いしかり市民カレッジ

トピックス

トップページ トピックス 主催講座2「アイヌの歴史」第1回「アイヌ文化までの道のり」


トピックス

主催講座2「アイヌの歴史」第1回「アイヌ文化までの道のり」

2024/05/14

 5月7日(火)、主催講座2「アイヌの歴史」の第1回「アイヌ文化までの道のり」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、アイヌ史研究家の平山 裕人さん、受講者は51名でした。
講座は、最初にアイヌ文化についての解説があり、それを受けて、
1,アイヌの祖先は誰か?
2.「古代」蝦夷と「古代」日本との戦い
3.元王朝VS樺太アイヌ
というテーマで進められました。
24,2,1,1.JPG
 以下は、講座の概要です。
◇アイヌ文化(日本史の鎌倉時代から江戸末期までの時代区分に当たるアイヌ文化)って何?
・イヨマンテ(クマ送り、シマフクロウ送りもあった。大事な動物を殺して、その魂をあの世に送る。イオマンテともいわれる)。日本の記録では、17世紀には存在(一般的に狩猟採集民族は文字を持たず、アイヌも同様なので日本の文献から読み解くしかない)。イヨマンテ風の精神文化は「縄文時代」にも見られる。 
・チャシ(アイヌの砦)
16~18世紀。主に、道東で見られる。
・たて穴住居に住まず(チセに住んでいた)、石器や土器は使わない(13世紀以降。但し、樺太アイヌ、千島アイヌは使っている)
・踊り、歌、料理、紋様は道内各地域で違いがある。
・前近代では、アイヌ語を母語とする人をアイヌと見る。

1.アイヌの祖先はだれ?
考える材料として
①アイヌ語地名の存在
・ナイ(内)とペッ(別)
ナイ(小さい川、23%)、ペッ(大きい川、11%。%は永田方正の北海道アイヌ語地名の聞き取りを資料とする)
・ウシ(熊石、張碓など、~がいっぱいある所。11%)
・ポロ(札幌、大きいの意、4%)
・合せてほぼ50%になるこの5つの地名はどこにあるか?
北海道及び東北地方北部に多い。
・東北地方北部(山田秀三の研究によると東北地方でアイヌ語地名は400か所くらいある)
ナイ~菱子内(宮城県霊山町)、姉内(岩手県花巻市近く)
ペッ~苫米地(青森県福地村)
ポロ~大幌内(青森県十和田湖町)
ウシ~釜石(岩手県)
このことにより、東北地方北部にも、かってアイヌ語を話す人たちが住んでいたことが分かる。
24,2,1,2.JPG
②縄文時代
縄文時代について、かっては少数で貧しく生活していたイメージであったが、三内丸山遺跡の発掘により、大きな集落で豊かな生活をしていたというイメージに変わった。
ただ、縄文土器があれば縄文時代かというとそうではなく、日本の新石器時代を縄文時代と言い、特に今回は北海道と北東北の縄文時代について扱う(縄文時代でも西日本と北日本では大きな違いがある)。
本州:縄文⇒弥生・古墳(稲作・金属器)⇒奈良・平安⇒鎌倉
北海道:(北の)縄文⇒続縄文⇒擦文⇒アイヌ文化
・アイヌ語地名はどこまで遡れるか?
文献資料
「日本書紀」7世紀半ばの地名。
トキサラ(アイヌ語でト:沼、キサラ:耳の形、道内に地名として残る)、シリペシ(シリ:崖、ペシ:崖、現在は地名として残らず)
「続日本紀」8世紀
ヒラホコ(ピラ:崖、ポ:下)、ヒラガ(ピラ:崖、カ:上)
「類聚国史」8世紀
シリハ(シ:崖、パ:端)
「日本後紀」9世紀
トクタン(ト:沼又は廃棄になった、コタン:村)、オサツ(オ:川尻、サ:乾いた)
 以上の例から、東北地方にアイヌ語地名があったことが7~9世紀頃までは遡れることが分かる。
③東北地方北部・北海道は同一の文化圏
・4~5世紀頃(続縄文文化)、後北式土器を使う江別文化が北海道と東北地方北部に広がっており、その範囲はナイ、ベツのアイヌ語地名圏と重なっている。それによってアイヌ語を使っていた人たちが江別文化を担っていたという確率は高いのではないか。
④北海道・北東北の縄文遺跡群(15000年前~2400年前)は?
確かにアイヌ語地名圏と一致はするが、縄文時代という時代があまりに長くアイヌ語を話していた人たちがすべての文化を担っていたとは言えない。
北海道、東北地方北部が同一文化圏にあった時代を新しい順に個別にまで見ていくと・・
㋑亀ヶ岡文化(遮光器土偶)圏(3000~2400年前)
アイヌ語を話す人たちが文化を担っていた確率は高いか。
㋺環状列石 小牧野遺跡(青森県、4000年前)。伊勢堂岱遺跡(北秋田市、4000年前)。
関連遺産 鷲の木遺跡(北海道森町、4000年前)。この時代まで遡るのは難しいか。
㋩円筒土器文化圏(5900~4200年前) 三内丸山遺跡(青森県青森市)
アイヌ語地名圏とは一致しているが、時代があまりに古く、アイヌ語を話していた人たちが文化を担ったと考えるのは学問的に無理があるか。しかし、この間、民族の入れ替わりは起きていないという状況はある。

