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主催講座2「アイヌの歴史」第2回「アイヌの三大決起」

2024/05/22

 5月14日(火)、主催講座2「アイヌの歴史」の第2回「アイヌの三大決起」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、アイヌ史研究家の平山裕人さん、受講者は46名でした。
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 今回はアイヌの三大決起(コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)についてのお話でしたが、平山さんは一つの民族史としてのアイヌ史を構築したいと考え、学生時代には卒業論文のテーマに「シャクシャインの戦い」を選ばれたそうです。
 以下は、講座の概要です。
1.コシャマインの戦い(1457年)
◇津軽安藤氏
1189年、源頼朝の奥州遠征で東北地方が初めて全国政権に組み込まれた。
1205年、北条氏の代官として安藤氏が派遣される。拠点は、十三湊(とさみなと)。役割は、アイヌと和人の交易の中継を行う事であった。
◇北海道の事を初めて詳しく紹介した書「諏訪大明神絵詞」
・1356年の記述
津軽に交易に来た北方の民は、渡党、唐子、日ノ本の3種の人たちだった。
渡党は、宇曽利鶴子(ウソリケシ、箱館)や万堂宇満伊犬(まとうまいぬ、松前)の人たち。 唐子は、中国からの到来物を持ち込んだ人たち、日ノ本は東方の人たちでラッコの毛皮などを持ち込んだと思われる。
◇和人の侵攻
この頃和人は、余市、鵡川辺りまで侵攻してアイヌと共存していた。
この時代の代表的な遺跡は、日本海側では余市大川遺跡があり、陶器などが出土、津軽安藤氏の影響がある。太平洋側では厚真町の遺跡があり、京風の物が出土、奥州藤原氏の影響が見られる。
・『庭訓往来』(江戸時代の寺子屋の教科書)の1350年頃についての記述
エゾサケ、ウカ(函館周辺)コンブの記述があるが、おそらく渡党により持ち込まれた物と思われる。
◇津軽安藤氏の滅亡
・1423年、安藤陸奥守が室町幕府・五代将軍足利義量(よしかず)にコンブ、ラッコ皮を献納
・1432年、南部氏の攻撃を受け、安藤氏は北海道へ逃亡。この頃、道南12館を設置。中心は大館(松前安藤氏)。先述したように、ヨイチ~ムカワには渡党が住む
・1442年、安藤氏、北海道から逃亡
・1453年、津軽安藤氏滅亡。分家の松前安藤氏が渡島半島の和人勢力の中心になる。他に秋田安藤氏があった
◇コシャマインの戦い
津軽安藤氏の滅亡により、道南地域に政治的空白が生じて、コシャマインの戦いが勃発。
・戦いのきっかけ
1456年、シノリ(函館)の少年アイヌが和人の鍛冶屋でマキリ(小刀)の切れ味、価格の事で言い争いになり、殺されたことがきっかけ。
・1457年、シノリから戦いが始まり、道南12館のうち、茂別、花沢(上ノ国)以外の10館が陥落
・花沢館主・蠣崎季繁(すえしげ)の客将・武田信広がコシャマイン父子を討つ
・蠣崎氏系図
武田信広が蠣崎季繁の娘婿となる。
武田(蠣崎)信広(源義家の弟・新羅三郎の末裔と称した)⇒光広⇒義広⇒季広⇒慶広(松前氏となる)。
◇松前安藤氏の滅亡
・1496年、蠣崎光広が松前安藤氏の家来・相原氏と図って松前安藤氏を滅ぼす
・1512年、蠣崎光広、東部(ウスケシ方面か)アイヌ勢力をけしかけ相原氏を滅ぼす
・ショヤコウジ兄弟の戦い
