いしかり市民カレッジ

トピックス

トップページ トピックス まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」第2回「明治近代化を支えた万能人」


トピックス

まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」第2回「明治近代化を支えた万能人」

2024/03/11

 3月5日(火)、まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」の第2回「明治近代化を支えた万能人」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、市民カレッジ運営委員の徳田昌生さん、受講者は36名でした。
23mati5,2,1.JPG
 本日のテーマについて、徳田さんは4つの項目に分けて解説されました。
1.近代化を進めた優れた官僚(初代逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣)
2.近代日本の国際人(外交)(樺太・千島交換条約交渉特命全権公使、天津条約での駐北京公使、メキシコ殖民計画)
3.シベリア旅行と「シベリア日記」
4.教育家~人材育成

 以下は、各項目の解説の概要です。
1.近代化を進めた優れた官僚
 榎本は、薩長閥の明治政府で、いくつもの大臣や高官を歴任した。
23mati5,2,2.png
1-1 初代逓信大臣
・明治18(1885)年12月、日本初の内閣である第一次伊藤博文内閣が成立、榎本は逓信大臣に就任した。閣僚10名のうち薩摩、長州出身者が各4名、土佐出身者が1名と薩長閥の強い人選の中で唯一の旧幕臣出身・榎本の抜擢は異例であり、榎本の能力が認められたからこその結果であった(黒瀧秀久「榎本武揚と明治維新~旧幕臣の描いた近代化」)。
・逓信大臣は、外務大臣や大蔵大臣とは異なり最も低いとされたポストながら、電信・電話をはじめとする数々の近代化の実現には榎本の知識と技術が必要であった。
・逓信大臣時代の榎本の功績の一つは、デンマークに委託していた海底電信線敷設工事を日本人の手で行えるようにしたこと(第1回講座で解説)。
・電話事業の民営化・官営化論争の進展も成果の一つ(第1回講座で解説)。
・明治23(1890)年、官営電話事業が開始。
・榎本の失われたモールス印字電信機が戻ってきたエピソード(第1回講座で解説)。
1-2 文部大臣
・榎本は、明治22(1889)年に黒田内閣の文部大臣に就任、山縣内閣でも留任した。
・就任時に発表した榎本の考え方
「教育上でも、セオリー(理論)とプラクチス(実践)が相まってはじめて完全な教育をなすことが出来る。陥りがちな不生産的な学問にならず、なるべく生産的に行って欲しい」これは、実践の学を生産的に行うことを望んだもの。
・実践の学を望んでいた頃、静岡育英会による私立育英學が設立された。
・育英學は19番目の私立大学で、農業系大学としては、札幌農学校、駒場農学校に次ぐ3番目の創設。
・育英學は、榎本の実学の考え方を受けて、普通科、農業科、商業科、海軍予備科の4科を設けた(4-2で後述)。
・私立小学校組合総会での榎本の文部大臣としての演説
「大臣と小学校教員という階級の差こそあれ、教育に対しては同じく責任を負うもの、同じ鍋の飯を食うものである」
1-3 外務大臣
・明治24(1891)年、第一次松方内閣の外務大臣に就任。
◇外交における大臣就任前の成果
榎本の類まれなる外交能力が発揮された事柄
①「樺太・千島交換条約」明治8(1875)年(2-1で後述)
 開拓使の任にあった黒田清隆は、北方への高い見識、国際法の知識、語学の堪能さなどから榎本を適任と判断、明治7(1874)年に我が国初の海軍中将に推挙、その4日後に初代駐露特命全権公使に任命した。
②「天津条約」明治18(1885)年(2-2で後述)
 明治15(1882)年から、清国駐在特命全権公使として伊藤博文を補佐、天津条約の締結に寄与した。
