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まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」第1回「科学技術者としての活躍」

2024/03/02

 2月27日(火)、まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」の第1回「科学技術者としての活躍」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、市民カレッジ運営委員の徳田昌生さん、受講者は35名でした。
 徳田さんは最初に7つほどイメージ項目を挙げて、皆さんがイメージする榎本武揚はどれですか、と問われましたが、一番多かったのが「箱館五稜郭の戦いのリーダー」と「敗軍の将」の2つで、「科学技術者」のイメージは薄いようでした。
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 本日のテーマ「科学技術者としての活躍」については、主に6つの項目に分けて解説されました。
1.流星刀の製作
2.科学技術者としての榎本武揚
3.製鉄所の設立
4.北海道のおける鉱物調査
5.電信事業の立ち上げ
6.積極的な学会活動
7.その他
以下はその解説の概要です。
1.流星刀の製作
1-1 星(隕石)から作った流星(星鉄)刀
・ロシア滞在中にペテルスブルグでロシア皇帝アレキサンドル1世所蔵の流星刀を見たことがきっかけで、榎本は明治28年富山県白萩村で発見された隕石を数千円で購入、刀鍛冶岡吉國宗に長刀2振、短刀2振を作らせた。長刀、短刀各1振を皇太子に献上(現在宮中所蔵)したところ、さらに1振の製作下命があり合計5振を製作した。1振は榎本家で保存、1振は小樽龍宮神社(武揚のひ孫隆允氏が2017年に奉納)、1振は東京農大で保存されている。
・現存する流星刀は世界中でわずか数10本しかないといわれ、そのうち5振を製作した榎本の意欲と苦労がしのばれる。
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1-2 星鉄(隕石)の成分研究
・榎本は流星刀を作るだけでなく、原料の隕石についても研究、「流星刀記事」という論文を書いた。
・加茂儀一(著書「榎本武揚」)は、「流星刀記事」は隕石に関して書かれた日本最初の科学論文ではないか、と述べている。研究論文のオリジナルは現在龍宮神社に奉納されている。
・論文内容
 星石と星鉄の意義、世界の流星落下時の現象、日本で発見された星石、自身所有の星石の由来と定量分析の結果、各国に落下した星鉄個々の定量分析図表、製作した流星刀について記載されている。
・流星刀の原料が星石(隕石)であることの確認
 原料の1片を酸に溶解し、緑色に変化したことからニッケルが含まれていると推定。ニッケル金属は日本で産出されないことと星石中には一般にニッケルが含まれていることから原料が隕石であると確信。
 さらに硝酸試験により隕石の特徴である「ウィドマン・シュテッテン紋様」が現れたことからも隕石であることを確信した。
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2.科学技術者としての榎本武揚
2-1 シベリア日記から
榎本は明治11(1878)年ロシアでの特命全権公使の任を終えてペテルスブルグからシベリア経由で帰国する際、各地の人情風俗、地質、地味および鉱物などを調査し、「シベリア日記」として書き残したが、その中には榎本が化学や工学に対して深い知識と関心を持っていたことを示す記述がある。
②砂金鋳造についての記述
②馬が泥を喰うのは塩気を含んでいるからと教えられ、その泥に水を混ぜて塩気を確かめ、ラービス(硝酸銀)水を混ぜると白色の沈殿物が生じることを確かめた。
※「シベリア日記」現代語訳のあとがきで諏訪部・中村らは、榎本武揚の第一の本性はエンジニアであったとさえ思われます。機械の話になると格別に筆が滑らかになります、と書いている。
2-2 獄中での態度
・明治2(1869)年(榎本34歳)、普通犯と同じ獄舎に投獄された。
・榎本は、外国の技術書・科学書・外国新聞を差し入れてもらい読み漁った。
・兄に、様々な日用品の製法を教え、起業を勧めた。中でも熱心だったのが孵卵器開発。石鹸の製法は、資生堂創設者・福原有信に伝わり、これが資生堂の始まりとなった。
・極刑が予想される中、実際的なアイデアを提案し続けた姿に、技術者らしい割り切りが感じられる(佐々木譲「幕臣たちと技術立国)。
2-3 榎本のエンジニア的資質はどこから来たか?