1515年、光広、大館(松前)に入り、ショヤコウジ兄弟をだまし討ちにする。ヨイチ~ムカワまであった和人地が、松前、上ノ国だけになった(和人の勢力が後退した)。
・セタナイアイヌの戦い
1529年、蠣崎義広、セタナイ(?)アイヌのタナサカシをだまし討ちにする。
1536年、義広、タナサカシの娘婿・タリコナをだまし討ちにする。
・講和が結ばれる
1550年(あるいは1551年とも)、蠣崎季広、セタナイアイヌ・シリウチアイヌと和睦(夷狄商舶往還の法度、和人とアイヌが結んだ唯一ともいえる対等な和平条約)。
2.シャクシャインの戦い(1669年)
(1)時代背景
・1590年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして全国統一
・蠣崎慶広、秀吉より朱印状を授かる
津軽海峡以南から来る人々の交易の管理を任される。
・1599年、蠣崎氏、松前姓に改名
・1603年、徳川家康、征夷大将軍になる
・1604年、松前氏、家康から黒印状を授かる
これにより松前城下交易体制となり、統一政権下での松前氏となる。
(2)和人が北海道に侵入
・商場知行制
米のとれない松前藩で、上級家臣に対して特定の地域におけるアイヌとの交易権を知行として与える制度。その地域を○○場所と称した。これにより、北海道アイヌは徐々に交易相手を自由に選べなくなっていった。
・和人のアイヌ生活圏への侵入
ゴールドラッシュ(砂金堀、日高一帯、トカチ、シママキ、ユウバリ)や鷹待ち(イシカリ、トカチ)などでアイヌの生活圏へ侵入した。
・商場交易の交換率の変更
当初、米30㎏に対して干(カラ)サケ100匹だったものが、後には米10㎏に対して干サケ100匹とされた。
(3)シャクシャインの呼びかけ
1669年、シブチャリ(新ひだか町静内)の首長シャクシャインがアイヌの決起を呼びかけた。呼びかけの内容は、誰とでもどこに行こうとも自由に交易が出来ること。
・6~7月に各地で蜂起
太平洋側―シラオイ、シコツ、ミツイシ、ホロベツ、ホロイズミ、トカチ、オンベツ、シラヌカ。
日本海側―オタスツ、イソヤ、シリフカ、フルビラ、ヨイチ、シクツシ、マシケ。
・シブチャリ勢、松前めがけて遠征(7月末~8月)
松前軍は、クンヌイ(長万部町)に布陣、火縄銃(松前藩)対毒矢(アイヌ勢)で戦われた。
松前藩は、幕府にアイヌ蜂起を報告し、東北諸藩の援助があったので、これは、江戸幕府対アイヌの戦いとも言える。
・シャクシャインらの死
10月23日、松前軍は、シャクシャインらをヒボク(新冠)に呼び出し、和睦とみせかけてだまし討ちにする。松前城にはアイヌの耳塚がある。
(4)シャクシャインのだまし討ちの後の情勢
①ウラカワアイヌの抵抗
②シャクシャインの戦いに参加しなかった、クスリ(釧路)、アッケシ、ノサップ(根室)のアイヌ479人がシラオイへ集結。対する松前勢350人⇒結果、アッケシ、後にキイタップが中継ぎ交易の場となる。
③日本海岸のアイヌ(テシオ、ヨイチ、ソウヤ、ルイシン)は、オショロに集結して、松前藩とチャランケ(話し合い)を行った。⇒松前での城下交易を再開(ウイマム)。なお、イワナイのみ、抵抗を主張した。
④イシカリのハウカセ(ウラウスか)
松前は相手にせず、津軽と交易する意向を示す。イシカリ河口に300の小屋、鉄砲40~50丁を用意し、戦闘の構え。
⇒1672年6月、ハウカセなど日本海岸のアイヌ200人が松前に押し掛け、力を見せつける。
(6)戦いの結果
和人の侵入を止め、アイヌモシリの独立を守ることになった。
・砂金堀は、ハボロのみ
・鷹待ちは、存在しない
