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 主催講座1「国宝になった白滝遺跡群出土品」第1回「遺跡が語る北海道の歴史」

2024/05/23

 4月16日(火)、本年度初めての主催講座「国宝になった白滝遺跡群出土品」の第1回「遺跡が語る北海道の歴史」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は北海道埋蔵文化センター理事長の長沼 孝さん。受講者は41名でした。

 講師の長沼さんは、長年にわたり道内の埋蔵文化財保護行政や発掘調査に従事され、このほど国宝に指定された「白滝遺跡群出土品」に関わる発掘調査に直接関わるなど、名実ともに北海道の遺跡発掘調査の第一人者です。
以下は、第1回目の講座概要です。
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はじめに~考古学とは
〇第1回目の今回は、国宝になった「白滝遺跡群出土品」の話をする前に、専門の考古学の視点から北海道に人が住み始めた3万年前から現在のビールまでの話をしたい。
〇北海道には国宝が2点。「土偶」と昨年6月に指定された「白滝遺跡群出土品」。
〇考古学者といえば映画ではインディー・ジョーンズ。「となりのトトロ」 のお父さんも考古学者。北海道出身の俳優・大泉洋が考古学者になったドラマもある。英国の推理小説作家アガサ・クリスティの2人目の旦那も考古学者。彼女が言った言葉に「考古学者は良き旦那。奥さんが年をとれば、とるほど価値を見出してくれる」というのがある。
〇考古学は警察の「鑑識捜査」にあたり、発掘調査によって得られた「物的証拠」と、どの様に何と一緒に出たか等の「状況証拠」の二つの事柄から地域の歴史を明らかにする。

ホモ・サピエンスと遺跡
〇現在、世界中にいるヒトはホモ・サピエンスという一つの種。生物学的にはありえないこと。ホモ・サピエンスは様々な環境に適応して生きていく能力や道具を持っている。
〇人類は 700万年前に北アフリカで誕生し、その後、様々な形で進化。しかし、初期の人類は我々ホモ・サピエンスの直接の祖先ではない。現在のホモ・サピエンスも北アフリカに20万年ほど前に誕生、進化し、10万年前頃に世界中に拡散。そして5万年前頃にアジア大陸東部にきて、その一部が日本列島にもやってくる。
〇日本列島にアジア大陸からヒトがやってくるのは、朝鮮半島経由で38000年前頃。その後、南西諸島から35000~30000年前頃、そして、沿海州からサハリン経由で北海道へ25000年前頃にやって来たと考えられている。 
〇 北海道で確認されている遺跡は約12400か所。全国では46万か所。北海道は山林や原野が多いので、まだまだ遺跡がある。石狩市では紅葉山の砂丘などを中心に220か所あり、浜益の陣屋跡もその一つ。
 
 旧石器時代
〇旧石器時代の遺跡は全国で10000か所。このうち北海道は700か所と多い。北海道は大陸から北回りで人がやってきたことと関係する。
〇北海道にヒトが住み始めたのは30000年前頃。石狩では旧石器時代の遺跡は確認されていないが、北海道の北東半分の地域にその頃の遺跡が多い。旧石器時代の最も寒い頃、22000~18000年前頃は、現在より年平均気温が7~8℃ほど低く、海水面も100m以上低い。マンモスなどの大型動物群が大陸からサハリン経由で北海道へ南下。
〇30000~15000年前の旧石器時代は寒く乾燥し、草原が広がり、マンモス、オオツノジカなどの大型動物が群れを成し、それらを追って狩りをしながら移動して生活。
○今金のピリカ遺跡では日本で初めて旧石器時代の装身具である石製ビーズが出土。  
〇さらに知内町湯の里4遺跡はピリカ遺跡と100㎞離れているが、同じような石製ビーズが発見された。これらのビーズは「かんらん岩」という石で、北大の専門の先生にみていただいたら、大陸産の可能性が強い、とのこと。