1)家庭環境~父親は測量技師(伊能忠敬の筆頭内弟子で数学が得意)
武揚も数学、化学などが得意だった。
2)長崎海軍伝習所~航海術の基本となる数学や物理、化学、エンジニアリング(科学技術の応用により物品を生産する技術や、それらを研究する学問の総称)などを学んだ。
3)オランダ留学~航海術のほか、数学、化学などを学び貪欲に吸収。また、オランダ、ドイツ、イギリス、フランスなどの近代産業を積極的に見学・学習した。
2-4 体験から得られた資質~長崎海軍伝習所とオランダなど
・榎本は、長崎海軍伝習所でエンジニアリングという学問と出会い、人生を大きく変える契機となった。すべての知識には事実と論理があり、分からないことは実験で確認するが、実験にも論理がある。計算と図という新しい言葉も知った。設計はその言葉で行われ、新しいかたちと価値が世に誕生することを知らされた。
・榎本は、オランダ留学中に実際の戦争とは別の経済戦争も見聞し、「平和の戦」のためのものづくりはシビル・エンジニア(技術者)が指揮することを知った。
・蝦夷嶋を占領後、選挙で役職を決め、榎本は蝦夷嶋総裁になった。この蝦夷嶋政権は、各国列強に明治政府より開明的との印象を与えた。榎本は、蝦夷島の武士による開拓や資源探査、事業を模索した。
また、プロセインの貿易商ガルトネルと七重村開墾に関する契約(条約)を結んだが、これにより七重村は日本の西洋リンゴ栽培発祥の地となり、榎本は欧式開拓法を知った。
3.製鉄所の設立
3-1 製鉄所建設の背景
・鉄は国家なり、の言葉通り、鉄の生産は軍事や工業、鉄道等のインフラ整備などにおいて非常に重要だった。
・幕末には、小栗上野介の横須賀製鉄所の設立構想や江川太郎左衛門の反射炉を基とした製鉄所の試作などあったが規模が小さく、近代化で必要とされる量の生産には到底達することができなかった。
・榎本は、鉄の重要性を早くから認識し、オランダ留学時にロンドン・シェフィールド製鉄所を見学、ドイツのクルップ社も訪問、クルップ社長と会見して軍艦開陽丸に搭載する大砲を注文した。このように、榎本は、ヨーロッパの軍用、民生用の製鋼事業を積極的に把握しようとしていた。
3-2 官営八幡製鐡所の建設(正式名称:農商務省製鐡所)
・野呂景義が明治27(1894)年に釜石製鉄所でコークス高炉法による製鉄技術を完成させたのが、日本の製鉄技術の基礎の確立といわれる。
・後藤象二郎(前農商務大臣)の製鉄所民営方針決定以来、農商務省の臨時製鉄調査事業は実質停止していたが、日清戦争が契機となり、明治29(1896)年第9回帝国議会で建設予算が承認され、明治31(1898)年に建設着手した。
・途中2年間の建設中止(野呂の退職、榎本の大臣辞職などで混乱と遅延)を経て明治34(1901)年にようやく一部稼働開始した。
・辞職前の榎本の製鉄所設立意見は、ドイツの多品種少量生産方式の技術移転を選択する鉄鋼一貫工場建設であった。
・建設の混乱と遅延を審議調査する「製鉄事業調査会」で、堀田連太郎は、榎本の辞職で製鉄に関する知識と技術思想が欠けてしまったことを遺憾としている。
・明治37(1904)年~明治38(1905)年頃から日本の鉄鋼技術が自立し始めた。
・明治38(1905)年 日本の銑鉄の生産量は明治37年の2.5倍、粗鋼生産量は明治35年の2倍となった。
4.北海道における鉱物調査
4-1 榎本武揚と地質学
・榎本にとって「学理ハ工芸(技術)ニ応用」されるものであり、地質学も鉱物資源の調査、採掘という目的につかわれるべきとの考えで、大臣になっても常に技術者としての心は失なわなかった。