榎本は、問題解決のため、清国の実力者・李鴻章と接触し、肝胆相照らす仲となった。
◇殖民移民
・海外殖民の想いを持っていた榎本は、外務大臣就任後「移住課」を設置、箱館戦争仲間の安藤太郎を課長に配して移民の調査、殖民移住の可能性を調べさせ、ニューカレドニア島でニッケル鉱石採取の契約移民を実施した。
・具体的には、旧幕臣の佐久間貞一に日本吉佐移民合名会社(日本郵船の子会社)を設立させ、ニッケル鉱山会社ル・ニッケルと移民契約を締結、明治25(1892)年に600人の移民を日本郵船会社の広島丸で送り出した (2-3-2で後述)。
・その後外務大臣辞職後も豪州クイーンズランドのサトウキビ耕地契約移民を実施、明治25(1892)年に50人、さらに明治30(1897)年までの6年間で約1,000人を送り出した(2-3-2で後述)。
・しかし、これらは、期間を限定した契約移民(出稼ぎ移民)であり、榎本が構想した殖民移住ではなかった。唯一殖民移住の条件を満たしていたのがメキシコ殖民(2-3-3で後述)であった。
1-4 農商務大臣
・明治27(1894)年、農商務大臣に就任、官営八幡製鐵所の設立(第1回講座で解説)や浦賀船渠株式会社の設立を推進した。
・近代国家としての日本の発展には鉄(洋鉄)の国産化が重要なポイントであった。
2.近代日本の国際人(外交)
2-1 樺太・千島交換条約交渉特命全権公使
◇樺太・千島交換条約[明治8(1875)年5月7日制定]
・日本、ロシアの国境は安政元(1855)年の日露和親条約では千島列島(クリル列島)の択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間に定められたが、樺太(サハリン)については国境を定めることが出来ず日露混住の地であった。
・樺太では、混住のため日露両国人の紛争が頻発した。
・明治7(1874)年、榎本は海軍中将に任命され特命全権公使としてロシアのサンクトペテルブルグに赴いた。
・日本国内では、征韓論が叫ばれる一方、西郷隆盛らは脅威の本源がロシアの南下にあると考えていた。ロシアは、北のサハリンだけでなく幕末には対馬にも上陸した。
・サンクトペテルブルグでは、榎本と同時期に長崎で過ごしたことのあるポシェート(プチャーチンとともに長崎や下田を来訪して下田条約を結び、1856年に日露批准書を携えて下田を訪れたプチャーチンを乗せたオリーヴァ号の艦長であった)が待ち受けていた。
・ポシェートも榎本もオランダ語が堪能で会話は弾んだことと思われる。
・榎本は破格の待遇を受け、ポシェートにともなわれ皇帝アレキサンドル二世とともにクローンシュタット軍港を視察した。日露交渉には、露土(ロシア・トルコ)戦争が近いという事情も大きな影響を与えた。
・榎本は、両国国境をサハリンまたは間宮海峡とすることを提案したが、ロシアはサハリン全体に対する権利を主張、宗谷海峡を国境とする考えだった。
・日本にはサハリンを確保する武力も経済力もなく、サハリンに多大な費用を投じるよりまず北海道を確保すべきと判断した。
・翌明治8(1875)年5月7日樺太・千島交換条約(樺太に対する日本の領有権とロシア領の北千島列島の交換)が、榎本とロシア外務大臣ゴンチャロフの間で、調印された。
・この条約でロシアは、露土戦争の気配の中、千島列島を交換することで太平洋へ出入りする出口を失う不利に目をつぶって条約締結を急いだとも言える。また日本側では樺太という日本名をもつ土地が失われたとして政府の譲歩が非難された。
2-2 天津条約での駐北京公使
◇天津条約[明治18(1885)年4月18日制定]
・天津条約は、明治17(1884)年12月に朝鮮で発生した甲申政変(独立党によるクーデター)で緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のため締結した条約。
・日本側全権・伊藤博文と清国側全権・李鴻章が天津で会談して締結。
【条約内容】
①日清両国は朝鮮から即時撤退を開始、4カ月以内に撤兵を完了する。