 縄文時代
〇現在、日本で最も古い土器の年代は16000年前頃。温暖化が始まり、マンモス等の大型哺乳類に代わって鹿などの中小型の動物群が出現。それらを狩るために弓矢を発明。
〇土器は基本的に煮炊きの道具。人類が化学変化を道具に利用した重要な発明。
〇現在、北海道で一番古い土器の年代は 14000年前頃。帯広と遠軽の遺跡で出土。
〇日本の考古学は土器の研究に長じている。我々は小さな土器片をみれば、その土器が今からどの位前の、どの地域のものかを推定できる。
〇早期・前期と呼ばれる初期の土器は熱効率の良い尖がり底や丸底が多い。 
〇前期の頃になると気温が上昇し、縄文時代で最も暖かい時期で、遺跡も多く、人口も増えたと考えられる。青森の三内丸山遺跡に代表される円筒形の土器が、次の中期の時期を含めて盛んにつくられ、北海道にも広がる。
〇石狩でもこの時期の遺跡が紅葉山砂丘などに多くみつかっている。
〇これは日本海の対馬暖流を利用したヒトの動きと考えられ、礼文島の遺跡でも同様な土器が発見されている。対馬暖流の活用は縄文時代に限らず、北前船などもそのひとつ。
〇 4000年前頃になると、生活の多様化に伴い、土器の形も多様化する。土器の形や文様から当時の生活の様子や心模様が分かる。
〇 縄文時代は木を利用して様々な道具を作成。石狩の紅葉山 49号遺跡では旧発寒川で鮭漁を行った痕跡がみつかり、丸木舟の一部、タモ網の枠、木製の容器などが出土。 
〇縄文人が造ったものに環状列石(ストーン サークル)がある。なぜ 縄文人がこのようなもの作ったのか?みんなで共同作業することと将来に残すことに意味があったようだ。
〇ヒスイは代表的な玉の素材。北海道でも多く出土しているが、すべて新潟の糸魚川産。
〇道南の福島町館崎遺跡では長野県産の黒曜石で作られた矢じりが1点発見された。
〇これは私の考え。青森の三内丸山遺跡でも同様な矢じりが31点ある。三内丸山の縄文人はこの矢じりが遠くから何日もかけて運ばれてきたことが分かっていた。そこで津軽海峡を丸木舟で渡る若者に長老がお守りとして持たしたのでは。
〇礼文島の船泊遺跡の人骨からDNAの全ゲノムが抽出できた。女性、血液型はA型、両親と似た遺伝子、髪の毛の縮れている、瞳の色は橙色、シミのリスクあり、酒に強い。
〇土偶の話に移る。国宝の土偶は5体で、北海道は「カックウ」がある。土偶は全国で2~3万点ほど発見されているが、北海道では500点ほど。
〇初期の草創期・早期の土偶は 小さいものが多い。 顔の表現があるものとないものがある。中期には体に穴が開いている土偶などもあり、その造形は単純ではない。
〇 「カックウ」が国宝になった時、地元函館の病院でCT撮影をした。最初は目的外使用でダメと言われたが、「カックウ」という名前があります、ということでOK になった。
〇「カックウ」以外の4体の土偶は発掘調査で発見。「カックウ」は南茅部の漁師の奥さんがみつけたもの。町の学芸員が調べた結果、縄文時代後期の土偶と分かり、極めて精巧であることから、昭和54年に重要文化財に指定。当時、町には展示施設がなく、「カックウ」が30年間役場の金庫で保管されたことから、「何も悪いことをしていないのに30年間禁固刑にあったという」ジョークも。
〇札幌のN30遺跡の土偶は市の指定文化財。江別市でみつかった土偶は 2体が重なって発見された。形状に違いがあるので、男女を表現したものだと思う。                                    〇子供の足形を付けた土製品が東日本で68例ある。多いとは言えないが、これだけあると偶然に粘土に足形が付いたとは考えられない。
〇これは死亡した子供の足形を親がカタミとして残したもの、との説がある。私はそうは思わない。子供の足形は1歳前後のものが多く、私は「立ち祝」の証拠と考える。当時は乳幼児の死亡率が高く、子供が立てるくらいまで成長できることは村の大きな喜び。現在でも、1歳の誕生日には一升餅を背負わせる。九州では「餅踏み」を行うという。

