2024/03/18
3月12日(火)、まちの先生企画講座5「榎本武揚~科学技術者にして明治近代化の万能人~」の第3回「榎本武揚の生い立ちと生き様」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、市民カレッジ運営委員の徳田昌生さん、受講者は35名でした。
本日のお話は
1.生い立ち
2.オランダ留学
3.「蝦夷共和国」と箱館戦争
4.榎本に大きな影響を与えた「開陽丸」
5.榎本ゆかりの地~小樽と対雁
という項目に沿って進められました。
1.生い立ち
最初に榎本の2枚の写真の説明がありました。
左は、オランダ留学時のもの。幕府からは、留学中は侍の服装で臨むことを命じられていたが、現地であまりに珍奇がられて子供にもからかわれたのでほどなく洋装に改めたそうです。右は、箱館戦争前の写真。
・榎本武揚は、天保7(1836)年、旗本・榎本円兵衛武規の次男として、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。幼名は釜次郎。
1-1 父武規(円兵衛)
・円兵衛はもと箱田良助といい、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川園右衛門の次男。細川家は一時箱田姓を名乗っていたので円兵衛は箱田良助と称した。菅茶山の廉塾で学び、数学を得意とした。
・文化6(1809)年17歳の時、測量の途中で立ち寄った伊能忠敬に会って弟子となり江戸へ上った。暦法・天文学・測量術を学び、後に忠敬の筆頭内弟子となった。
・忠敬の死後、幕臣(御家人)の榎本武由(武兵衛)の娘みつと持参金持ち込みで婿入り結婚し、武士の身分を得て榎本円兵衛武則となった。
・文政6(1823)年から幕府天文方に出仕。その後、西丸御徒目付、本丸勤務を経て幕府御勘定方に昇進、旗本の身分となった。榎本円兵衛は、将軍家側近の御用もこなし、将軍の覚えもめでたく、将軍家御廟の修繕など栄誉ある仕事も成し遂げた。
・円兵衛は、数々の恩顧から将軍家に対して並々ならぬ恩義と忠誠心を抱いていた。
1-2 榎本武揚
・上記のような家庭環境で育った榎本は、幼い頃から「主家」に対する敬愛の念を抱いていたと思われる。⇒幕末に榎本が徳川家に対する忠節を堅く守ったのは、家庭環境の影響と考えられる。
・幼少期の榎本は、頭が良く、温和で学問好きとの評判だった一方、悪戯好きの腕白小僧で餓鬼大将だったともいわれている。
・6歳の頃から儒学・漢学を学び、弘化4(1847)年、14歳の頃に当時の最高学府の昌平坂学問所(昌平學)に入学。漢詩や書道等も学習し、後年残された漢詩などの素養を積んだ。特に化学や語学に優れ、一目置かれる存在であった。
・昌平學で学ぶ傍ら、江川太郎左衛門塾でオランダ語を、ジョン万次郎の私塾で英語を学んだ。この私塾では、後に箱館戦争を共に戦った大鳥圭介と出会った。
・嘉永6(1853)年、18歳で昌平學を卒業。学問吟味での榎本の成績は最低の「丙」で官吏の道は閉ざされた(一説には、榎本が、当時は当然であった賄賂を用いなかったためとも言われている)。
※江川太郎左衛門英龍
伊豆韮山の世襲代官で、技術に明るい行政官だった。開明的で、早くから開国の必至を認識、海防体制の充実を主張していた。西洋式産業技術導入に積極的で、洋式砲、洋式銃を製造し、高性能の溶鉱炉「反射炉」を築造した。ペリー来航直後から品川沖のお台場築造に関わった。
・安政元(1854)年、榎本は19歳の時、箱館奉行堀利煕(ほりとしひろ)の個人的な従者として蝦夷地箱館に赴き、樺太探検に参加した(同行者は武田斐三郎、玉虫左太夫、郷純造、島義勇など)。堀は、伊能忠敬から蝦夷地の情報を手に入れようとしていたと思われるが、武揚の父が伊能の弟子であることから武揚を従者に選んだものか。
・この時、榎本は箱館の船問屋佐藤半兵衛から蝦夷地の地図をもらい、これが後に蝦夷地を目指すときの重要な情報源のひとつとなった。