②日清両国は、朝鮮に対して軍事教官を派遣しない。
③将来朝鮮に出兵する場合は、相互通知が必要と定める。派兵後は速やかに撤兵し、駐留しない。
・天津条約により日清両国の衝突は回避されたが、9年後に甲午農民戦争が起きると、朝鮮政府は清軍に出兵を要請、日本も天津条約に基づいて出兵し、両国の衝突から日清戦争となった。
◇榎本の駐北京公使としての活躍
・明治15(1882)年、清国特命全権大使となる。同年7月、朝鮮で親清派と親日派との間の争いが起き日本と清国が対立したが、その関係修復と動静監視のため榎本が清国へ派遣された。
・明治18(1885)年、天津条約が締結され、日清間の当面の紛糾は解決した。
・この時の交渉者は伊藤博文大使と李鴻章であったが、李鴻章は清国政治状況の変化により、それまでの協調的な態度を一変させて硬化し、交渉が決裂しそうになった。しかし、北京滞在中に李鴻章と気心の知れる仲となっていた榎本が間に入り条約締結にこぎつけた。
・榎本は、この時の様子を家族への書簡で「三日前はとても今般の談判はまとまるまじと決心せし者と見え、~面白さと気の毒さとあい半ばし候・・」と余裕を持った感じで書き送っている。
榎本から見ると明治政府の最高実力者の伊藤博文も外交問題に関しては後輩のように見えていた。
榎本の余裕の裏には、かねてから李鴻章の相談相手となり、助言など与えて信頼を得ており、最後は締結できるという自信があったことがうかがえる。
・榎本は、明治17(1884)年8月27日付の妻・多津への書簡で、前日榎本が李鴻章を訪ねて1時間半も話し合い、この日は李鴻章が榎本を訪れて2時間半も話し「同氏は拙者の厚意を感じて涙を流さんばかりで何事も隠さず打ち明けて話し~」と書いている。当時清はフランスと戦争状態にあり、李鴻章はフランス艦船の暴挙などについて相談していた。
・明治18(1885)年4月16日付の書簡で、榎本は天津条約について「双方国家の威光を傷つけず、円くまとまってよかった。実は支那の方は損だったが、日本の方は国権をおし広める形でまとまって、満足している」と書いている。
・相手国の威光も傷つけず、それでいて日本の国権を拡大しており、一方的な勝利を求めないという榎本の外交に対するポリシーがよく現れている。
2-3 メキシコ殖民計画
2-3-1 榎本の海外殖民に関する考え
・榎本は、南洋の諸島を獲得して日本の領地を拡げるという帝国主義的な考えを持つ反面スペイン領を買い入れて移住するという「殖民移住」思想も持っていた。
・榎本は海外殖民への想いを駐露特命全権公使時代から抱いていたが、オランダ留学時の二つの経験も起因したのではないかとの指摘もある。
・一つは、オランダに行く時の船の難破でパタビアに滞在した時に植民地の支配と被支配者の構造を知ったこと、二つ目は、オランダからの帰国時、リオデジャネイロで列強(ポルトガル)の植民地支配を観察したこと。
・この二つの体験から榎本は、国力のない日本が海外に進出するには、武力で植民地を獲得して支配者が現地住民を雇って事業を展開する「植民」ではなく、他国の未開発の土地を平和裡に買い求めて日本人を送り、開拓して独立させ、日本と貿易し、移民はそこに定住する「殖民」の思想をもっていたと考えられる(黒瀧秀久「榎本武揚と明治維新~旧幕藩の描いた近代化」)。
2-3-2 海外殖民の具体化
・榎本の殖民移住についての具体的な展開は、外務大臣就任の時から始まる。
・明治24(1891)年に外務大臣に就任した榎本は、外務省官房に「移住課」を設置、課長に安藤太郎を配して移民の調査、殖民移住の可能性などを調査させた。
・安藤太郎は、蘭学と英語を学び、榎本が教授を務めた築地軍艦操練所で学ぶ。箱館戦争に参加して投獄され、出獄後榎本艦隊司令官・荒井郁之助の妹と結婚、岩倉使節団に参加した後外務省に入り、上海・ホノルル領事を務めた。
◇ニューカレドニア移民
 フランスパリのニッケル鉱山会社「ニッケル」が、代理人を通してニッケル採取のための日本人労働者雇用を外務大臣に請願。数回の交渉の上、日本は日本吉佐移民合名会社(榎本が旧幕臣佐久間貞一に設立させた会社で日本郵船の子会社)に委託した。
