いしかり市民カレッジ

トピックス

トップページ トピックス 主催講座3「石狩歴史散歩~石狩本町地区を巡る前編・後編~」 第2回「石狩本町地区を巡る(後編)」


トピックス

主催講座3「石狩歴史散歩~石狩本町地区を巡る前編・後編~」 第2回「石狩本町地区を巡る(後編)」

2024/05/28

 令和6年5月18日(土)主催講座3「石狩歴史散歩~石狩本町地区を巡る前編・後編~」の第2回「石狩本町地区を巡る(後編)」を行いました。講師は石狩市郷土研究会事務局次長の安田秀司さんで、受講者は28名でした。
今日は風もなく絶好のツアー日和。安田さんは今回も歴史的に貴重な画像を掲載した資料をもとに案内してくださいました。
以下、概要を紹介します。
24.5.18-1.jpg
《1》 本日の見学ルートマップ
◇日程
石狩市民図書館出発 9:00
⒈ 石狩八幡神社
⒉ やはた丸格納庫(車窓見学)
⒊ はまなすの丘公園ヴィジターセンター
⒋ はまなすの丘公園木道
⒌ 石狩灯台 
⒍ 鮭供養の碑跡(車窓見学)
⒎ 旧相原家建築(遠望)
⒏ 無辜の民ブロンズ像(旧石狩国際モビレージ跡)
⒐ 旧石狩画廊跡
⒑ 旧石狩海浜ホテル跡(海浜植物保護センター裏)
⒒ 運上屋跡(石狩医院跡地)
⒓ 弁天歴史公園内句碑4基
⒔ 鮭供養之碑
⒕ 太郎代天曝観音
⒖ 西国三十三箇所霊場
◇見学ルートマップ
24.5.18-2.jpg
《2》歴史散歩(後編)スタート
1,石狩八幡神社
24.5.18-3.jpg
1858(安政5)年箱館総社八幡宮神主の菊池重賢が、蝦夷地総鎮守として同八幡宮の末社を石狩に建立することを箱館奉行に願い出たのを始めとされるが、実際には石狩改革を押し進めた函館奉行石狩役所の調役、荒井金助がイシカリを蝦夷地の中心とする構想と連動し、函館奉行所側からの誘導とされる。1861(文久元)年、当時、石狩役所のあった右岸(八幡町)に仮勧請され、1863(文久3)年に藤枝正彦が造営方として派遣されたが、幕末の混乱などにより社殿の建設は進まなかった。
仮勧請のまま明治を迎え、1874(明治7)年、まちの中心が左岸に移ったため協議の上、弁天町の現在地に奉遷した。当時、この場所には石狩弁天社があったが、「弁天社は村山家の内神」ということで移されることとなった。背景に明治元年の神仏分離令、さらに明治4年の社格制度による国家神道による国民管理の思惑があり、明治8年石狩郡郷社となる。(八幡宮遷座時、この場所には稲荷社、鮫様社もあったとも言われる)1888年(明治21)年社殿新築。その後、修繕、補修を繰り返し、1983(昭和58年)本殿、拝殿改築。
◇八幡神社碑(写真、鳥居の左側に建つ碑)
昭和2年建立。元々は「石狩郡郷社八幡神社」と彫られていた。戦後、近代社格制度が廃止され「郡郷社」が埋められていた。
◇石狩八幡神社鳥居(高さ4.5m)
24.5.18-4.png
1813年に建立された兵庫県産の白御影で、大阪から村山家の持船で運ばれてきた鳥居。奉納者は栖原屋半助と米屋孫兵衛で共に石狩13場所のうち5場所をはじめ、蝦夷地各場所を請け負った豪商。
・鳥居の柱には「秋味」の文字が彫られている。もとは石狩弁天社の鳥居であったが、1874年、石狩八幡神社が弁天社地に移った際、そのまま残され、1920(大正9)年に石狩川口向きに建っていたものが、現在の南東向きにされ、鳥居の上部が八幡形式に改められた。

