9月29日(金)、主催講座10「北海道の神社を知る」の第1回「北海道の神社について」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は國學院大學北海道短期大學部准教授の森悟朗さん、受講者は37人でした。
森さんは、現在は小さな祠や石仏や石碑の調査研究を中心にしていると云います。幕末から近現代の神社やお寺、民間信仰の地域における実態、地域社会との関係等について関心があり、数年前から北海道の神社について研究を進めているとのことです。開拓地の神社は、移住者たちが、まず木の杭を立ててそこに神様の名前を書いて、それを氏神様の代わりにしてお祀りをしたり(棒杭神社)、または切り株の上に神棚を設けて地元のお札を祀ったり(切株神社)している。そうした創始形態は興味深いと話され、本題に入りました。
以下、概要を紹介します。
◆今回のテーマ
北海道の神社について―その特徴を捉えることー
Ⅰ全国の著名な神社信仰の種類と分布
⒈ 日本全国における信仰神社数の順位
・何をもって神社とするか:神社本庁に宗教法人として登録
されている神社数約80,000社。神職は20,000人ぐらい。
①八幡 ②伊勢 ③天神 ④稲荷 ➄熊野 ⑥諏訪
⑦祇園 ⑧白山 ⑨日吉 ⑩山神 ⑪春日
⒉地方別の順位
北海道・東北地方 ①八幡 ②伊勢 ③稲荷 ④熊野
関東地方 ①八幡 ②伊勢 ③稲荷 ④熊野
北陸・甲信地方 ①八幡 ②伊勢 ③諏訪 ④白山
東海地方 ①八幡 ②伊勢 ③白山
近畿地方 ①八幡 ②春日 ③稲荷
中国地方 ①八幡 ②天神 ③荒神
四国地方 ①八幡 ②天神 ③山神
九州・沖縄地方 ①八幡 ②天神 ③熊野
・八幡:宇佐八幡宮(宇佐神宮)からはじまる。聖なる山(馬城峯)を八本の旗(=幡)を立ててお祀りしていたとされる。応神天皇と神功皇后も祀る。大陸から日本を守る神として信仰された。皇族・貴族から武士まで広がり、鎌倉幕府の守護神(鶴岡八幡宮)とされた。江戸時代までに本州の多くの地域に八幡社が創建されており、これがのちに北海道に移住した人々によって多くの八幡神社が創建される要因になっている。
・伊勢:天照大神を祀る。伊勢神宮の下級神職が「御師」として方々に進出し、伊勢暦やお札を配るなど、各地にお得意様の「檀那」を抱え、その檀那たちをお伊勢参りにいざなった。特に近世、農村に広まった。その各地の檀那たちが伊勢信仰系の神明社を創建していった。
・近畿地方は2番目に春日が入る:奈良の春日大社。
・中国、四国、九州、沖縄地方は天神:菅原道真の「左遷」の道筋。
・稲荷:伏見稲荷大社を中心に各地の農村・漁村の豊作・豊漁、都市部の商売繁盛、家業繁栄など、広汎な祈願がなされるようになった。
・諏訪:諏訪湖、諏訪大社。武神として武士に広まる。
・祇園:疫神・牛頭天王を祀る京都・祇園社。現在の八坂神社、祇園祭(疫病を払う)。
・山神:愛媛県の大山祇神社の影響か。
・熊野:古来、日本一の紀伊半島の森。仏の浄土としての熊野詣。
・白山:白山(福井県・石川県・岐阜県にまたがる)の信仰。
・日吉:比叡山延暦寺の鎮守神。
Ⅱ,北海道の神社の特徴について
〇北海道の神社史を考えるうえで、次の2つの論考をもとに、考えてみたい。
・アンケート調査で信仰があると答える日本人:およそ20%
神道と答える人:6%に満たない
・初詣に神社やお寺へ、お盆にはお寺へ➞これは何だろう
・年中行事や人生儀礼と神社仏閣との関わりを下敷きに
◇神道の特徴
⒈多神教である
⒉神は目に見えない存在→記紀などの神話→仏教の影響で神像・絵巻などに描かれるように。
⒊神はある一定の場所に鎮守する。氏神様、地鎮祭など。