・地質学者としての榎本武揚の社会的応用への功績
①明治初期の北海道地質調査~空知炭鉱の発見など
②東京地学協会創設~地学・地質学の学問的基盤の整備
③砂鉄・石炭調査~和田維四郎の研究を支援するなど、製鉄所建造に向けての地質学的探求に貢献
④八幡製鐡所建造~応用地質学の最終目的の一つというべきで、農商務大臣あるいは技術者として関与
⑤「流星刀記事」~白萩隕鉄の分析値や小城隕石落下の記録が記されており、隕石学における重要な文献
4-2鉱物資源調査~黒田と榎本
・榎本は出獄後、北海道開拓使四等官(県知事並み)となり、黒田から北海道の鉱物資源調査を命じられた(明治5(1872)年)。
・黒田は、ケプロン、アンチセル、ワルフィールド、ライマンなどにも調査を依頼したが、彼らは優秀でも永続的に従事できるものではなかった。黒田にとって北海道開拓への思いを理解し科学的調査に通じた日本人が必要だったが、それが近代科学の知識を持つ榎本だった(加茂儀一「榎本武揚」)。
・榎本は、明治5年5月に北海道に向かい、函館に上陸後直ちに北海道鉱山検査巡回の任にあたり、函館郊外古武井の砂鉄、恵山の硫黄、鷲の木・泉沢・山越の石油、三森山の鉛、茅沼炭鉱、石狩当別の石脳油(石油)などを見て回った。
・明治6年、地質学の専門家ライマンなどが本格的に地下資源の調査を開始。岩内炭鉱の埋蔵量は少ないが、石狩炭田は埋蔵量豊富で(1千万トンと算定)良質であると報告した。
・榎本は、ケプロンやライマンの報告は知っていたが、調査がおおまかで実地調査が不行き届きだと感じていた。外国人により行われている札幌近辺の調査の及ばぬ函館近辺、十勝その他の地域を調査、離島や宗谷方面の物産も視察した後、最後に明治6年6月から、石狩炭田の調査を開始した。
・幌内炭鉱は石狩国空知郡にあり、石狩や島松の住人が発見、明治5年に札幌住民早川長十郎が炭塊数個を採取して開拓使庁に提出した。
・明治6年に調査した榎本は、「イクシベツ石炭調査」という日記風の報告書を開拓使に提出した。
4-3 榎本の鉱物資源調査
・幌内石炭は、榎本の調査の前に早川長十郎やライマンが概略調査を行っていたが、空知石炭は榎本によって始めて調査された。
・ライマンの幌内石炭調査は、実際に石炭層を見ないで予測したもので、実質的な発見者は榎本に帰すべきものである(加茂儀一「榎本武揚」)。
・榎本の幌内、空知炭鉱調査は、約20日間の野宿生活の上でなされたもので、埋蔵量を調べ、その質が唐津石炭(九州石炭)より良質なことを認めている。
・榎本は、石炭の運搬について、石狩川を舟航して河口へ行き、そこから小樽に運ぶのが便利だ、と暗示している。
・榎本は、幌内と空知の石炭を分析し、良質であることを確かめたが、この分析表も最初の物である。
・開拓使は、ケプロンと榎本の報告を重視し、明治7年にライマンにさらに詳しい調査をさせた。
・明治10年12月に幌内煤炭の開発が議決され、翌年開採資金100余万円の交付が許可された。
・石炭輸送については、明治12年末に鉄道により札幌を経由して小樽へ輸送することが決定、明治13年1月に手宮・幌内間の鉄道線路工事に着手、同年11月に手宮―札幌間の鉄道が開通した。
・幌内煤炭は、輸送機関の完成により、事実上道内第一の炭田となった。幌内煤炭の開発に伴う札幌、小樽の繁栄は、もとはといえば、榎本の幌内炭層の発見が原因の一つとなっている(加茂儀一「榎本武揚」)。
5.電信事業の立ち上げ
5-1 「国利民福(こくりみんぷく)」
・榎本は、いくつかの学会の会長演説で、盛んに「国利民福」を訴えている。平和の戦いに勝つためには殖産興業の発達が必要で、国際市場における競争に勝つことで国民が幸せになる、即ち国利民福ということを常に考えていた(富国強兵という考えはなかったように思われる)。
