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主催講座2「アイヌの歴史」第3回「近現代のアイヌ」

2024/05/31

 5月21日(火)、主催講座2「アイヌの歴史」の第3回「近現代のアイヌ」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、アイヌ史研究家の平山裕人さん、受講者は44名でした。
 3回目は、近現代のアイヌについてのお話でしたが、平山さんは「歴史は、どんな視点から見るか、誰の立場から見るかで大きく変わります。今回は、アイヌの近現代について、アイヌの人たちにとってはどうであったのか、結果のわかっている現代から見るとどうであったのか、というふたつの視点からお話していきます」と言って、講座を始められました。
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 以下は、その概要です。
視点~先住民族の権利に関する国連宣言(2007年)
①先住民族は、自らの政治的地位を決定し、経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する(第3条)
②先住民族は、自治活動に必要なお金とそれを確保する方法を含め、自治の権利を持つ(第4条)
③墓場などから研究目的などで持ち去られた儀式用具や遺骨の返還を要求する権利を所有する(第12条)
④国家は、先住民族と協力して、共同体から来て生活する人も含めて先住民族の子どもが、独自の言語による教育を受けることができるようにしなければならない(第14条3項)
⑤先住民族は、自らの権利に影響をおよぼすことの決定に対して、先住民族が自らの方法で自ら選んだ代表を通して参加する権利を持つ(第18条)
⑥先住民族は、自らが伝統的に所有し、または占有もしくは使用してきた土地、領域、および資源で、合意なく没収、占有、使用され、損害を与えられたものに対して、原状回復を要求する権利を持つ(第28条1項)
1.日露通好条約と後期場所請負制
・日露通好条約(1854年、現在の広報や教科書では、政府が指導する「北方領土の日」に忖度して、太陽暦に直して1855年とされている)
両国の領土について、アイヌモシ(アイヌの大地)を分割して北海道・南千島(エトロフ島、クナシリ島)は日本領、北千島(ウルップ島以北)はロシア領、サハリンは、日露混住とされたが、千島はそもそも、アイヌモシの大部分で和人やロシア人は住んでおらず、アイヌの存在を無視して勝手に決められた国境であった。
・後期場所請負制
アイヌの人たちにニシン漁など漁場需要のある地への強制移動と強制労働を強いるものであった。松浦武四郎もそのことを記述(『近世蝦夷人物誌』)している。
強制労働の他にも、女性への暴行による性病の蔓延、天然痘の大流行などをもたらし、アイヌ集落の破壊につながった。なお、強制労働については、自分稼ぎのアイヌもいたので強制ではないと言われることもあるが、それは一部のことで、大半は強制されたものであった。
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2.北海道「開拓」と植民地政策
①北海道「開拓」と植民地政策
1869年、開拓使が設置され、北海道と南千島が日本の一部とされた。これにより、アイヌが住んでいた領域に和人が自由に侵入することになった。
・北海道という名前
松浦武四郎が付けた北加伊道(北海道)という名前には、二つの意味があった。一つは、奈良時代以来の、五畿七道に沿った八番目の道という意味。もう一つは、加伊いう言葉にアイヌの土地だという意味が込められていた。
②文化の同化政策
・創氏改名、葬儀の際の家焼き禁止、女性の入れ墨禁止、男性の耳輪禁止
・生業の制限・禁止
アイヌの生業の中心は、サケ漁やシカ猟。サケ漁については、日高、十勝、石狩で禁止され、シカ猟については、北海道鹿猟規則により、「免許鑑札」(600名まで)が必要となり、毒矢は禁止された。
③アイヌモシの土地・資源が奪われる