・明治24(1891)年、移民契約を締結、熊本および天草島民600名(うち500人は天草島民)を募集、明治25年1月に日本郵船会社の広島丸でニューカレドニア島に送った。契約期間5年、賃金は1カ月40フランであった。
・重労働や移民の中の無頼者の扇動などで、明治26年2月に57名、8月に76名、明治27年6月には病気などで36名が帰国したが、100名は明治30年2月の契約期限終了まで働いた。
・ニューカレドニア島移民事業は、それで終了したが、海外移民事業の当初としてはある程度の成功を収めたともいえる。
◇クイーンズランド移民
・外務大臣を辞したあとにも、大臣時代の調査成果を活かし、豪州クイーンズランドのサトウキビ耕地契約移民を実施した。明治25年9月豪州シドニーの「バーンズ・フィリップ」会社の依頼で契約し、第一回の経験を生かしてまず状況調査を兼ねて広島県から50人をシドニーに送った。その成績が良好だったことから明治26年5月に広島、熊本、和歌山から520名、明治27年4月に熊本県から115名、さらに同年8月に310名、明治29年に熊本、福岡、広島、岐阜、新潟から417名を送った(合計~1,495人;契約期間は3年から4年)
・クイーンズランド移民事業は、日本吉佐移民合名会社としては最も成功したものであった。
◇フィージー諸島(イギリス領)移民
・バーンズ・フィリップ社と日本吉佐移民合名会社の間で契約移民契約が成立、明治27(1894)年に305名を送ったが、現地の気候条件が悪く、病人、死者が続出して翌年全員が帰国した。
※ニューカレドニア、クイーンズランド、フィージー諸島移民はいずれも期間を限定した契約移民(出稼ぎ移民)であり、榎本が構想した殖民移民ではなかった。唯一殖民移民の条件を満たしたのがメキシコだった。
2-3-3 メキシコ殖民
 メキシコは明治16(1883)年に「墨西哥(メキシコ)移住民条例」を大統領令として公布。この条例は、契約移民でなく永住移民を条件とした条例であった。
・サンフランシスコ領事官書記の藤田敏郎(箱館で榎本の下で戦った)は、日本から農業従事者をメキシコに送り込める可能性が高い、と考え、移民課長の安藤太郎に建議、安藤は榎本外務大臣に上申した。
・榎本は、即刻メキシコ領事館を設置してメキシコ殖民計画に着手した。
・榎本は、外務大臣辞任後も議定官としてメキシコ移住計画を本格的に推進しはじめた。その第一歩として発足したのが明治26(1893)年設立の「殖民協会」である。会長に榎本、副会長に前田正名(農商務省次官)、幹事に加藤平太郎と安藤太郎が就任し、会員数は419人であった。
・殖民協会は、殖民移住の実行を担うものではなく、殖民に対する奨励や啓蒙活動を主体とする組織として発足した。
・榎本は、この時すでに殖民地をメキシコに定めていたようで、殖民協会設立演説の中で以下のような理由をあげている。
①政治が他のラテンアメリカより安定しており、欧米各国の資本家が巨額の資本を投資している。
②鉱山、農業において無限に近い資源を有している。
③水産資源が豊富である。
④官民ともに日本人の移住を渇望している。
⑤太平洋岸の土壌は肥沃で、気候は九州より暖かい。
⑥日本から直行便がある。
⑦欧米各国の移住民が少ない。
⑧近い将来首都メキシコに三つの鉄道がくる。
・榎本は外務大臣在任中に在メキシコ領事藤田敏郎を通して、メキシコ農商務植民大臣レアルに殖民適地選択を依頼、藤田領事の調査報告と探検家橋口文蔵の視察結果報告からチャバス州エスクゥイトラの官有地払い下げを受けることにした。
・総面積:11万6000町歩、価格:1町歩あたり平均1円50銭、10年賦
・殖民協会評議員会で「墨国(メキシコ)移住組合」をつくり、明治28(1895)年には墨国移住組合調査会で墨国官有地を榎本の名義で購入することを決定し、土地購入のための現地調査員も派遣することとした。
・根本正(農商務省官吏)と草鹿砥寅二(駒場農学校出身)が榎本の個人的代理人としてメキシコ農商務植民大臣マニエル・フェルナンドとの間で「榎本殖民地(購入)契約」を結んだ。その内容は