学会の演説では、活動や成果が国家のインフラや軍用に偏っている、もっと民生用の事業活動を盛んにしなければならぬ、と述べている。
5-2 榎本と電信機
・榎本は、オランダ留学から帰国する際、電信機の将来を見抜いてフランスのディニエ製モールス印字通信機2台を購入、開陽丸に積み込んで帰国した。その後常に手元おいて練習していたが、1台は開陽丸が沈没して消失し、もう1台は函館の知人に預けたが紛失した。ところが、愛宕下の古道具屋で沖電気工業の創始者沖牙太郎が見つけて購入し、それを明治21年の電気学会で展示紹介したところ、電気学会の会長だった榎本が、それは20年以上前に自分がオランダから持ち帰った物であることを披露したので、人々は大変驚いた。沖は、その電信機を逓信省に寄贈して電信機は再び榎本のもとに戻って来た。
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5-3 海底電信線敷設工事
・榎本はオランダ留学中に、種々の勉強の他に電信技術も実地に研究し、その技術を身につけていた。
電信・電話をはじめとする日本の数々の近代化には、榎本の知識と技術が必要だった。
・榎本は、明治18(1885)年に初代逓信大臣に就任、明治22(1889)年まで逓信大臣を続け、国内の海底電信線敷設工事を日本人の手で行う事と電信事業の民営化を主張した。
・明治21(1888)年、函館海底電線工事をデンマークのグレートノーザンテレコム(大北電信)に発注しようとした際、榎本は、どうして自分たちで試みないのか、一、二度失敗しても自分たちでできるようになれば国家に大利益をもたらすと言った。それを聞いたエンジニアたちは奮励してチャレンジした、と伝えられている。
・明治23年、逓信省の吉田正秀、神谷貞廣らは、瀬戸内海で練習した後函館で工事を行い成功した。以後、国内の海底電信線敷設工事はすべて日本人の手で行われるようになった。
・電気学会での神谷の報告では、工事費は数千円で当初試算の2万円ほどの節約どころでなく都合7万円の政府利益となった。
5-4 電話事業の民営化
・電話事業の民営化・官営化論争を進展させたのも榎本の成果である。
・電話事業の検討は、民営化方針とともに工部省から逓信省へ引き継がれたが、逓信省内部で大臣の榎本と官営化推進派の野村靖次官とが衝突することとなった。
・後の林薫内信局長(箱館戦争時は榎本の仲間で岩倉使節団に加わり、外務大臣、伯爵)と前島密次官の時代に、榎本はふたりから説得を受け、欧米の電話会社がアメリカを除きほとんど官営化されたことから官営に方向転換した。
6.積極的な学会活動
明治の中期から末期にかけて様々な学会が相次いで設立されたが、榎本はいくつかの学会の創設に関わり、会長などを務めた。
6-1 電気学会
・初代会長(明治21(1888)年5月~41(1908)年10月)に就任、亡くなるまで会長を務めた。
・明治24年1月の漏電による国会焼失事件では、電気学会は、技術論を重ね、文献を収集して検討し、明治25年に電燈線敷設法に関する研究をまとめて法規が公布されるまで会長が率先して努力を重ねた。
・明治40(1907)年1月電気学会雑誌掲載の会長演説
「明治になり鉄道網、電信網が構築され、自力で軍艦を作ることもできるようになったが、電気設備は海外輸入に頼っている。民福に関わる電気製品の学理応用が薄いので、もっと皆で頑張ろう」
・明治41(1908)年1月電気学会演説