2,やはた丸格納庫
24.5.18-5.jpg
 やはた丸は待望の初の鉄船として昭和34年4月に就航。冬季間も氷を割って航行できるので、氷橋設営が不要となる。以来、昭和53年3月の渡船廃止まで旅客を運び続けた。歴史資料としての活用が期待される。

3,はまなすの丘公園
◇ヴィジターセンター
24.5.18-6.jpg
はまなすの丘公園の管理棟で、1992年オープン。特産品やハマナスの関連商品などを販売している。1階には、初代石狩灯台で使用されていたとされる「無等不動レンズ」や2代目の「6等閃光レンズ」が展示されている。2階は、2022年にリニューアルした公園内の草花や野鳥などの紹介パネルの他、毎月の観察写真展示なども行っている。テラスからは、石狩湾と石狩川、周囲の山並みを360度の大パノラマで展望できる(老朽化で危険と判断され見学当日から急遽立入禁止)。
24.5.18-7.jpg
安田さんは、ヴィジターセンター2階のテラスの使用禁止を受け、狭い通路で「はまなすの丘公園」について詳細に説明をされました。
〇安田さんが強調されたことは「石狩海岸の自然の驚くべき
ことは大都市に隣接しながら、砂浜、海岸砂丘、そして海岸林という、本来の海浜海岸の自然が大規模に存在すること」です。
◇はまなすの丘公園
24.5.18-8.png
〇日本でも希少な植生である海岸自然草原が広がり、赤白の石狩灯台がアクセントのここだけの景観。石狩川と日本海に挟まれた草原の先、遠く暑寒別連邦や樺戸山地の山並みを見渡す。厳しい環境に適応した海浜植物と草原生野鳥の宝庫。
〇長さ日本第3位(268㎞)の大河、石狩川の河口部に広がる46ha砂丘(砂嘴)は自然豊かな「海岸草原」。海岸草原は湿地,高山植物帯等と共に自然草原の一つ。環境省の定める「植生自然度」最高ランクの10。全国における「自然草原」の面積はわずか1%。そのうち「海岸草原」は0.1%に満たない極めて貴重な植生。
〇石狩灯台が1802(明治25)年初点灯したとき、河口は灯台の位置から200m先だった。現在はそこから1300mも伸びて、はまなすの丘と呼ばれる砂丘(砂嘴)ができた。
〇180種もの植物が自生し、たくさんの動物、鳥、昆虫などが生息。

4,木道一周
24.5.18-9.jpg
〇公園設置の背景
はまなすの丘公園は1991年、都市公園法に基づく都市緑地として設置。1970年代からの自動車の大衆化によるレジャー客の増加という社会的背景がある。
〇1973年石狩町自然保護条例施行。1978年石狩河口海浜植物等保護規則制定。公園内に「海浜植物等保護地区(16.5ha)を設定、監視員配置。
〇木道の設置
自然愛護団体の提言を受け、ありのままの自然の公園をめざす方向で検討。環境に配慮し、見やすさと歩きやすさを確保する木道を設け、1991年に公園が開設される。
〇公園全域での植物採取を禁止し、植物の保護と自然を快適に楽しみたい観光客の要求を両立させた。
24.5.18-10.jpg
・自生地として北限である絶滅危惧種イソスミレの5月開花を皮切りに、ここでしか見られない貴重な自然に出会える。
・当日は、白いハマハタザオの花が咲き揃っていた。
 
5-a,石狩灯台百年記念碑
24.5.18-11.jpg
1991(平成3)年10月10日、「石狩灯台設置百年記念」碑としてハマナスの丘公園開園と同時に建立。
〇この燈台は映画「喜びも悲しみも幾年月」(昭和32年10月一般公開)の舞台ともなる。この映画は、当時「総天然色映画」といわれていたカラー映画の走り。さらに、若山彰の歌う主題歌が大ヒット。撮影隊は昭和32年3月24日から28日まで石狩町に滞在し、石狩灯台付近でロケ。