①1ha(約1町歩)あたりメキシコドルで1ドル50セントとし、15ヵ年賦払い
②家族を伴った永住移民であり、1家族について5haの土地が無償提供される
③2000ha当たり、1家族が移住することが義務づけられ、3年以内に15家族、8年間で移住を完了させる
・「榎本殖民地契約」を受けて、明治30(1897)年に会社資金を20万円として「日墨開拓株式会社」が設立された。会社設立株は1株50円で、総株数4000のうち榎本が1000株を持ち、組合員22名が計648株、残りは一般公募したが16名しか集まらず計1万3550円であった。資金不足ながら遅れるとイギリスの測量会社に買われる恐れがあったので、まずは実行に移すことになった。
・日墨開拓(株)は移民30名を募集したが、応募者は22名しか集まらず急遽農民6名を集め、計28名に自由渡航者6名(東京農学校の学生や札幌農学校出身者も含まれていた)を加えて渡航することになった。
・応募28名の年齢
16~20歳4人、21~25歳17人、26~30歳2人、31~35歳3人、46~50歳2人
・契約内容
 5ヵ年間は給料をもらって会社(土地所有者は榎本)の土地を開墾、その後個別に土地の無償提供を受け定住移民となること。
・開墾状況
 到着時は、コーヒーの作付け時期を過ぎ、種子も手に入らなかったので、陸稲、玉蜀黍、蕎麦を植えたが牛豚に食い荒らされた。囲いをして3回チャレンジしたが失敗。加えて出稼ぎ移住志向が強く、移住者間のトラブルが発生、監督への不信感もあって、10名の解雇者を生じる結果となった。
・その後の状況
 西外務大臣の命を受けて2名が現地視察、その報告を受けた榎本は川村久直(殖民協会会計監督)と小林直太朗(東京移民会社移民監督者、オーストラリアで移民監督者の経験を持つ)を現地に派遣した。
その結果、明治32(1899)年には開墾地は50町歩に達し、サトウキビ3町歩のほか、陸稲、玉蜀黍、麻、ココア、ゴム樹、野菜を植え付けた。家畜は、鶏、豚、牝牛7頭、子牛7頭、牡牛1頭を飼った。作業は、日本人5人と日雇い現地住民で行った。
・30人あまりの渡航者は、多くは外国人に雇われ、3人は現地に留まり、ある者は殖民地内外に開かれた独立殖民地で生活した。小林はその後も現地に留まり後に小林殖民地を経営した。
・榎本は、その後も殖民地経営について検討したが、榎本および日墨開拓(株)だけでは資金を調達することが出来ず、メキシコ榎本殖民地を滋賀県の代議士藤野房太郎に無償譲渡した。
◇その後のメキシコ開拓
・メキシコでは、藤野牧場、田辺牧場、小林農場など独立農家が開拓に努力した。明治40(1907)年の駐メキシコ領事報告では、旧榎本殖民地を中心に約50名の日本人が希望に満ちて活動しており、合計83人の日本人村(日本人に嫁いだメキシコ婦人12人、生まれた子供21人を含む)が誕生した。
・日本人の内訳は、榎本殖民団残存者10人、メキシコ国内から集まった者19人、明治39年に渡航した者8人、アメリカから来た者3人、ペルーから2人、グァテマラから16人となっている。
・榎本殖民団の自由渡航者であった照井亮次郎は他の5人の同志と日墨共同会社をつくり、商店部、農場部、野菜園部で成果を上げた。この会社は、後に小学校をつくり、日本から教師を招聘し教育に努めた。
・アメリカから来た小橋岸本合名会社は、商店と牧場の2部門をつくり、商店部は村で一番繁盛した。
◇榎本殖民記念碑
 メキシコへの日本人移住は榎本武揚が買った土地への移住から始まった。その土地の中心になるアカコヤグア村には、殖民公園があり、移住者と2世とで建立した記念碑が建っている(旺文社「現代視点 榎本武揚」より)。
23mati5,2,3.png
◇榎本の海外拓殖の夢
・榎本の海外拓殖の夢は、まずは榎本殖民地で実現した。
・榎本の殖民思想は、後の東京農業大学に受け継がれ、昭和13(1938)年に東京農業大学専門部に農業拓殖科が設立され、満州開拓のほか、樺太(サハリン)、台湾、南洋諸島なども視野に入れていた。戦後は、南米移民に引き継がれた。