2.「古代」蝦夷(えみし)と「古代」日本との戦い
蝦夷とは、東方で「王化」に従わない人々のこと。
◇蝦夷の風習について
・「日本書紀」720年の記録。
武内宿祢(実在しないと思われる)の東方視察の記述
蝦夷は、文身をし、季節移動をし、毛皮を着ているなど、この記述だけ取ればアイヌの風俗と似ている。
・「日本書紀」659年、唐の皇帝と遣唐使使節との問答。この時、蝦夷を唐へ連れて行った。
穀物を食べず肉を食べる。白い鹿や弓矢を献上(狩猟民族であることが分かる)。
さらに「新唐書」には、蝦夷は長い髭を生やしていると記述。
(1)阿倍比羅夫の遠征(658~660年)
・658年、180艘の船団を率いて遠征。アキタ首長オカをアキタ、ヌシロ、ツガルの郡領にする。
渡島(わたりしま)エミシを接待。この時、粛慎(アシハセ、オホーツク文化人か)が、ヒグマ2頭とヒグマ皮70枚を献じた。
・659年、再遠征。
アキタ、ヌシロのエミシ241人と虜3人、ツガルエミシ112人と虜4人、イブリサエのエミシ20人を接待し、シリヘシに政所を置いた。また、アシハセと戦い、49人を獲得。
・660年、船団200艘。
陸奥エミシと渡島エミシ、阿部軍合せて1000人がアシハセと戦闘。
(2)エミシと日本の境界での争い
8世紀に、エミシを天皇政権に従わせる為、エミシの首長に位階を与えた。さらにエミシを強制的に日本中に移住させ、そこに関東の農民(和人)を移して開拓させた。
・東北侵攻の拠点は、多賀城(宮城県多賀城市)
・天皇政権への反抗
770年、宇漢迷公ウクハウらが、一族を率いて元の勢力地へ引き揚げた。
774年、エミシが桃生城(ものう城)を襲う。
776年、3000人の遠征軍が胆沢エミシを攻撃。
780年、伊治の首長・砦麻呂(あざまろ、俘囚)が多賀城を襲った。
789年、桓武天皇 5万2800人を派遣。
胆沢の14村の800の家が焼かれる。アテルイ、衣川で大軍を迎え撃つ。
日本側―戦死者25名、矢による負傷者245人。溺死1036人。裸身で泳ぎ渡る者257人。
794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂 10万人派遣。
エミシの戦死457人。捕虜150人、馬捕獲85頭、焼け落ちた村75村。
坂上田村麻呂を起用して4000人で胆沢城を築く⇒アテルイ、モレら500人降伏⇒平安京へ連行され河内国で処刑される。清水寺にアテルイ、モレの碑がある。
803年、田村麻呂、志波城を築く。
806年、桓武天皇死去。
814年、徳丹城を築く(岩手県紫波郡矢巾村)。
さらにニサッタイ(岩手県二戸市)、ヘイ(三陸海岸)へ侵攻したが、それより北はツガルエミシの勢力圏という認識で、侵攻はそこで止まった。
24,2,1,3.JPG
3.元王朝VS樺太アイヌ
(1)樺太アイヌと千島アイヌの登場
・澤井玄氏の研究
擦文時代の竪穴住居は、7~9世紀:道央(札幌、余市など)に多い。10世紀後半:留萌地方に多くなる。12世紀前半~13世紀前半:オホーツク海岸や道東に移る。
・道北のアイヌがサハリンへ。道東のアイヌが南千島へ侵出
(2)元王朝と樺太アイヌ
・1264年、サハリンで蝦夷(クイ~樺太アイヌ)とギレミ(ギリヤーク~ニブフ)が衝突。
サハリンには、ニブフ、ウイルタ(?)、樺太アイヌが住んでいた。
※19世紀半ばのサハリン島の人口:アイヌ二千数百人、ニブフ5000人(大陸とサハリン合せて)、ウイルタ792人(1897年)で、合計5000~6000人か。
・元(モンゴル帝国)はギレミ(ニブフ)に味方し、クイ(樺太アイヌ)と戦う
・1273年、元王朝はタヒラにサハリン遠征を命じたが、アムール川下流域にとどまる
・1284~1286年、元は兵1万、船千艘(大きな船ではない)でサハリンに遠征
・1296年、ギレミの一部がクイに味方する。クイは攻勢に出てアムール川下流域に侵攻
・1308年、クイはギレミを通じて元王朝に停戦を求める
・この後、元は衰退した
・樺太アイヌは、中国王朝・元、明、清が沿海州へ侵出するたびに記録に表れる

 以上が本日の講座の概要ですが、アイヌ語を話す人々のことがどの時代まで遡れるかという、これまで聞いたことのない大変興味深いお話でした。

 最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「気迫さえ感じられる第1回のお話、大変楽しく盛りだくさんながら興味深い講座でした。資料内容も詳しく豊富で聞き応えがありました。歴史の流れを理解するのにやや時間がかかりますがキーワードをたどるだけでも有意義と思います」
「アイヌの歴史を詳しく知らなかったが大変参考になった。話・構成内容、面白かった。ありがとうございました」
「これまで断片的にしか知りえなかったアイヌのことを体系的に学ぶことができ、良かった。次回、次々回が大変楽しみである」
「大変判りやすい説明で、声が通って・・・良かったです。アイヌのこと、判らないことばかり、少し理解が深まりました」
「新しい情報を頂き、感謝しています」





CONTENTS コンテンツ

カレッジ生募集中

ボランティアスタッフ募集中 詳細はこちらから

いしかり市民カレッジ事務局

〒061-3217
石狩市花川北7条1丁目26
石狩市民図書館内社会教育課
Tel/Fax
0133-74-2249
E-mail
manabee@city.ishikari.hokkaido.jp

ページの先頭へ

ご意見・お問い合わせプライバシーポリシーサイトマップ