5-b,石狩灯台
24.5.18-12.jpg
現存する北海道最古の燈台。130年以上もの間、石狩湾の安全を見つめてきた。
〇1892(明治25)年1月1日点灯、木造6角形 白黒塗装
・建てられた位置は岬(砂嘴)の突端から200m。
・現在では河口が灯台から1500m程の位置に変化。
・光源は石油、不動光で点滅、回転なし。職員2名管理。
〇1908(明治41)年 鉄造円形に改築 白一色
・明り取り窓設置 螺旋はしごの4階層 内装板張り
・25秒に1回閃光、水銀曹回転式レンズ 光源は石油
〇1927(昭和2)年 光源電灯化 水銀曹回転式レンズ
〇1957(昭和32)年 映画 白赤灯台
・映画がモノクロからカラー作品へと進化していた初期の頃で色彩効果を高めるため灯台の塗色を白赤横縞に変更。
・後に積雪時の識別が容易であると評価され、以来沿岸灯台に順次採用。
〇1965(昭和40)年 無人化
・機械制御 蓄電バッテリー 避雷用電源装置など装備
〇1975(昭和50)年 外装コンクリート補強
〇1998(平成10)年 灯台保全工事 鉄板付帯補強
24.5.18-13.jpg
・大規模な保全工事を行う。既存の燈台外装は厚み6mmの
鉄板だったが、さらに9mmの鉄板を付帯補強。
・高さ約2m増した基礎を造り北東方向15m程移動し現在地に設置。

6,鮭供養之碑跡
24.5.18-14.jpg
現在、弁天歴史公園内にある「鮭供養之碑」は上の写真にある様に、昭和43年砂丘草原の中にポツンと建てられていた。
2000年の弁天歴史公園開設に合わせて移設。慶長年間以来、イシカリにおける鮭の重要性は計り知れない。毎年、市長はじめ、まちの商工関係者が集い、供養が営まれる。

7,旧あいはら家建築
24.5.18-15.jpg
現在、マウニの丘カフェとして営業しているが、漁業家の相原家の加工場、その後改装して鮭料理店として親しまれた。
写真は昭和53年に前浜でサケの水揚げし、トラックで「あいはら」前に運んで即売会をする様子。料理店は数少ない漁家の建築で鮭鍋を楽しめることで好評だった。
24.5.18-16.jpg
2008年、かつての建築をそのまま残す形で2階が増築され、カフェオープン。2015年頃迄は一階でも鮭料理が出されていた。現在、一階は利用されていないが(コロナ前には民泊)、かつての建築はまだ当時の様子をとどめている。

8,無垢の民「石狩 開拓者慰霊碑」(旧国際モビレージ跡)
◇石狩-無辜の民
24.5.18-17.jpg
〇1970(昭和45)年 本郷新、シリーズ「無辜の民」15点を銀座の画廊に展示。
・無辜の民シリーズについて本郷は「風俗の描写でもなく、また、ある人種に限ったものでもなく、抑圧されている人間の典型を作った」と語っている。従って、「無辜の民―石狩」は北海道開拓において過酷な労働を強いられ、亡くなっていったすべての人に対しての「慰霊碑」と考えていたのである。
〇「無辜の民」設置までの経緯(詳しいは石狩百話99話)
・1978(昭和53)年
10月 本郷新「無辜の民」道に寄贈。石狩へ設置希望。 
12月 石狩町「道知事を通じて寄託の要請を受ける」
・1979(昭和54)年
4月 石狩町は計画文書を道に提出。補助金を待つ。
   町長選挙、佐々木昭三氏が当選。
7月 道からの補助金が出ないこととなる。
8月 「石狩町が台座費用を出し惜しむ」との新聞報道で本郷新、「無辜の民」の寄贈 を断る
・1980(昭和55)年
1月 前鈴木与三郎町長が収賄容疑で逮捕。
2月 本郷新、死去。3月、石狩佐々木町長が急死。
5月 町長選挙。寺内靖治氏が新町長に。
   夏、石狩ライオンズクラブで設置を決議。
12月、ブロンズ像設置期成会結成。募金活動展開。
・1981(昭和56)年
5月募金が予定額に達する。6月30日「無辜の民」除幕式。
11月3日、期成会より石狩町にブロンズ像を寄贈。
24.5.18-18.jpg
24.5.18-19.jpg
〇クイズ、足の裏にある「穴」は何のため?
◇国際モビレージ跡
・1967(昭和42)年、石狩海水浴場の北側、3haもの敷地に「石狩国際モビレージ」が開設された。
・全国3番目、北海道では初のオートキャンプ場。多数のバンガロー、貸しテント50、簡易プール設置。
・この年の海水浴場来場者103万人に達し賑わう。しかし、利用者は徐々に減少、1986(昭和61)年閉鎖。
24.5.18-20.jpg
9,旧石狩画廊跡
24.5.18-21.jpg
 石狩町時代には石狩の重要な観光ポイントだった「石狩画廊」は、石狩浜をこよなく愛した画家、渋井一夫氏のギャラリー兼アトリエ兼住居だった。石狩浜の自然保護活動や観光ポスターを制作して寄贈するなど、地元への多大な貢献をした。海をテーマとした絵画に詩を添えた独特のスタイルで制作を続け、札幌での個展開催、詩画集、写真集、エッセイ集などの著書も多数。1996年、アトリエで死亡しているところを発見された。残された絵画335点などは石狩市に寄贈。