⒋神はモノ(物・者)に宿る。御神体(三種の神器など)、巫女など。
⒌神は分かれたり移動したりする。勧請、分霊。
更に、人を祀る:初期は怨霊を祀る。
中世以降、偉人、功労者を祀る。
[1] 北海道の神社の特徴(1)―創建年代と祭神―
※以下、前掲茂木「北海道における神社の創建と展開 ―神社明細帳データベース化の試み―」(『北海道神社明細帳の分析』所収)を参照。画像はすべてこの論文による。
1.江戸開幕以前(1603年以前)
◇分布図① ~1603年
・16社 ・松前、檜山、函館の道南に集中
・八幡信仰の広がり →函館八幡宮を中心にして、松前藩をはじめとする武家領主たちの八幡信仰。
・松前神楽の形成~神楽を舞えることが神職の条件だった。
2.徳川幕府成立(1603年)~松前藩転封(1798)まで
◇分布図② 1604~1798年
・72社
・海岸の「場所」に、商人たち場所請負人によって、稲荷社や厳島神社(弁天社)が祀られていく。
・八幡信仰のさらなる広がり ...上記の八幡社の神職たちの活動も影響。
・この時期、道南の日本海沿岸を中心に神社が創建されてゆき。乙部(4社)、熊石(3社)、江差(4社)、上ノ国(4社)、松前(12社)、福島(6社)、函館(5社)、尻岸内(4社)、小樽(8社)、積丹(2社)、留萌(2社)、増毛(2社)など。
⇒・はじめは前代からの流れで八幡神社が広がる。
・また、松前藩の崇敬篤かった徳山大神宮(松前〈蠣崎〉季広創建)などに見られる伊勢信仰からか、四社の大神宮が創建される(姥神大神宮、山上大神宮、福島大神宮、白符大神宮)。伊勢信仰は江戸期を通じて、全国的にも広がり深まる。
・さらに厳島神社(弁天社)、稲荷神社などが祀られていく。
・この時期、道東にも、十勝神社や斜里神社が創建される。
⇒【考察(森)】・倉稲魂神と保食神は、両方とも稲荷信仰と考えられるので、その広まりがわかる。江戸期の稲荷信仰の高まりが影響しているのではないかと考えられる。
・この神社祭神のデータは『神社明細帳』に基づいており、茂木によるデータ集計・分析は戦後であって、天照大神は、当該期の神社においても、特に明治以降、地域の鎮守化をするときに祭神に加わることもあるので不思議ではない(後述)。また、江戸後期から明治期にかけての伊勢信仰の高まりも影響していると思われる。
・市杵島姫命(=弁才天)はやはり多い。
・事代主命は、エビス(恵比寿、恵美須、恵比須、蛭子)信仰と考えられる。
・大物主命は、金毘羅信仰と考えられるが、意外と少ない。
・素戔嗚、大国主神が少なく、大國魂神がないのは興味深い。大国主神と大國魂神は、のちに明治期になって札幌神社が創建されてから開拓三神(あともう一柱は少彦名神)として道内に広まる。それ以前の状況が、如実に表れている。
・天御中主神がないのも興味深い。天御中主神は、相馬妙見信仰、牛馬守護の信仰として、福島県相馬太田神社から分霊されることが多い。これも、明治期以降の展開である。
3.幕府直轄(1799年)~明治維新(1867)まで
◇分布図③ 1799~1867年
・96社
・神社創建の波は道南から積丹半島を超え、北は小樽、留萌、羽幌、稚内へと進む。南部では、襟裳岬に同時期に八社もの神社創建をみている。沿岸部の主に漁業者による拠点作りと神社創建は進んだが、この時期はほとんど内陸の開拓、神社創建は行なわれていなかった。
・この時期、幕府が東蝦夷地(北海道)を直轄にしたのは、外国(特にイギリスやロシア)の領土的脅威が増大したからである。
→幕府は東蝦夷地と千島を直轄し、その沿岸に勤番所、会所を設け、八幡神等の守護神を鎮祭せしめた(『北海道神社誌』)。
