獲得を求めてアジアに進出した。
・1853年7月8日、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊の黒船4隻が浦賀沖に現れ、フィルモア大統領の国書を差し出し、日本に開国を迫った。
国書は、捕鯨船への薪水の補給と遭難者の人道的救助及び太平洋航路の中継基地としての日本の開国の二つを要求していた。
・国書を受け取らざるを得なかった幕府は、回答を1年引き延ばした。
・1年後の回答について決めかねた老中首座阿部正弘は、それまでの慣例を破って諸大名や幕臣に広く意見を求めた。これ以降、幕府の力は次第に弱体化していった。
・2度目のペリーの来航で、強硬なペリーに対して林大学守ら日本の応接掛は冷静な対応で粘り強く交渉し、薪水の補給と遭難者救助については了解点に達した。
■本日の講座概要
3.ペリーの再来日と日米和親条約の締結
◇日米和親条約の締結
・第1回会談で、薪水の補給と遭難者救助については一致したものの、通商問題については、紛糾した。しかし「今回の使節来日の主な目的は、人命を重んじ、船を安全に航海させることである。薪水補給と遭難者救助について一致したことでその目的を達したのではないか」との応接掛筆頭・林大学守の指摘に、ペリーも納得し、通商問題は取り下げた。
・老中首座阿部正弘はじめ江戸城内では、通商要求を全面的に呑まずに済んだことに胸をなでおろした。
・日本側の大統領に対する正式な回答書を読んだペリーは、「妥結した条件を明記した条約をすみやかに締結すべきである。それを引き延ばすなら、より強力な軍勢を率い更に厳しい条件をもって来日する」と脅しも加えて要求した。これについて、主席通訳官ウイリアムズは自著「ぺリー日本遠征随行記」の中で、ペリーの高圧的態度に不快感を示しながらも、結果的にそれが日本の開国を促し、日本にとっても幸いになるだろう」と述べている。
・3月18日、アメリカ船が薪水・石炭・食料の補給を受ける港についての交渉が行われ、アメリカは、横浜及び東南部に5~6か所、北海に2~3か所の港を要求した。それに対して、日本は長崎のみを提示、アメリカは長崎では航路を迂回する必要がある、として承諾しなかった。
・その後、数度の交渉を重ねた結果、12か条からなる日米和親条約(神奈川条約)が横浜で締結された。
・条約の主な条項
第2条
薪水・石炭の供給と下田・箱館の使用を認めるが、開港について下田は条約調印後即時、箱館は来年3月以降とする。
第3・4条
漂流民の護送先は下田・箱館とする。
第5条
遊歩区域の範囲は、下田は7里以内とし箱館は追って決める。
第7条
アメリカ船の金銀貨および貨物を、他種の貨物と交換することを認める。
第11条
領事の下田駐在を認める。
・1854年3月31日(旧暦嘉永7年3月3日)、日本が結んだ最初の近代的条約である日米和親条約が調印された。ペリーは祝辞で、日本と外国間で戦争があればアメリカは加勢する、と述べている。条約書は、日本語訳、英語訳、オランダ語訳、漢文訳の4種類作られた。日本語訳は応接掛4人の署名・花印があり、英語訳はペリ―の署名のみ。オリジナルは、日本側は焼失、アメリカ側の物は現存する。
・ペリーは、下田開港など細目の協議の申し入れをし、協議までの間、下田・箱館の港湾事情調査に赴いた。この時、渡米を希望する吉田松陰、金子重之助がポウハタン号に近づいたがペリーは乗艦させず、2人は下田奉行所に自首した。
・神奈川条約の補足会議では、石炭の供給については下田(石炭は九州より輸送)のみとした。また、貨幣交換比率について、金と銀の交換比率を1対5としたことが、大きな禍根を残すことになった。というのは、当時の世界の金と銀の交換比率は1対15だったので、開国以降、莫大な金が流失することになった。
・第11条の領事駐在についても問題を残した。英文では、両国政府の一方が必要とする時は領事を下田に置くことが出来るとしているのに対して、和文では両国政府の合意が必要としている。オランダ語訳では、英文とほぼ同じ内容になっている。
・数回にわたる交渉を経て、和親条約に付随する13条が締結された(下田付属条約)。1854年6月17日(旧暦嘉永7年5月22日)に下田で調印が行われた後、ペリー率いる艦隊は6月25日と翌日にかけて下田を離れ琉球に向かった。
※その後、1858(安政5)年に、日米修好通商条約14条が締結された。その第3条では、下田・箱館に加え、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開港された(但し下田は神奈川開港の6か月後に閉港するとした)。