・その後、農業拓殖科は農業拓殖学科へ、さらに国際農業開発学科へと名称を変え、今も榎本の拓殖の思いは東京農業大学に受け継がれている。
3.シベリア旅行と「シベリア日記」(現代語訳本 編注者 諏訪部揚子/中村喜和)
 榎本は明治11年ロシアでの特命全権公使の任を終えてペテルスブルグからシベリア横断で帰国する際に、各地の人情風俗、地勢、地質、地味および鉱業などを調査し、「シベリア日記」として書き残した。鉄道・馬・船で移動、横断に66日かかっている。その間、毎日「シベリア日記」を書いていた(明治11(1878)年7月23日~10月2日、記録がないのは3日間のみ)
23mati5,2,4.png
・7月26日午後7時15分の汽車でペテルブルグを出発。
ペテルブルグ―モスクワは、ほとんど一直線で見るべき景観はない。粘土と赤土が多く鉄道の両側には畑が少なく、森が多い。樹種はガンビカバ(白樺)が多く松林もあるが、大樹はほとんどない。
・7月29日(ニージニー・ノヴゴロド着)
モスクワからニージニー・ノヴゴロドまでは平地が多い。百姓家の貧しさは、ロシア全国共通。ライ麦、フラックス(亜麻)などが小さく不出来な様子からみて地質が悪いようだ。
※榎本と亜麻について
亜麻は北海道の特産で普及させたのは榎本。第二次世界大戦中は、十勝、網走で盛んに作られた。榎本は、ロシア全権公使時代に宿舎で亜麻を実験栽培し、北海道にとって有能な作物と書いている。
・7月30日(ヴォルガ川下り)
 ニージニー・ノヴゴロドから外輪船でヴォルガ川を下る間の両岸の景色は目を楽しませてくれた。ヴォルガ川は、常に右岸が高く左岸が低くなって、通常の川岸が交互に高くなり低くなるのとは違っている。
あるロシアの博士の新説によると、北半球の川は通常右岸が高く左岸が低い、南半球はそれと反対であり、これは地球の回転方向によって当然の事、という。この説はあまり支持されていないが、一つの面白い説である。川の流れは、ネヴァ川ほど急ではない。右岸の丘の上はところどころ巧みに畑としている。左岸は畑が少ない。また、左岸の内部にはあちこちにたまり水があるという、石狩川と反対である。
・8月1日
 本日聞いた話によるとロシア全国の鉱山には私有の物と官より借用する物があり、いずれも許可は必要だが、大抵借用を好む。期限は99年でその期が終わるとまた延ばすことが出来る。金銀の鉱山だけは無税であるが、その鉱は官に売らなければならない。官の金鉱買い上げ定価は、金1ゾロトニク(約4.26g)が金貨3ルーブリ50コペイカの割合。
・8月29日
 砂金は、12フント(1フントは約409.5g)ごとに細長い皮袋に入れ、さらに木綿袋で覆い、縫い目をラック(封蝋)して閉じ、袋の口は砂金主の印をラックで封印してある。砂金は、グラフィート(石墨)の壺へ2プート半(1プートは約16.37㎏)ほど入れて鋳する。鋳釜は、レフレクチング(耐火)粘土で作り、外見は四角で一方ごとに口がある。釜の内は通常のハールド(炉)。このハールド4個が背中合わせに立っているので、四角で尖形なオベリスク状(方尖状)をしている。~途中省略~砂金を溶かすには、砂金1プートにつきボラッキス(硼砂:ホウ砂)を1フント、硝石を半フント加えるのみ。
・8月31日
 第1回講座で記述した、塩気のある泥の話が書かれている。
4.教育家~人材育成
4-1 文部大臣
・榎本(54歳)は、明治22(1889)年に黒田内閣の文部大臣に就任、山縣内閣でも留任している。
・文部大臣就任時に発表した榎本の考え方(1-2で前述)
 「一般教育上でもセオリー(理論)とプラクチス(実践)が車の両輪のように両者が相まって初めて完全な教育となる。願わくはなるべく生産的にして欲しい」
セオリーが優先されて不生産的な学問になりがちな当時の日本の学問風土を批判して、実践の学を生産的にすることを望む、と主張している(黒瀧秀久「榎本武揚と明治維新」)
・私立小学校組合総会での演説(1-2で前述)
  大臣も諸君も教育に携わることにおいては、同じ責任を持ち、同じ鍋の飯を食ふものである。
4-2 育英學農学科の設立