・この時期の最も大きな特徴は、稲荷社の爆発的な増加である。36社創建されており、この時期創建の神社の3割以上を占める。
⇒【考察(森)】・航海安全、大漁、商売繁盛の祈願だろう。
・場所請負人は、主に稲荷神社と厳島神社(弁天社)を勧請している。
⇒【考察(森)】
・稲荷信仰、八幡信仰、厳島(弁天)信仰が盛んである。
・事代主命のエビス信仰も高まっている。特に石狩川流域
・その他は、前の時期と同様、いまだ盛んとはいえない。
4.明治維新以降
・明治維新以降、急速に内陸の柘植が始まる。特に、石狩川流域
◇明治維新(1868)~開拓使十年計画終了・明治15年(1882)まで
◇分布図④ 1868~1882年
・55社
・郷社・村社の社格に、明治8年53社、9年89社、12年 2社、列格する。➞のちに、神社整理(合祀)される
・もう道南地方の神社創建はほとんどなく、小樽での神社創建も終わっている。札幌、岩見沢、石狩川流域に人が入りつつある。
・明治2年以降、札幌神社の開拓三神(大那牟遅神〈=大己貴神〉・大國魂神・少彦名神)が確定し、開拓地に分霊されていく。
・屯田兵制度は、明治7年~37年。その中期以降は、屯田兵村の創祀神社には、主に天照大御神が祀られた(例外も少しあり)。
⇒【考察(森)】・明治以降、開拓地において、天照大神が非常に多く祀られる。これについては、後述する。
・八幡信仰(誉田別命)もまだ根強い。全国的に八幡信仰は篤く、八幡社は全国的に各地の鎮守社(氏神社)としては最も数が多いとされている。開拓地の移住民たちが郷里の神社祭神を祀るとき、八幡神が多いのは自然であろう。
・同様に稲荷信仰(保食神・倉稲魂神)が多く、開拓地の神社の祭神となるのも、八幡信仰と同様に、全国的に各地の鎮守社が多いことに加え、農耕神であることも一因だろう。
・大己貴命と大國魂神は、札幌神社の開拓三神の分霊と考えられる。
・大国主神は、それとは違うかもしれないが、出雲大社の祭神なので、全国各地から来る開拓移民が、開拓地の神社で祀っても不思議ではない。
・大山祇命は、炭鉱山で祀られる。この時期、すでに北海道の炭鉱産業が始まっている。
・厳島(弁天)信仰(市杵島姫命)、エビス信仰(事代主命)は、創建がなくなったわけではないが、比率は下がっている。
・相馬妙見信仰(天御中主神)は、まだ見られない。
◇明治16年(1883)~明治33年(1900)まで
◇分布図⑤ 1883~1900年
・明治19年に北海道庁が設置。
・94社
・屯田兵村における神社創祀が増加する。それにより天照大御神を祭神とする神社が増加する。
・札幌地域の拓植がさらに進み、神社の創建が多くなることがみえる。石狩川流域の開拓がピークを迎えた(まだ開拓は続くが)。美唄、岩見沢、旭川、音更、釧路、根室なども開け、利尻島に大量に拓植集団が入って生活を始める。
⇒【考察(森)】・天照大神が、劇的に増加する。
〇天照大御神の祭神の増加について
・「本州よりの移住開拓団は一族又は一部落挙げての大集団のものと、個々の移民又は小規模移民の結合したものとがある。前者の崇敬の中心は、やはり郷土の神であってこれが次第に地方の氏神神社へと発展した神社がある。(中略)後者は、所謂切株神社(開拓の切株又は標杭に神名を記した等云われる)をその団結の中心としたが、郷土が一致しないので天照大御神又は開拓三神を奉斎した」(『北海道神社誌』)。
→確かに、それも要因としてある。
・なぜ天照大御神であれば、郷土が異なる地域住民たちが納得するのか。それは、江戸期の伊勢信仰の普及・浸透も、一要因ではないか。