1-3 長崎海軍伝習所
・嘉永6(1853)年のペリー来航以来、幕府も国防の第一は海軍力の整備、増強にあると考え、安政2(1855)年、長崎に海軍伝習所を設立した。
・当初より海軍の勉強を強く望んでいた榎本は、設立と同時に入学。一期目は矢田堀景蔵の内侍として聴講生となり、二期目からは正式な伝習生として参加した。
・一期は、主に航海術、船具運用、戦術に主眼がおかれたが、二期からは主任教授がファン・カッテンディーケになって教授法や教授内容も充実した。榎本は他に蘭学、西洋の学問、舎蜜(せいみ)学(化学)、国際情勢なども学んだ。
・榎本はすぐに頭角を現し、カッテンディーケの著書「長崎海軍伝習所の日々」にも、名指しで大変優秀な生徒と評されている。
・さらにカッテンディーケは
「榎本釜次郎のような身分の者が、一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているのは、当人の優れた品性と絶大なる熱心を物語る証拠である。彼が企画的な人物であることは、北緯59度地点まで旅行した時に実証した」と誉めている。
・榎本は、昌平學でこそ「丙」の成績であったが、長崎海軍伝習所では間違いなく2期生最優秀の生徒のひとりであり、カッテンディーケが鮮烈に記憶するほどの生徒であった。
・伝習所では一期生として勝麟太郎、矢田堀景蔵、永持享次郎が艦長候補として修学、中島三郎助も一期士官候補生の一人だった。陪臣ながら数学の秀才・小野夕五郎(英龍塾で榎本と同窓)も一期正規伝習生だった。
・二期生には、伊沢謹吾、江川塾から柴弘吉・松岡磐吉兄弟(後に箱館戦争で榎本と行動を共にする)らがいた。勝麟太郎は落第して榎本と同期になった。
・正規伝習生となった榎本は、蒸気機関学や造船学を熱心に学び、さらに物理学と化学にも力を入れて、技術者としての道を歩み始めた。
・榎本の伝習所卒業は安政5(1858)年5月。最後の実習航海として、他の二期生と共に帆船鵬翔丸で江戸まで回航、館長は伊沢謹吾、航海長は中島三郎助(一期、専修科進学組)であった。
・江戸築地には、第一期卒業生を教官として、軍艦教授所(のちに操練所)が設立され、長崎で学んだことを次世代に伝えることになった。榎本も操練所の教授に任命されて幕府に仕官することとなった(23歳)。
・榎本が海軍操練所の教授になった頃、日米通商条約批准のための特使がアメリカへ派遣されることになり、特使一行は、アメリカ海軍ポーハタン号でアメリカへ向かった。
・幕府は、特使派遣に合わせて別の船を日本人の手で操って太平洋を横断することで国威を発揚させようとした。船は、オランダから購入した機帆船・咸臨丸、特使代理に木村摂津守喜毅、艦長は勝麟太郎であった。
・勝は、海軍伝習所の卒業生の中から乗組員を選抜したが、蒸気機関の扱いに習熟した榎本や中島三郎助は選ばれなかった。この選抜は実力本位ではなく、勝と肌合いの合わない人物は排除された。榎本や中島は、政治好きの勝とは対極的な技術者肌の人物であった(佐々木譲「幕臣たちと技術立国~江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢」)。
・咸臨丸は、ハワイ経由で万延元(1860)年5月に品川に戻った。勝はこの航海の後、艦長不適格として徳川海軍を追われた。
2.オランダ留学
・幕府は、咸臨丸航海中に桜田門外ノ変が起きたにもかかわらず、近代化路線を後退させることはなかった。近代技術導入と近代的統治体系整備のために、アメリカに留学生を長期派遣することを考え、アメリカに打診、留学生の人選も始めていた。最新型軍艦もアメリカに発注する意向だった。
・文久元(1861)年11月10日、榎本はアメリカ留学の内示を受け、軍艦組5人と蕃書調所教授方2人が派遣されることになった。しかし、アメリカに南北戦争が起こり、留学生の受け入れと軍艦製造は不可能となり、榎本たちのアメリカ留学は白紙となった。
・幕府は改めて留学生の派遣先を検討、オランダに決定した。