 続縄文時代
〇本州の弥生・古墳時代に相当。本州ではコメ作り、北海道ではコメは作っていない。
〇前半の恵山文化の時期は、狩猟、特に漁労に特化。 様々なものがお墓に副葬されている。紅葉山 33号遺跡では砂丘に穴を掘って遺体とともに副葬品を入れた。
〇模様が描かれた漆塗りの弓は極めて貴重なもの。漆膜しか残っていないが、保存処理されて資料館で展示。また、同じ副葬品の「管玉」は日本海経由で本州からもたらされたもの。
〇後半期の後北式土器文化は余市のフゴッペ洞窟が有名。石狩の若生遺跡でも土器が副葬された墓がみつかっている。

擦文文化期
〇本州の奈良・平安時代に相当、7~12世紀頃。
〇カマドがある方形の竪穴住居が特徴的。若生遺跡でも方形の住居跡が発掘調査。
〇奥尻の青苗貝塚はこの時期の遺跡で、出土した玉類が重要。ヒスイの勾玉のほか水晶・ガラス・土などの玉類があり、全体的には8世紀頃と考えられるが、その由来が謎。
〇奥尻は日本海を経由した本州文化とオホーツク文化との交易の場でもあった可能性があり、その辺に謎を解くカギがあるかもしれない。

オホーツク文化期
〇5~12世紀頃、大陸からやってきた人たちが、サハリン、オホーツク海沿岸、さらに千島列島に展開して営んだ文化。
〇六角形の住居が特徴的。海獣狩猟を行い、海に依存した生活。オホーツク式土器や石器類を使い、独自の信仰に伴う特色ある装身具などがみられる。
〇オホーツク人は大陸からやってきた北方適応したホモ・サピエンス。
〇アイヌの人たちのDNAを分析すると、オホーツク人の遺伝的な影響が強いことが分かってきた。つまり、アイヌの人たちの形成には北海道の縄文人だけでなく、大陸からやってきたオホーツク人も関係したことが分かった。

アイヌ文化期(中世・近世)
〇本州の中世・近世に相当する時期で、13~19世紀の頃。北海道では幕藩体制が整っていなかったので、アイヌ文化期と言っている。
〇全道に500か所ほどあるチャシ跡が代表的な遺跡。
〇幕末の時期には、日米和親条約で箱館が開港。幕府はロシアの脅威に備えるため、北海道沿岸の警備を東北諸藩に命じる。浜益の荘内藩陣屋跡はその時に造られたもの。
〇長崎の出島を調査した時、海外向けに作られた焼き物であるコンプラ瓶がたくさんみつかった。本州の遺跡での発見は少ないが、北海道では幕末の遺跡で出土し、函館の五稜郭跡や石狩川河口の聚富川口遺跡でもみつかっている。
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近代以降の文化財とビールの考古学
〇北海道独特の名勝として、アイヌ文化の伝承がある景観「ピリカノカ(美しい形)」というのがあり、石狩の「黄金山」もその一つ。
〇 最後はビールの話。 北海道開拓使麦酒の五稜星ラベルはサッポロビールの星印に引き継がれている。新千歳空港建設の発掘調査では、米軍が残したゴミ穴から錆びたビア缶がみつかった。 ブルーリボン(1950年)、バドワイザー(1952年)、ブラッツ(1953年)の3種。オレゴンの部隊が演習を行った後に朝鮮半島に行ったという記録があり、ビア缶の年代はまさに朝鮮戦争の時期と一致する。錆びたビア缶が千歳の歴史の一端を物語る。
〇身近にある歴史と文化財。そして芸術文化。腹の足しにはならないが、心の足しになり、人間が生きていくうえで絶対に必要なもの、それが「文化財」と「芸術文化」。

《受講者の声》
「大変興味深く充実感のある講座でした。楽しく学べました。次回も大変楽しみです。ありがとうございました」
「縄文人の生活(精神的に豊かな生活)に思いをはせることができました。ユーモアのある楽しい講座でした。ありがとうございました。もう一度 北海道埋蔵文化財センターを見学したくなりました。以前とは違った目で見学できるように思います」




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