・しかも、明治新政府は、天皇を中心とする近代天皇制国家をつくりあげていった。その最中であり、政府の法令・政令は天皇の権威のもとに発されていた。屯田兵も、兵村の創祀神社の祭神は多くが天照大御神とされた。
・また、天照大御神を祀る、開拓地の神社の祭神を確認すると、かなり多くの神社が、郷里の神社の祭神も一緒に祀っている。郷里の神社の祭神に加える、という意識もうかがえる。その背景としては、中心となる人々以外にも、少数移住民や新規移住民と共に地域の鎮守社の祭祀をする際に、天照大御神を加えることにあまり抵抗がなかったのではないか。
→これらのことによって、天照大御神を祭神とする神社が非常に増加する。
・そして、この天照大御神を神社祭神として祀ることの隆盛は、強まりこそすれ、近代を通して変わらなかったのではないか。
・大己貴神と大國魂神の大きな増加は、札幌神社の開拓三神の分霊を祀る開拓地神社が増加したからであろう。
→・しかし、実際に大己貴神や大国主神を祀っている神社をみてみると、一概にはそうは言えない。次のパターンがあると思われる。①大国主神の「国づくり」神話の信仰、出雲大社信仰によって祀られている場合も多い。②天照大御神と大国主神(大己貴神)が同時に祀られることも多い。これも①が影響してのことではないか。天津神代表で太陽神であり皇祖神でもある天照大御神と、国津神代表で幽世から現世を支える大国主神を祀れば、より心強いと考えた人々もあるのではないか。③大己貴神は、秋田県太平山三吉神社の祭神でもあり、太平山三吉信仰は北海道に広く分布していて、祭神とされることも多い。
・八幡信仰、稲荷信仰は、これまでに述べた理由によって、やはり根強い。
・伊勢信仰(天照大御神)の高まりによって、豊受大神も増加している。
・厳島(弁天)信仰(市杵島姫命)、エビス信仰(事代主命)、金毘羅信仰(大物主神)の低下は、産業全体からすれば、漁業や船運などの海洋産業の比率が低下していることを示すのではないか。
◇北海道十年計画期間・明治34年(1901)~明治42年(1909)まで
◇分布図⑥ 1901~1909年
・66社
・明治後期のこの時期には、すでに札幌での神社創建もピークを迎え、札幌の市街地建設事業が完了してきたことが伺える。開拓が軌道にのれば神社の創建も増えてくる。その公認許可は北海道庁長官に一任された。「北海道庁は開拓途上の特殊事情に鑑み、一町村一社に限り、許可する方針を立て、それも町村の中心地の神社を氏神神社として許可し、他の集落の神社は、所謂未公認神社として、その氏神の神職が所斎するようにした。この方針が現在までおおむね踏襲されたため、氏神神社及び神職の基礎が確立し、更にその町村と密着し、行事、運営も町村が当るものが多く、全く町村神社の感が深くなったので、北海道庁も、神饌幣帛料供進神社を指定して、更にその格付けを明確にした」(『北海道神社誌』)。
→この動向とともに、全国で進められる神社整理(神社合祀)の影響も考えなければならず、今後の課題である。
・祭神(省略)
⇒【考察(森)】・前の時期と、全体の傾向は、あまり変わらない。
・前の時期でも述べたが、大国主神・大己貴命の割合が多くなっている。
・稲荷信仰の勢いが若干落ちているか。
・相馬妙見信仰(天御中主神)が少し増加している。馬については、開拓や移動になくてはならないし、日清・日露戦争以降、軍馬として甚大な頭数が犠牲になっている。馬に関する産業も盛んになってきている。
◇ 第一期拓植計画・明治43 年(1910)~大正15 年(1926)まで
◇分布図⑦ 1910~1926年
・69社
・大正期の開拓重点地がわかる。石狩平野と十勝平野である。