「電気事業は隆盛だが、欧米が生み出した成果を輸入、移転したに過ぎず、我が国のオリジナリティーが少ないのが残念である。今後益々学問の研鑽と発明に励んで欲しい」
・榎本は、国際市場における競争に勝つことで国民が幸せになるという「国利民福」の考えを常に述べていた。
6-2 気象学会
・気象学会の変遷
明治15(1882)年5月 「東京気象学会」として創立
明治21(1888)年5月 「大日本気象学会」と改称
昭和16(1941)年7月 社団法人「日本気象学会」となる
・榎本は「大日本気象学会」第2代会頭(明治25年12月~41年10月に亡くなるまで務めた)
・「大日本気象学会」
明治21(1888)年5月「東京気象学会」を母体として誕生。初代会頭山田顕義(長州藩士、陸軍中将)、幹事長荒井郁之助、会員約250名。
明治23年8月、官制改革で中央気象台台長として荒井郁之助が就任。
・大日本気象学会の雑誌「気象学集誌」明治27年4月発行での榎本の会頭演説
「学理の奥義を究め、その応用を怠らなければ国利福民は増進する。これをひたすら会員に望む」
※気象学と軍事
・クリミア戦争時、停泊中のフランス海軍艦船数隻が戦闘前に嵐で沈没。その結果、天気予報のための天気図作成が始まり、気象学の研究が盛んになった。
・榎本が気象学に初めて接したのは長崎海軍伝習所で、航海術に必要な気象理論と測量技術を学んだ。オランダ留学時にも航海日誌には海の気象についての観測や記録が詳しく記されている。
・箱館戦争時、江差沖に停泊中の軍艦開陽丸は暴風雨に遭遇して沈没、これで榎本たち蝦夷政権の敗戦が濃厚となった。
・榎本は、気象学が軍事上重要なことは認識していたが、同時に農業や漁業、海運にも重要であることに着目、気象学を研究段階にとどまらせず国民の生活に役立てることを研究者に求めていた(「情報屋台」榎本武揚と国利民福 Ⅱ産業技術立国(前編))。
6-3 工業化学会
・日本の化学は、江戸時代の杉田玄白、前野良沢らの「解体新書」(蘭学のはじまり)―宇田川榕菴らの「舎蜜(せいみ)開宗」(西洋化学の紹介)―川本幸民の「化学新書」(オランダ化学書の翻訳書)を経て、明治5(1872)年の大阪造幣寮における硫酸製造に始まる。近代国家確立のためには、統一貨幣と紙幣の発行、築港などを早急に必要とした。また国は、西洋建築の材料確保のために、製紙、セメント、板ガラス、耐火煉瓦などの官営工業も興した。
・明治10(1877)年工部大学校(東京大学工学部の前身)が設立され、応用化学科がおかれたが、第1回卒業生には高峰譲吉(タカジアスターゼ、アドレナリンを発明)や森省吉らがいた。
・高峰譲吉は、渡米した時にリン鉱石が米国から輸入できることを知り、明治20(1887)年に国産の硫酸とリン鉱石から過リン酸石灰を製造する日本初の化学肥料工場(東京人造肥料会社)を設立した。
・その後短期間で硫酸製造法から製紙や製糸に必要な炭酸曹達や農業近代化に必要な化学肥料の製造法が確立されるなど日本の近代化学工業が成立した。
・森省吉の各方面への働きかけもあって、明治31(1898)に初代会長榎本武揚、副会長森省吉で工業化学会が発足した。榎本は、1、3、6、9、11代の合計5回会長を務めた。
・榎本は、「工業化学雑誌」第二編(明治32年)の記事に、米国では個人が取得した特許数の多いことを挙げ、実用的な応用が重要なことを説いている。また別の年には、「国利民福」も訴えている。
・319人で発足した工業化学会は、その後膨張を続け昭和23(1948)年に日本化学会(東京化学会)と合併する時は東京化学会の5倍以上となっていた。
6-4 工学会
・榎本武揚~副会長(明治25年)