・明治24(1891)年に東京農業大学の前身である静岡育英会による私立育英學が設立された。これは、徳川家と強い関連がある。
・慶応3(1867)年の大政奉還後静岡で蟄居を命じられた徳川宗家だが、明治元(1868)年に徳川家旧家臣の子弟を就学させる沼津兵学校(他藩の子弟も受け入れた)が開学した。さらに医学を講ずる徳川家陸軍医学所も設立。これらの学校を総合化して徳川家による総合大学をつくろうとしたが、明治5(1872)年に解散命令が出て廃校となった。廃校したが、沼津兵学校は全国に有為の人材を送り出すことになった。
・その後各種大学が設立されていく中で、旧幕臣の子弟を支援する奨学団体として明治18(1885)年に静岡育英会(徳川育英会)が設立されることになった。会長には、榎本と共にオランダ留学を志し沼津兵学校にも関わった旧幕臣赤松則良が就任。後に榎本も会長として関わった。
・静岡育英会が設立したのが私立育英學である(1-2で前述)。
・教授陣は、旧沼津兵学校出身者が多数を占め、その他は札幌農学校出身者であった。
・榎本武揚筆の扁額「学後知不足」(学びて後に足らざるを知る、東京農業大学オホーツクキャンパス所蔵)
23mati5,2,5.png
・学校は、飯田河岸(現在の総武線飯田橋駅周辺)に置かれ、榎本の経営する北辰社牧場や榎本の邸宅に近接。
・管理長・學主に榎本が就任、東京農学校を含めてその後6年間経営に携わった。學長は、永持明徳(旧沼津兵学校教授)。
・育英學はその後、学生募集の困難さから農学科だけが独立、育英会の手を離れて明治29(1893)年に私立東京農学校と改称した。
・育英學・東京農学校の初代教頭は、札幌農学校一期生として主席卒業した荒川重秀が就任。
・榎本が東京農学校の第二回卒業式(明治28(1895)年)で述べた祝辞
【要約】「農工商の三大事業は世界各国の富国の要素であるが、我が国は集約農業が類をみないほど発達している。しかし、内地の面積は農地が2割しかない。伝統的な農民の能力だけでなく、学術と実験を応用して農事改良を行えば、国家の富源を増進できるだろう。さらに北海道は新領地であるので、本校で学んだ学術や技能を実際に応用して先祖の伝統を拡張し、国家富源の基礎を築いてもらいたい」(黒瀧秀久「榎本武揚と明治維新」)
・第三回卒業式の祝辞
【要約】「今、諸君らは国家発展の源泉たる農学を修学し、社会に旅立とうとしている。私が諸君に望むことは日本で農業を実践するだけでなく海外に住居を求めて開拓し、母国からの同胞を受け入れ新たな農業の新天地の成功を日本に知らせることである。これは、血気ある男児の一大喝采事であろう」(黒瀧秀久「榎本武揚と明治維新」)
4-3 東京農業大学(東京農大)の設立
・明治24(1891)年、東京農大の原点である「徳川育英会育英學農学科」が設立された。生みの親は榎本武揚。
・当時の新聞は「~専ら実際応用的に教授し~」などと、実学的な教育を報じている。
・明治26(1893)年、第1回の卒業式行い18名が卒業した。卒業証書には校主榎本武揚の名と印が記されている。
・1894年、榎本の招聘で明治農学の第一人者である横井時敬が評議員として参画、渋谷の常盤松御料地への校地移転、大日本農会への経営委託など様々な改革に取り組み大学の基礎を固めた。
・1907年、横井は大日本農会付属私立東京高等農学校の校長に、1911年には私立東京農業大学の初代学長に就任した。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」など、実学を重視する多数の言葉を残し、東京農大の教育の根幹をつくった。
・榎本と横井
 榎本武揚は、畑作を中心に考えた大農論者。北海道が念頭にあったからか?対して横井時敬は、水田農業中心の典型的な小農論者であった。
・2008年は東京農業大学の創設者である榎本武揚が1908(明治41)年に亡くなってから100年目にあたり、没後100年を記念して東京農大は様々な行事を行った。
・2008年9月6日には札幌市道新ホールで榎本武揚没後百年記念シンポジウム「榎本に学び、明日の北海道を考える」を開催。