・この時期の神社は、祭神が天照大神と開拓三神の割合がますます高まる。
・祭神(省略)
⇒【考察(森)】・八幡信仰はまだ根強いが、稲荷信仰はさらに減少していく。
・炭鉱に祀る大山祇神は、さらに増加している。
◇第二期拓植計画・昭和2年(1927)~終戦・昭和20年(1945)まで
◇分布図⑧ 1927~1945年
・54社
・十勝と上川での神社創建が多い。
・祭神(省略)
⇒【考察(森)】・前の時期までの傾向がさらに甚だしくなっている。
◇ 戦後・昭和21年(1946)~
◇分布図⑨ 1946年~
・21社
⇒【考察(森)】・戦後、宗教法人格を取得し、神社本庁包括下に入った神社は、それ以前から未公認神社として存在していた神社が多いと推測される。
→戦後も、新たに包括下に入った神社は、傾向がそれほど変わらないことがわかる。
⬛茂木栄氏のまとめ
・北海道神社の創建を通時的に鳥瞰すると、明治維新以前と以後の神社創建では、その様相が全く異なることがわかる。
・まず、明治以前創建の神社は全国的な信仰の広がりを持つ有力神社の勧請にかかわる。
→稲荷神社71社、八幡神社32社、厳島神社(弁天社)19 社、恵比寿神社5社、住吉神社4社、熊野神社4社。
→通時的には、およそ、八幡神社、厳島神社(弁天社)、稲荷神社、恵比寿神社、住吉神社の順に、地理的には道南から創建が始まって、日本海側の北廻りに檜山、積丹、小樽、留萌へと広がっていった。
・稲荷神社や厳島神社(弁天社)の奉祭は場所請負人の勧請によるものが多い。江戸中期から後期には、北海道の道東部や道北部の沿岸部にも、これらの神社の勧請・創建が進んだ。主に明治以前に創建された神社のほとんどが沿岸部に鎮座し、それらは八幡神を除けば、多くが海の神と漁業商業神だった。
・それに対し、明治維新以後に創建された神社の祭神の多くは、開拓の神、山の神、土地の神、そして天照大神などだった。特に、明治期以降の開拓が進むにつれて、天照大神や開拓三神の割合が高くなっていった。
・上記のように、北海道の神社の祭神は、創建時期によって、変遷してきたといえよう。
【まとめ(森)】
・しかし、明治以前に創建された神社祭神も、当然のことながら、現在も祀られ、地域住民から崇敬(信仰)されている。つまり、上記のように創建されたすべての神社祭神と神社をめぐる文化が、北海道の神社の特徴を示しているといえよう。
以上、全国の信仰の割合を見比べると北海道の神社の歴史的な特徴を示していると考えられる。
次回は、北海道の神社の特徴(2)―移住形態と祭神の考察と、北海道の神社・石碑・祠の調査研究についてお話ししたい。
最後に受講者のコメントを一部要約して紹介します。
「普段、何気なく神社にお参りしているが、そこに祭られている神様の由来を知ることができて楽しかった」
「屯田兵や北海道開拓団が各部落に入ると直ちに神社を創った訳ですが、各団体には、宮大工が必ず居たのでしょうか。又は、道内にいる大工に発注したのでしょうか。神社は住居と違って特殊な大工が必要だと思われる。大工、神社、材料等の調達はどうなっていたのでしょうか?」
「大変おもしろく興味深い内容でした。北海道の開拓の歴史と深い関係がある私たちの生活にかなり密着した神社の成り立ちや歴史に気づきました」
「配布物、資料としてじっくり改めて読んでみたい。貴重な資料のようである。基礎が少ない自分にはやはり難しい、確認しながら進めていかなければ、理解がついていけない状態であった。ただ、大きな目での神社に対するものが多少なりとも参考になった気がする」
「開拓期の北海道の神社建立に興味があります。神社の鳥居などは、移住民の故郷の方向に向けて建立されたのでしょうか」