・日本工学会は、明治12(1879)年に工部大学校(東京大学工学部の前身)の7学科の第1期生23名により、相互の親睦、知識の交換を目的に創立された日本で最初の工学系学術団体で、当初は「工学会」と称した。初代幹事(会長)は、高峰譲吉。
・創立後、工学大学校以外の工学者も加わり工学会誌を発行。
・昭和5年、「工学会」を「日本工学会」と改称した。
6-5 大日本窯業協会(窯工会)
・榎本武揚~第2代会頭(明治40年)
・窯業関係の学術団体としては世界最古。
6-6 東京彫工会
・榎本武揚~2代目会長
6-7 日本家禽協会
・榎本武揚~初代会長(明治21年)
・明治期、新産業としての養鶏熱は高く、明治7(1874)年に内務省で肉用鶏繁殖のための種鶏購入配布が閣議決定されたのは榎本の尽力が大きかった。
・明治11年、駐露特命全権公使の榎本が、フランス製「孵卵器及び付属育雛器」を持ち帰ったのが国産孵卵器開発進展のきっかけ。
・榎本自身も鶏を飼い、孵卵に熱中、箱根の温泉熱を活用して同時に大量の卵を孵化させる方法を考案した。
6-8 東京地学協会
・榎本武揚~副社長のち社長
・明治12年4月、北白川能久親王を社長、榎本武揚、鍋島直大を副社長、渡辺洪基らを幹事として東京地学協会が創立された。
6-9 日本写真会(日本寫眞會)
・榎本武揚~会長
・明治22(1889)年、榎本武揚を会長として設立された写真同好会。
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6-10 殖民協会
・榎本武揚~初代会頭
・明治26(1893)年3月、移住殖民を日本の国是として発足した亜細亜、南洋研究団体。
6-11 その他
・日本電友協会会長
・旧幕府関係の数団体で会長職を務めた。
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 以上が本日の解説の概要ですが、お話を聴いて、榎本武揚がまさに講座のテーマにあるような、科学技術者にして明治近代化の万能人、であることが良く理解できました。

 最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「榎本武揚とは『箱館五稜郭の戦いのリーダー、敗軍の将だが、人格者として政府から(特に黒田)も認められており、ロシアへ特命全権公使として行ってきた人』としか記憶がありませんでした。科学技術者としての活躍について、学ぶことが出来てうれしかったです」
「自分は幌内炭鉱出身ですが、幌内の開発に榎本武揚が関わっていた事は初めて知りました。子供時代を思い出しました。又、榎本武揚の知られざる本性を知り大変興味深く講義を受ける事が出来ました」
「榎本の見識・知識は何と幅広いことか、驚かされた。戦犯にならず、黒田の功績も大きい。科学技術者としての先駆的であることがよく理解できた。国利民福の思想が素晴らしい」
「榎本武揚の我々があまり知らなかった部分を詳しく説明していただけて良かった。これだけの業績・功績があった事を始めて知りました」
「榎本の名前、歴史について知ってはいましたが、これ程詳しく学ぶ機会がなかったと改めて感じました。大変興味深く楽しく学べました。150年前に活躍した見事な人物であり今につながっている産業、人々の動きが見えてきました」
「榎本は、いろいろな事柄に興味をもち実際に問題を解決して後世に伝えた事が良く解りました~。次回が楽しみです~。(科学者でした~)」
 




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