4-4 小樽高等商業学校(小樽高商:現小樽商大)の設立
・明治43(1910)年設立
 小樽高商が設立される以前、官立高商は東京、神戸、山口、長崎の4校すべてが東京以西であった。
5番目の高商誘致を小樽、函館、仙台で争ったが、国内ニシン漁の中心で、樺太やウラジオストクとの交易で繫栄していた小樽が誘致に成功し東日本初の官立高商となった。
・建設費370,000円のうち小樽が200,000円を拠出した。地元有志が小樽高商誘致寄付金を集めた時、榎本は3,000円を援助した。
・小樽高商の教育方針として実業教育に重点を置く商業実践・企業実践・商品実践に加え商業英語などを重視した。例えば、企業実践科の「実習工場」では授業の一環として石鹸の製造から販売までを実習として行った(高商石鹸)。
・後に「榎本石鹸」としてその復刻が試みられた。
・「榎本石鹸」の復刻
 榎本は、オランダ留学中にせっけん作りに着目。1870年頃に獄中でオランダで学んだ石鹸の作り方を「石鹸製造法」という冊子にまとめた。兄の武与(たけとも)は製造法を元に石鹸製造会社を設立したと言われている。榎本の石鹸について、小樽商大の醍醐龍馬准教授(日本政治外交史)と沼田ゆかり教授(高分子化学)のゼミが中心となって、2021年に復刻に取り組み始めた。ふたりは、「石鹸製造法」を読み解き、冊子に載る4種類の製造法のうち「釜だき製法」と「コールドプロセス製法」の2方法で再現した。その後は、商品化に向け、旭川の化粧品製造販売会社に製造委託し、コールドプロセス製法にアーモンドオイルを加えた「復刻版」とヤシ油などを加えて実用化を高めた「リニューアル版」の2種類を作った。
・小樽高商、小樽商科大学の卒業生
伊藤整、小林多喜二(小説家) 
小樽商大学長~伊藤森右衛門(第7代)、實方正雄など
小樽商大名誉教授~石河英夫、木曽栄作、實方正雄など
岡田春夫(元衆議院副議長)
財界人~五味彰北海道拓殖銀行頭取、鈴木茂北海道拓殖銀行頭取など多数
23mati5,2,6.JPG
 以上が本日の解説の概要ですが、徳田さんは最後に榎本武揚に関する参考文献の一覧を紹介して、お話を終えられました。日本の近代化を進めた優れた官僚であり、見識を持つ国際人で且つ教育者でもあった榎本武揚についてしっかり学ぶことができました。
23mati5,2,7.png
 最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「豊富な知識が教材にまとめられており1回目に引き続き興味深く講座を受けることができました。徳田先生は市民カレッジの年齢構成が高齢者であることをふまえ、わかりやすい言葉で進めてくれました。カレッジ生のレベルに合ったやさしい90分の時間もあっという間に終わりました。ありがとうございます」
「各項目毎に詳しく解説、判りやすく理解できること(が)多くよかったです。ありがとうございました。実に榎本武揚は広い分野に知識豊富、そして行動力があり日本の近代化に大きく貢献してきたこと(を)イメージすることができました」
「大変興味深く楽しく受講しました。わかりやすい解説、資料に感謝。激動の時代の官僚の仕事振りを知る程、昨今の政治家のお粗末さが際立つ気がします。実力、能力、スケールの大きな人物であることが分かり、榎本武揚を通して明治の時代を理解していきたいと思います。3回目の講座も大変楽しみにしています」
「一部分しか知らなかった榎本武揚の驚く程多様な活躍振りに圧倒されました。大変貴重な講義でした。誰かに吹聴したい様な"お得"気分です」






CONTENTS コンテンツ

カレッジ生募集中

ボランティアスタッフ募集中 詳細はこちらから

いしかり市民カレッジ事務局

〒061-3217
石狩市花川北7条1丁目26
石狩市民図書館内社会教育課
Tel/Fax
0133-74-2249
E-mail
manabee@city.ishikari.hokkaido.jp

ページの先頭へ

ご意見・お問い合わせプライバシーポリシーサイトマップ