・文久2(1862)年4月、改めて榎本にオランダ留学が命じられ、遣欧第一次留学生と決まった。
・留学生は、海軍士官、医学、洋学、技術者(職方)の各部門合せて15人。身分制度が厳然とした時代に、士分と職方の混成であつた。幕府は、この国費留学生の編成に、身分の差をつけず、優先度本位、人材本位の選抜をした。留学生たちは、帰国後はただちに技官として、専門技術者として日本の近代化に尽くすことが期待されていた。
・榎本武揚のオランダ留学
文久2(1862)年から慶応3(1867)年までの5年間。オランダへは、オランダ船カリプソ号で向かい(途中台風で難破、沈没)、日本への戻りの航路は前年に完成した開陽丸が使われた。
オランダでは、蒸気機関学、軍艦運用術、機械学、理学、化学、人身窮理学など多くを学んだが、中でも、デンマーク戦争観戦と法学者・フィッセリング博士の講義受講により国際法に習熟したことが後年の外交官としての活躍の素地となった。榎本は、フランス法学者オルトラン著「海の国際法規と外交」をフィッセリング博士がオランダ語に訳した草稿に「海律全書」(後述)と名付け日々熟読していた。
また榎本は、パリやイギリスも訪れ、イギリスではロンドンだけでなく地方も回り、兵器工場、大砲博物館、陸軍士官学校、機械工場、鉱山など幅広く視察した。
3.「蝦夷共和国」と箱館戦争
3-1 箱館戦争
・榎本武揚ら旧幕府軍は、蝦夷地噴火湾の鷲の木(現森町)に上陸し、新政府軍の統治下にあった箱館を目指して進軍を始めた。まず、新政府軍の軍事施設であった五稜郭に入る。「上陸は戦闘のためではなく開拓のため」という嘆願書を人見らに持たせたが、攻撃を受け、これが箱館戦争の始まりとなった。
・大鳥と土方が兵を二手に分けて五稜郭を挟撃すると、箱館府知事・清水谷公考はプロイセン船カガノカミで青森に逃走した。榎本は、国際法の見地から無用な戦いによる混乱を避けるため、これを見逃した。10月26日、旧幕府軍はわずか5日間で、もぬけの殻の五稜郭を占領し、これ以降この五稜郭を本拠地とした。
・さらに榎本は、蝦夷地を治める松前藩主に宛てて「蝦夷地に来たので、共存共栄をはかりたい」との申し入れをしたが、松前藩は使者を斬殺して応じなかったので、榎本は土方を先頭に松前藩攻略を命じ、土方らは11月5日に約800人の軍勢を率いて松前(福山)城を襲撃、わずか1日で松前城は陥落した。敗走した松前兵は江差方面に逃げ込んだが、土方らはさらに進軍して松前藩を追い込んだ。
3-2 「蝦夷共和国」
・箱館占領後、榎本はすぐに箱館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、自分たちが「事実上の政権(デ・ファクトの政権)」「交戦団体(国家に準じる統治主体)」であることを認めさせ、各国に新政府と榎本政権との間の戦争には局外中立を取ることを約束させた。身につけた国際法の知識を百パーセント生かして得られた外交交渉成果であった。
・その頃、箱館に入港したイギリス・フランス両国の軍艦の艦長も、榎本ら旧幕府軍を蝦夷政権として承認し、新政府と共に日本列島に存在するもう一つの「事実上の政権」として認め、英仏は厳正中立の立場を取ることを約束した。
・さらに、英仏艦長を通じて、改めて朝廷に、蝦夷ヶ島をもらい受けたい旨の嘆願書を提出した(明治元(1868)年12月2日)。
・しかしこの時期には、榎本はすでに朝廷は自分たちの嘆願を絶対受け入れないだろうと考えており、このまま独立国家樹立へ向けて突き進まざるを得ないことも認識していたようである。
・軍事的な劣勢からその構想の非現実性を指摘する説が多いが、榎本には共和国独立の可能性と自立の現実性が十分見えていたはずである(佐々木譲「幕臣たちと技術立国~江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢」)。
・12月15日、各国領事を招いて蝦夷地平定の祝宴を開催した。