・1872年、地所規則(対象:松前、函館地方など「和人地」の和人)及び北海道土地売貸規則(対象:津軽海峡以南の人たち)により、北海道の大地において、和人一人当たり10万坪まで払い下げることになった。アイヌについては、当分の間、官有地として(強制移住も可能になった)居住させることになった。
④千島・樺太交換条約(1875年) 日本側交渉担当者 榎本武揚
・当時のサハリン島の人口
ロシア人:3,000人 和人:200~300人
先住民族―アイヌ二千数百人、他にニブフ、ウイルタ
黒田清隆は、樺太はまもなくロシアに実効支配されるだろうと考えていた。
サハリン南部では、樺太アイヌは元々歴史的に和人商人と関係が深かったが、ロシア領となった。
北千島は歴史的にロシアと関係が深かったが、日本領となった。
いずれも、先住民族に断らず、勝手に領土の線引きが行われた。
・アニワ湾周辺のアイヌ
サハリン湾の見える宗谷への移住を希望したが容れられず、黒田により石狩の対雁(ついしかり)移住を強制された。アイヌと親しかった開拓使判官・松本十郎は、黒田にアイヌを移住させるよう命じられ、辞任した。841人のアイヌがサハリンから強制移住させられたが、天然痘やコレラで三百数十人が亡くなった。
・千島アイヌ
18世紀初頭まで二百数十人だった千島アイヌの人口は、19世紀半ばには、百人前後となった。このうち、ロシア国籍を選び、大陸に移住したアイヌが12人(13人?)いた。
また、北千島に残りたい97人の千島アイヌを色丹島に強制移住させたが、10年後には58人となった。
・ポーツマス条約(1905年)―サハリン南部は日本領となる
対雁に移住させられた人々はサハリン島に戻ったが、国策で決められた土地に集住させられた。
⑤北海道「旧土人」保護法の成立
・1897年、北海道国有未開地処分法
一人当たり150万坪(495万平方㎞、縦2.2㎞、横2.2㎞)の土地を払い下げることが出来るようにした。一方、アイヌ民族は、アイヌモシという大地やアイヌの文化を奪われ、日本語を実質強要され、サケ漁やシカ猟の生業を奪われた。北海道の土地は和人に払い下げられた。
・1899年、北海道「旧土人」保護法を制定(1997年まで)。
アイヌには、一戸1万5000坪まで、未開地を農耕目的に限って「下付」。相続以外は譲渡できない。15年で開拓しなければ没収。アイヌ民族を狩猟の民から「開拓」の国策・農耕の民へ変える方針。アイヌの学校では、日本語と修身「道徳」を教え、地理や歴史は教えなかった。これは、アイヌ語とアイヌ文化を奪うことになった。また、和人の修学期間が6年となってもアイヌは4年のままであった。
さらに、北海道「旧土人」保護法の適用は、北海道アイヌだけで、樺太アイヌには適用されなかった。
⑥学問の暴力
ダーウィンの進化論の適者生存、淘汰説などから欧米では、欧米人が優秀、アジア人は劣り、先住民族はさらに劣等との考えが広まった。
◇日本列島の新石器人は誰か
・「人種」(現在では、人類はホモサピエンスのみの一つの種という結論)交代説
坪井正五郎(東大、先住民の展示による人類館事件を起こした)は、コロボックルからアイヌ、アイヌから「和人」という説。
小金井良精(東大)は、アイヌから和人という説。
・清野謙次
もともと和人がいて、他の影響を受けて現在へという説。
・児玉作左衛門(北大)
日本学術振興会の第八小委員会(アイヌ研究)、国策としての植民地学。アイヌは「白人」という説。
・アイヌ遺骨の盗掘
サハリンなどでの外国人による遺骨盗掘―81体。
小金井良清―160体。
清野謙次―52体。
児玉作左衛門―550体。
盗掘は、全国12大学・千数百体におよび、現在は、道アイヌ協会の意向により、ウポポイに留められており、元々の地には戻っていない。ただし、返還裁判では、多くの条件付きながら、返還が可能とはなっている。
3.アイヌ民族の復権
①近文事件
・近文へ強制移住させられていたアイヌ居住地の近くに第7師団の移転が計画され、アイヌをさらに天塩へ移住させようと画策された(裏で、陸軍大臣桂太郎、北海道長官園田安賢、政商大倉喜八郎らが暗躍)。近文アイヌは石狩浜益のアイヌ・天川恵三郎(オタルナイから強制移住)に相談した。天川恵三郎は、旧知の大隈重信、西郷従道らに請願、その結果、1932年まで30年間は旭川町が土地を保護することとなった