・神奈川・下田の交渉の意義は、弱肉強食を基調とし戦争が政治・外交の手法であった時代に、戦争によらず平和的交渉により政治解決の道を開いたことにある。戦争の結果としての「敗戦条約」は、懲罰として賠償金と領土割譲を伴うが、戦争を伴わない「交渉条約」には懲罰と云う概念がない。この意味で和親・通商条約は、稀有の事例で、それを可能にしたのは、老中や応接掛の国際情勢への理解力、対応力、さらに交渉力と語学力であった。
・これらの正式な条約は、日本が初めて外国と結んだ条約で、これにより日米の国交と通商が成立すると同時に、これまでの鎖国政策は大きな風穴を開けられ、終焉の時を迎えることになった。
・日米2つの条約は、後年、不平等条約だとして、担当した幕臣や通訳官の評判は悪く、彼らを歴史の舞台から消えさせている理由になっている。しかし、国内外の強い圧力の中でここまで漕ぎつけ、日本の独立を守ったことは、むしろ評価されるべきものであろう。
◇老中首座阿部正弘の評価
阿部正弘は、ペリー来航をオランダの情報で知りながら決断せず、開国に向けての国論統一の機を逸した、として後に非難されたりもしているが、当時の国力(防衛力の不備)や幕府を取り巻く環境(鎖国継続賛成派、攘夷派の存在)から、国内に時間をかけて理解を求める一方、アメリカを筆頭に国交と通商を求める外国に対して、掴みどころのない交渉人として対応し、自分の意図する方向で、冷静かつ慎重に条約を結ぶべく力を尽くした。
それは、阿部が登用したブレーンたち(川路聖謨、岩瀬修理、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟ら)が、情報分析により欧米列強の軍事力の強大さを知り、その上で、他のアジア諸国のように植民地化されるのを避けるにはどうすればよいかを考えぬいたからである。
・阿部は、自身も諸列強の先進技術を取り入れて国力をつけることが大事だとして、日本を開国に向けてリードしようとしていた。1856(安政3)年、「わが国も渡航厳禁の法を変え、交易互市、通商で利益を上げて富国強兵の基本としたいので、よく評議すべし」と提案している。
・阿部は、2年近い時間をかけて時代の変化を読み取り、開国の実現に向けて熟慮し、方針を決めてからは素早く行動した。国内統一を図るために、広く情報を公開して危機感を共有し、諸藩の意向を国政に反映させると同時に、有為の人材を多数登用して、その才能を発揮させた。
そして一歩誤れば国家存亡の危機にある時、砲艦外交の威圧に屈せず外交をもって国を開き、しかも最も恐れた植民地化を避け得たという大業を成し遂げた。
阿部正弘は、その後の「日本国」を築くための大筋を作り上げた功労者である、と評価してよいであろう。
・阿部は、老中首座を掘田正睦に譲った翌年に39歳で没した。阿部が長く存命していれば、列強との条約の結び方もかわり、日本の行方も大きくかわっていたのではないかと想像される。
4.関連事項(森山祐吾著「幕末の外交官・森山栄之助の活躍」から引用)
①混血青年ラナルド・マクドナルドの密入国
英国人の父と先住民の娘を母に持つアメリカ捕鯨船員の混血児ラナルド・マクドナルドは、混血の出自を意識する中で、日米を結ぶ仕事がしたいと考えた。捕鯨船が焼尻沖に至った時、マクドナルドは、日本に上陸するため漂流を装って上陸を決行した。だが無人のためあきらめ、さらにボートで利尻島に近づき救助されて、無事同島に上陸した。
②マクドナルドと森山栄之助の出会い
その後宗谷に移り、海路で松前に渡ったマクドナルドは密入国の取り調べを受けた後、長崎に護送され牢に入れられた。
再度の取り調べの時の通訳が森山栄之助であった。マクドナルドに好感を抱いた森山は、通詞仲間14人でマクドナルドから英語を習ったが、森山の上達が一番早かった。その後、マクドナルドは長崎に入港したアメリカ軍艦に引き渡されて帰国したが、マクドナルドに習った森山の英語は、後日のペリーの再来航の時に大いに役立った。
③通詞森山栄之助の評価
森山栄之助は、日米和親交渉で、会談の通訳、条約文の翻訳、アメリカ側訳文の突合わせやポウハタン号へ出向いての打ち合わせなど、連日の激務をやり遂げた。アメリカ主席通詞官ウイリアムズは、森山を応接掛代理、と呼び「栄之助はこの協議で決定権を任されているように見え、それ相当にその任に適していた」と評している。