・この頃には、政権樹立に着手し、仕官以上の者による選挙(入れ札)によって榎本は、旧桑名藩主松平定孝や旧老中板倉勝静、旧唐津藩主の子小笠原長行ら格上の武士がいる中で頭領(総裁)として選出された。
・榎本のサインと花押
明治2(1869)年、プロシア人ガルトネルと榎本との間に締結された「蝦夷地七重村開墾条約書」(1回目講座で記述)の榎本の署名捺印。
・榎本が共和国独立の可能性と自立の現実性を感じていた根拠(佐々木譲「幕臣たちと技術立国~江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢」)
①徳川家臣団移住の地として蝦夷ヶ島を選んだ根拠が、安政元(1854)年の蝦夷地巡察にあったことは確実である。榎本は、この時、蝦夷ヶ島の漁業資源と潜在的な農業生産力、豊富な石炭についての知識を得ており、オランダ留学中の北緯52度のハーグ暮らしで北に位置する都市が繁栄していることも承知し、当時の日本人が不毛の地としてしか認識していなかった蝦夷ヶ島の未来について、十分楽観視することが出来た。
②測地学者の子として育ち、蝦夷ヶ島の地政学的位置について深い認識を持っていた。蝦夷ヶ島はアメリカに最も近いアジアであり、箱館はアメリカからアジアに向かう船にとって得難い国際港である。また、津軽海峡は国際海峡であり、箱館を海軍力で押さえる意味は大きかった。
さらに、榎本たちは新政府軍に勝つ必要はなく、津軽海峡をはさんで数年間対峙すればよかった。国際海峡である津軽海峡と箱館の安全・平和のために、いずれ欧米列強が調停に入り、新政府も欧米諸国を敵に回してまで、蝦夷ヶ島政権と戦争状態を続けることは出来ず、欧米列強の「外圧」に屈したという形で蝦夷ヶ島政権を独立国として承認することになるであろうという読みもあったのではないか。
③榎本は、将来ヨーロッパとアジアを結ぶ北極圏航路が拓かれることを予測し、その場合の蝦夷ヶ島と箱館の地政学的重要性も認識していたはずである。
3-3 降伏
・榎本の独立国家構想を支えるものは、海軍力であり、特に開陽丸の存在が重要であった。
・しかし開陽丸は、江差沖から江差を攻撃した夜に暴風雪に遭い、碇も船も押し流されて座礁、約10日後に沈没してしまった。
・榎本は開陽丸沈没の事を隠して各国外交官と交渉を持ち続けたが、沈没の事を知った各国は、開陽丸を失った榎本政権には交戦団体の資格なしとして局外中立を撤回した。それまで新政府に引き渡されていなかった甲鉄艦(ストーンウォオール・ジャクソン号)が引き渡され、双方の海軍力が逆転した。
・箱館のアメリカ領事・ライスは、新政府の総攻撃の前に、榎本にアメリカ亡命を提案した。反乱の首謀者として処刑されるにはあまりに惜しい人物であったからである。しかし、榎本はこの申し出を丁重に断った。
・4月9日、乙部に新政府軍が上陸を開始、榎本軍は次第に追い詰められた。5月4日には、箱館湾に新政府軍の軍艦が突入、回天、幡龍と猛烈な砲撃戦を展開した。
・10日夜、新政府軍が箱館山南側海岸に上陸し、翌朝から箱館を攻撃した。その翌日土方が戦死した。
・14日、新政府軍参謀・黒田清隆は榎本に降伏を勧告したが、榎本は拒否し、オランダで学んだ「海律全書」を新政府軍海軍提督へ贈って欲しいと黒田に届けた。
・15日、弁天台座が降伏、16日には千代ガ岱陣屋も落ちた。黒田より「海律全書」の返礼として清酒5樽が贈られた。榎本は降伏を覚悟し切腹しようとしたが周囲に止められた。
・政権首脳による協議で、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助の4人が出頭して降伏することを決定。
・5月17日、榎本らは新政府軍陣営に赴き降伏を告げて将兵の赦免を請い、黒田は受け入れた。
・5月18日、榎本は他の三首脳と共に五稜郭を出て降伏、日本の近代化のあり方をめぐる戦争は終わった。
3-4 獄中での榎本
榎本の獄中での様子は、1回目の講座で記述。