・30年後の近文「給与地」については、アイヌの荒井源次郎らの運動により、一戸につき1町歩、他の4町歩は和人に貸すことで決着
※近文事件の解決は、アイヌが言論により権利を勝ち取った初めての出来事であった
②大正デモクラシーとアイヌ民族の復権 
・知里幸恵『アイヌ神謡集』(1923年)では、カムイ・ユカを13編にまとめた。
アイヌ語(ローマ字)と日本語訳で書かれている。『アイヌ神謡集』は、「未開」というアイヌ文化のイメージを自然と共生する世界というイメージに転換させた。
・違星北斗(いぼしほくと)
詩人。アイヌ民族の自立を訴え、各地(日高山脈以西)を訪ね歩く。
・北海道アイヌ協会
十勝地方で、互助組合「十勝旭明社」(吉田菊太郎)が作られ、1931年に和人の喜多章明が中心となり、北海道アイヌ協会が作られた。
・バチュラーによる『全道アイヌ青年大会』(1930年)
4.「同化こそ幸せ」からの転換
①アジア・太平洋戦争敗戦後
・植民地を元の持ち主に返したが、アイヌには返されなかった
・日本国民は、単一民族という考えで、アイヌ民族はほろびゆく民族として結婚、就職、学校などで差別を受けた
②1970年代の転換
・1968年、「明治百年記念事業」が行われた。北海道100年(正確には99年)として、市町村も「開基」(この言葉は先住民の存在を無視しており、今は使われていない)○○年事業を行った
・太田竜らによる新左翼の運動の中でアイヌ解放論が起き、過激化した
1972年の北大文学部アイヌ資料ケース爆発、旭川風雪の群像爆破、1975年の道警本部内爆破、1976年の道庁爆破事件などが起きた。これらはいずれも和人によるもの。
・小池喜孝らによる民衆史掘り起こし運動
「開拓」の意味の問い直しや、「囚人」労働、タコ部屋労働、外国人強制労働などの問題が取り上げられた。
5.先住権を求めて
・世界の動き
1982年 エクアドルのコーボが国連先住民年の設定を呼びかけた。
1993年 国際先住民年設定
・日本の動き
1984年 道ウタリ協会がアイヌ新法の制定を求めた
1997年 アイヌ初の国会議員・萱野 茂らの運動でアイヌ文化振興法が制定された。また、二風谷ダム裁判では、アイヌが先住民族であることが認められた。
2007年 先住民族の権利に関する国連宣言が採択(日本も条件付きで)された
2008年 アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議を国会で採択、行政府である町村官房長官も認めた。
2019年 アイヌ施策推進法制定
◇最後に
先住民族の権利は、昔に比べると少しずつ状況は良くなってはいるが、まだまだ道半ばである。
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 以上が本日のお話の概要ですが、アイヌの近現代の状況が良く分かるお話でした。
 最後に、受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「アイヌ民族は和人によって大変な思いをさせられたことが良くわかりました。ウポポイに行ってもう一度勉強してきます」
「アイヌの歴史を古代から現代まで詳細に講演いただき、たいへん感銘を受けました」
「近現代のアイヌのしいたげられた歴史について、具体的で大変勉強になりました。今改めて私達和人がアイヌとの共存とは何か、考えてみたいと思います」
「アイヌ民族の復権(について)、近文事件とか先住民族の権利に関する国連宣言とか今まで知らないことが多くあった」
「立場が違えば歴史上起こったことの見方も変ってくる、との講師の意見、同感です。近現代のアイヌ、確かに大きな被害を受けたと思います。アイヌ人の基本的な考えは同感できることが多い」









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