10,旧石狩海浜ホテル跡
石狩海浜ホテルは、北海道の建築家の先駆けである田上義也のホテル建築の集大成と位置づけられながら、空襲でホテルとして一度も利用されないまま焼失した幻の建築だった。
・2016年に石狩浜海浜植物保護センター敷地内で浴槽の一部が発見され、その存在が確認された。
・田上は近代建築の世界三大巨匠の一人とされるフランク・ロイド・ライトの直弟子であり、このホテルにもその影響が色濃く反映されている。
・田上は本郷新と親友であり、本郷の遺作の扱いを託されて財団を設立し、理事長を生涯務めた。
24.5.18-22.jpg
24.5.18-23.jpg
11,運上屋跡
慶長年間(1596~1614年)石狩河口は、厚田、増毛などとともに松前藩によってアイヌ民族と交易する地点(場所)に指定され、その後、流域の12の場所を加えた石狩十三場所の中心地となる。元小屋は、他では運上屋といわれるが石狩では古くからこう呼ばれていた。
・幕末1856年の松浦武四郎の記録では「梁八間半、桁二十七間半(約50m)」で、その前には二層の遠見のヤグラもあった。
・当時この付近から石狩川岸にかけて 、勤番所(箱館奉行所出先)や武器蔵など四十五棟のほか民家も多数あり、大いににぎわっていた。明治9年の大火で焼失するまで、この場所には蝦夷地最大と言われる元小屋が建っていた。(その後、大正11年に石狩医院が建ち、2000年に公園となった。)
24.5.18-24.jpg
この建物は運上屋をイメージして造られた公園管理棟とトイレと屋根付き休憩広場の多機能建築物。下見板張りの壁と1700個もの石を置いた屋根、煙出し風のヤグラがアクセント。

12,弁天歴史公園内句碑4基
A,井上弁蔵の句碑
明治17年秩父蜂起の井上伝蔵(欠席裁判で死刑判決。石狩では伊藤房次郎を名乗り20年以上潜伏)が明治三十五年に詠む。石狩尚古社の会員。俳号は柳蛙(りゅうあ)。2002年石狩市建立。
24.5.18-25.jpg
B,有馬朗人句碑
東京大学総長、文部大臣、参議院議員などを歴任。世界的物理学者。国際俳句交流会会長。俳句雑誌「天為」主宰。石狩浜をこよなく愛した。「天為」北海道支部が2003年に建立。
24.5.18-26.jpg
C,高浜年尾句碑
高浜虚子の長男で、俳句雑誌「ホトトギス」主宰を継ぐ。名付け親は正岡子規。小樽商科大に学び、石狩を気に入りしばしば訪れる。札幌ホトトギス会が2005年に建立。
24.5.18-27.jpg
D,嶋田一歩・摩耶子句碑
嶋田一歩氏は札幌ホトトギス会の会長も務めた。石狩は恩師である高浜年尾から吟行をすすめられた場所。摩耶子夫人もホトトギス同人で道新俳壇選者。札幌ホトトギス会が2007年に建立。
24.5.18-28.jpg
13,鮭供養之碑
2000(平成12)年に、はまなすの丘公園ヴィジターセンター横から弁天歴史公園に移設された。毎年、石狩さけま
つりはここでの「鮭供養祭」からスタートする。
24.5.18-29.jpg
14,太郎代天曝観音(たろうだいあまざらしかんのん)