・榎本は、2年半の入獄後、黒田らによる助命嘆願運動(黒田は丸坊主になってまで奔走した)により、他の蝦夷ヶ島政権首脳と共に釈放された。
・黒田は、出獄後の榎本を北海道開拓使四等官に任命した。
・後に黒田が長女梅子を榎本の長男武憲に嫁がせたことでも黒田の榎本への評価が伺える。
・榎本は、当初明治政府に仕えることを躊躇していたが、恩義ある黒田の協力の求めに応じた。
しかし、北海道開拓事業での技師という仕事は、もともと榎本の本分だったかもしれない(佐々木譲)。
4.榎本に大きな影響を与えた「開陽丸」
4-1 開陽丸の建造
・文久2(1862)年、幕府が軍艦「開陽丸」をオランダに発注。完成した「開陽丸」は、慶応3(1867)年4月にオランダ留学を終えた榎本ら留学生9人を乗せて、横浜に到着した。ドイツのクルップス製鋼会社で作られた大砲を積んだ開陽丸は当時の世界で最新鋭の軍艦であった。
・平成2(1990)年に江差町で実物大の開陽丸が復元された。開陽丸記念館には、海から引き揚げられた約3,000点の開陽丸の遺物が展示されている。
開陽丸記念館外観(開陽丸記念館HPより)
5.榎本ゆかりの地(1)~小樽(龍宮神社)
5-1 榎本武揚が小樽の土地を購入
・明治6(1873)年、北海道開拓使の榎本は、対雁の土地10万坪(約33ha)と小樽の土地20万坪(約67ha)を開拓使から払い下げを受け購入した。小樽の土地は、開拓使役人の北垣国道(後の第4代北海道庁長官)と二人で五円ずつ出し合って購入した。
・榎本が購入した小樽の土地は現在の稲穂、富岡、緑町の一帯と思われる。
・榎本と北国は、小樽に在住していなかったので、「北辰社」を設立して経営に当たった。
・榎本は、東京でも「北辰社」を立ち上げ、明治初期の東京では一番大きな牛乳搾取所(牧場)を経営し、最盛期には乳牛が40~50頭いて、新しい飲み物・牛乳を生産した。
・小樽市稲穂3丁目の梁川通り、梁川商店街の梁川(やながわ)は、榎本の号「梁川(りょうせん)」に、稲穂2丁目の静屋(しずや)通りは、北垣の雅号「静屋(せいおく)」に因んでいる。
・国有地払い下げの折、榎本は、小樽が天然の良港であることに目をつけ、将来は小樽が北海道の経済の中心になるだろうと予測して、私財を投じたものと思われる。しかし、当地は農地としては適していなかった(龍宮神社 本間宮司談)。
5-2 小樽と龍宮神社
・慶応年間から明治初期の北海道には、箱館から海路で江差、積丹を経て小樽に海の幸を求めて多くの人がやってきた。特に、小樽周辺は物資の補給、険しい陸路を避ける輸送の拠点とされていた。
・龍宮神社の在る地は、昔アイヌ民族の祭場であった。海路安泰、海幸祈願や熊祭のためこの祭場に「イナウ」を立て、酒饌を供し祭事を行っていた。現在の龍宮神社の周辺を稲穂町(いなほちょう)と呼ぶのはここからきているといわれている。
・榎本は、アイヌ民族の祭場に桓武天皇を祀り移民の安寧をはかるとともに「北海鎮護」と献額し、社を建立した。
・榎本は、北海道の中心となる小樽に何らかの拠点「心のささえとなる神社」を作りたいと考えたのではないか(龍宮神社 本間宮司談)。
・神職は、江差の龍宮教会で宮司をしていた本間氏に依頼。現在の宮司は6代目。
・社名は、明治天皇巡行に随行した有栖川宮熾仁(たるひと)親王の直筆揮毫「龍宮殿」を頂き、明治15(1882)年に社名とし、大正5(1916)年に「龍宮神社」と改称した。
・榎本武揚については、 左手に「海律全書」、右手に羅針盤を持つ像があり、生い立ちを示す説明板もある。
5-3 龍宮神社社宝「流星刀」
・榎本が隕石を材料として作った流星刀の1振りが龍宮神社に残されている。これは、榎本のひ孫・榎本隆允氏から寄贈されたもの(1回目講座で記述)。
※エピソード「榎本武揚と渋沢栄一」
・渋沢が徳川慶喜の実弟昭武の随員として赴いたフランス渡航からの帰国中、香港で、渋沢へ蝦夷共和国総裁就任を依頼する榎本の使者・ドイツ人スネルと会ったが、渋沢は固辞した。