栄之助は、「もし自分の通訳に誤りがあれば国の存亡につながりかねない」と、通訳業務の重大さを肝に銘じていた。 また、下田会談が終わった後で「もし私が何か面倒なことを仕出かして体面を傷つけたりすることがあれば、速やかに進退を決する心構えである」との覚悟を述べている。
幕末期における外国との交渉は、通詞の能力如何で成果が左右されたといっても過言ではない。日露、日米両交渉の裏に、懸命に働き立派な成果を挙げた通詞がいたことを忘れてはならない。
④意外な日英交渉の妥結
・1853(嘉永6)年、ロシアとトルコ・英仏連合国とのクリミア戦争が勃発した。
・翌年、イギリス東インド艦隊司令長官スターリングが使節として蒸気船3隻、帆船1隻で長崎に来航した。
・目的は、ロシア艦隊攻撃のため、同盟国フランスの艦隊も入国できる港の開港であった。幕府は「戦争行動のためでなければ、長崎・箱館を開港し、薪水、食料その他の必需品の補給と船舶の修理を認める。ただし、ロシアの艦隊との交戦は、日本の港内、近海においては許さない」と回答した。
スターリングは日本の回答をすべて受け入れたので、1か月ほどの交渉で合意に達し、1854年10月14日、日英和親条約が調印された(スターリングは正式な国書を持参していなかったので、この条約は日英約定とも言われる)。
⑤フランス軍艦の箱館入港
1854年に日米和親条約締結で下田とともに開港された箱館に、翌年、フランス軍艦シビール号が現れた。目的は、水と食料の補給と艦内に収容しきれない壊血病患者50人の陸上での養生であった。箱館奉行は幕府の許可を得ないまま人道上の見地から独断でフランスの依頼を許可した。シビール号は、2週間後、病人を残して出港した。残された50人は、急ごしらえで病院とされた実行寺で手厚い看護を受け大半が回復したが6人が死亡、葬儀は、実行寺住職と艦隊付き神父により執り行われた。その後、ヴィルジニ号とコンスタンチィヌ号も入港した。
以上が本日の講座の概要ですが、森山さんは最後にペリー来航から15年間の幕末(その期間については他説もある)の出来事をホワイトボードに書いて説明されました。
1860年 桜田門外の変・井伊直弼の暗殺
1863年 薩英戦争(薩摩/英国)
1864年 四国連合艦隊との戦争(長州/英、仏、蘭、米)
1866年 薩長同盟
1867年 大政奉還、王政復古
1868年1月3日~1869年5月18日
戊辰戦争
1868年 江戸を東京と改称、年号を明治とする
こうして4回の講座が終了しましたが、何れの回もテーマについて大変詳しい資料と説明があり、受講者は大満足だったようです。
講座を終えた森山さんは、初回に紹介されたサミュエル・ウルマンの詩「青春」をもう一度読み上げて、「4週の講座に参加していただき、ありがとうございました。これからも、日々楽しみながら学び続けて下さい」と結ばれました。
最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「学生時代に『日本史』を勉強したつもりでしたが、学年末には時間切れで、殆ど近代史は歴史年表の一行知識だった事を思いしらされました。今回は、本当に良い講座に出会え、有り難うございました。北方四島が戻らないのも納得出来ました」
「森山講師のふとした時の話『歴史のことを調べると、枝葉のことが気になることがある。それを調べると新しい発見があり、また別の枝葉が気になり、新しい事実を見つけることがある』、これは全く同感である。学びの楽しさかもしれない。それが結実したのが森山祐吾著『幕末の外交官・森山栄之助の活躍』の著作か」
「歴史上の大きな変動の引き金となる出来事が、大変親しみのあるお話によって生き生きとしたストーリーになって理解できました。楽しい学びの時間でした。資料自体大変有効な上、先生のユーモアあふれる語り、パフォーマンスで更に理解しやすく楽しいものでした。歴史のとらえ方、勉強になりました。感謝!」
「毎回、判りやすい説明で本当によかった。ありがとうございました。別の事例で受講したいものです」
「森山先生の話は、参加者に理解しやすいように白板や予め用意したプリントにより、要領よく進めて下さいました。幕末のペリーの時代が良くわかりました。この続きも聞きたいです」
「ラッコの毛皮の価値、マッコウ鯨の脳油の価値がこれほど日本の開国に影響を与えたのかと面白く学ぶことができました。何より森山先生の語りに引き込まれ、大変有意義な講座となりました。ありがとうございました。また、来年もお願いします」