15,西国三十三箇所霊場
戦前、石狩浜のサケ漁業と北洋漁業で活躍した吉田庄助氏が、故郷の太郎代浜(新潟)から霊験あらたかということで、昭和十年、太郎代天曝観音の御分身を迎えた。
・また、新潟の太郎代観音の傍らに三十三体観音があったことから、石狩にも同十一年、本町地区の浄財によって西国三十三箇所霊場が建てられた。敷地内にある御堂には、木彫りの本尊太郎代観音が安置されている。
・なお、「天曝し」というのは太郎代村に観音像を迎えたものの、倒れたり位置を変えたりするので、お堂を建ててみたが、屋根が飛んだ。結局、天曝しにすると落ち着いたということだそうです。
・西国三十三箇所霊場巡礼は1300年以上の歴史がある日本で最古の巡礼。京都、和歌山など2府5県、約千kmの行程でお寺を巡るのを、狭い敷地に設置した33体の観音像をお参りすることで功徳を得る。
24.5.18-30.jpg
◇西国三十三箇所霊場
24.5.18-31.jpg
〇安田さんは、西国三十三箇所霊場と観音像について詳細な資料をもとに説明してくださいました(詳細割愛)。
・西国三十三箇所霊場は、もともと和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と2府5県にまたがる三十三ケ所の観音信仰の霊場の総称。 
・西国三十三箇所霊場の「写し霊場」として全国に数えきれないほど設置されている。
・本家の三十三ケ所霊場は1番から33番まで7種類の観音像が祀られている。如意輪観音、十一面観音、千手観音、聖観音、不空羅索観音、馬頭観音、准胝観音。
・「写し霊場」では、本家の観音像に合わせて、例えば1番は青岸渡寺の如意輪観音、2番は紀三井寺の十一面観音というように設置されている。
〇最後に安田さんから受講者全員に課題
「石狩の観音像1番から33番まで資料の写真とイラストを見ながら実際の観音像と照合する。そして、いくつかある間違い(本家と合致しない観音さま)を自分で確認すること」
・みなさん真剣な眼差しで33体の観音像と向き合い、違いをみつけようと懸命でした。
・終りに安田さんから解答発表。さて合致しないのは、、。
24.5.18-32.jpg
最後に、太郎代雨曝観音にお参りをして本日の講座を終了しました。2週にわたって安田さんと共に本町地区を巡って学んだことは、その時々に人々が生きた痕跡を残すこと、受け継ぎ伝えることの大切さです。時代とともに遠くなるのではなく、発掘し知ることで歴史が生き生きと蘇るのだと感じました。講師の安田様、受講者の皆さまお疲れさまでした。
 
◇受講者の感想を要約紹介します。
「素晴らしい資料 素晴らしい解説 感動‼ お見事‼ 充実したコース さすが安田さん 立派!ありがとうございました。多くの人に聞いてもらいたいと思います」 「住んで約30年になりますが、新たな発見と学びをいただきました。2週にわたり安田講師、スタッフの皆さま、お世話いただきありがとうございました」 「天気にも恵まれ、くわしい資料で楽しく歴史散歩ができました」 「大変充実した内容でした。来年も楽しみです。石狩がこんなにも歴史があると思いませんでした」 「石狩本町には、歴史的資源があり楽しかった。ガイドが素晴らしかった。観音様のチェックはアイディアがすばらしい」 「来年の「こうそう」を聞き楽しみにしています」




CONTENTS コンテンツ

カレッジ生募集中

ボランティアスタッフ募集中 詳細はこちらから

いしかり市民カレッジ事務局

〒061-3217
石狩市花川北7条1丁目26
石狩市民図書館内社会教育課
Tel/Fax
0133-74-2249
E-mail
manabee@city.ishikari.hokkaido.jp

ページの先頭へ

ご意見・お問い合わせプライバシーポリシーサイトマップ