・明治以降のある時、榎本と渋沢は小樽で偶然に遭遇し、酒を飲み交わしたと伝えられている。
5.榎本ゆかりの地(2)~江別対雁(榎本公園)
5-4 榎本公園(江別市工栄町)
・榎本が開拓使から10万坪の払い下げを受けて農場経営を行わせた土地。「江別発祥の地」として歴史的に重要。公園入口横には、「史跡
対雁番屋・駅逓 江別発祥の地」と書かれた標柱と「史跡 津石狩(対雁)番屋」という説明板がある。
・「対雁」は、もともと「津石狩」であったか?公園一帯はかって多くの川が石狩川に合流する水運の要衝(津=港)であったことで付いた地名であったか。
・対雁には、慶応4(1868)年に立花由松が江別最初の和人として定住、明治4年には宮城県から21戸76人が入植、明治9年には樺太・千島交換条約により南樺太(サハリン)に住む127戸854人のアイヌが移住させられた。これにより学校や製網所が作られるなど対雁はにぎわい、明治12年に駅逓所、13年に対雁・江別両村戸長役場が置かれた。
・明治15年の鉄道開業により人の流れが江別・野幌に移り、コレラの流行により300人以上の病死者を出す大惨事にみまわれるなど、対雁は衰退をはじめた。駅逓所は明治18年に廃止となり、 19年には戸長役場と郵便局が江別村に移転した。
・「対雁」は、第162回直木賞受賞作「熱源」(川越宗一著)の舞台となっている。
5-5 榎本武揚顕彰碑と對雁百年碑
・榎本武揚顕彰碑
レンガ式に立派な石積みの塔が立ち、頂上には馬に乗った榎本武揚の像がある。土台は星型で、函館の五稜郭を意味しているのか。
・對雁百年碑(町村金五書)
碑の中には、かってこの地にあった対雁神社の御神体である自然石が埋め込まれている。説明文には、碑内にご神体が入っていること、豊平川の治水工事で社を解体したことなど主に対雁神社について書かれている。
◇榎本武揚の評価
・明治41(1908)年10月26日、榎本釜次郎武揚没。享年73歳。駒込吉祥寺に葬られた。
・榎本が明治の近代化に果たした役割は非常に大きかったが、その足跡は人々に広く知られてはいなかった。
その理由は
・旧幕臣でありながら薩長藩閥の政府に仕えたことに、少なからず批判があった。
・福沢諭吉の「痩せ我慢の説」が大きく影響を与えた(これについて榎本は一切弁解しなかった)。
・明治期の他の政治家とは違い、自伝は一切残さず、宣伝めいた伝記を書かせることもしなかった。
・榎本の力量に頼った新政府も、榎本が目立つ存在になることは避けたかったかもしれない(秋岡伸彦「ドキュメント
榎本武揚)
以上で本日のお話は終了しましたが、3回にわたり榎本武揚の人物像やその活動を丁寧に描き出していただいたおかげで、榎本武揚という人物を充分理解することができました。まるで知り合いであるかのように感じたほどでした。今後も研究を続けていただき、新事実があればまたぜひお話いただければと思います。ありがとうございました。
最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「榎本武揚の講座があってもなかなか触れられない部分を詳細に話して頂き、この人物を良く理解できました。良い講座をやっていただいたと思います」
「楽しく聴かせてもらいました。龍宮神社に行ってみたくなりました。(榎本公園)にも訪れてみようと思います」
「榎本武揚~家庭環境の影響により、徳川家に対する忠節を守りながら時代の中での活動は、普通の人ではできなかったと思います。明治の近代化に果たした役割は非常に大きかったこと(を)3回の講座でわかったこと、うれしかったです」
「大変楽しく学ぶ事ができました。3回共丁寧で詳しい資料とお話で、榎本武揚の活躍した時代の認識が深まりました。特に蝦夷共和国と箱館戦争については興味深く理解できました。90分は、あっという間に過ぎました。つくづく知らない事も多いと実感しています」
「知らないことだらけで、大変勉強になりました。特に小樽の話がおもしろかった。ありがとうございます」