・商場交易は、1年の一定時期のみで、城下町交易(ウイマム)が再開
3.クナシリ・メナシの戦い
(1)ロシアの東進
①ロシアは、毛皮を求めて東進
モンゴル帝国に押さえられていたロシアは、モンゴル帝国の力が弱まると、毛皮を求めて東へ進出し始めた。
・1587年にオビ川のトボルスクに達した後、東進を続けた
・1638年、オホーツクへ
・1643年、ロシアのヴァシーリー・ボヤルコフは、アムール川河口で越冬し、ニブフと会う
・1649年、ロシア・ハバーロフがアムール川流域の集落を襲撃し、ニブフは抵抗した
・1630~80年代、ロシアと清王朝が小競り合い
・1658年、ロシア、アムール川沿いにネルチンスク城、さらにアルバジン城を築く。ロシアと清の戦いとなり、清が勝った(ロシアはピョートル大帝、清は康熙帝の代)。
・1689年、ネルチンスク条約締結
清の力が、アムール川一帯及びサハリンにも及ぶ。清の勢力により南下できなくなったロシアは北のカムチャツカに向かった。
・1697年、ロシア・アトラーソフがカムチャツカアイヌに毛皮税を要求。アイヌが拒否すると、50人ほどが殺害される
・1711年、ロシアが千島列島の最北・シュムシュ島、パラムシル島へ侵攻
・1713年、シムシュ島、パラムシル島の千島アイヌが抵抗戦を行う。北千島のアイヌが、中千島へ移動。それを追い、ロシアが中千島に侵出
・1766年、ロシア商人・ラストチキン、ウルップ島に南下し、毛皮税を徴収
・1768年、ロシア商人・チェルニイ、エトロフ島に侵出。恐怖政治を行う
※エトロフ島に最初に侵出したのは、日本ではなくロシア。ただしそれは、アイヌを締めあげる恐怖政治だった。
・1770年、ラッコ、アザラシ、トド猟でウルップ島に行ったエトロフアイヌが、ロシアに襲撃され、二人の首長が殺害された
・1771年、ラショワ島とエトロフ島のアイヌが、ウルップ島のロシア人を襲撃、さらに中千島まで侵攻して、マカンルル島のロシア人も襲撃。南千島のアイヌとロシアは、ウルップ島で交易することで決着した
※ロシアの侵出をエトロフ島以北で止めたのは、南千島のアイヌであった。
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(2)和人の東侵
18世紀前半、キイタップ、アッケシ、クスリのアイヌは、松前藩の要求を無視できるほど独立した勢力を持っていた。
・1737年、キイタップに商船を送ることが出来なかった
・1758年、ノサップ首長シクフがソウヤアイヌを襲撃。クナシリ・エトロフのアイヌと松前藩が仲介した
・18世紀後半、松前藩の財政がひっ迫して、有力場所請負人・飛騨屋久兵衛(もともとは木材商人)から莫大な借金をした
・1769年、飛騨屋に、エモト(室蘭)、アッケシ、キイタップ、クナシリ場所を請け負わせた
・1774年、飛騨屋がクナシリ場所で漁業経営を始めようとするが、クナシリ首長ツキノエは拒否
※クナシリ・メナシアイヌの立場
クナシリ・メナシのアイヌは、ロシアの侵出により、カムチャツカ、北千島と交易が難しくなり、困窮していった。
・1779年、ツキノエがロシア商人を引き合わし、日ロ交易の橋渡しをしようとしたが、松前藩は拒否。
・1782年、クナシリアイヌは、飛騨屋を受け入れるという苦渋の選択をした
・飛騨屋はアイヌに対して、釜に入れて絞め殺すと脅したり、毒殺したり、和人の番人がアイヌ女性と通じたり、給料を安くしたりと、もはや交易の相手としてではなく労働力として酷使した
・1785年、幕府は、千島列島やサハリンへの探検隊を派遣。探検隊が、アッケシ、キイタップっを訪れた時、アッケシのイトコイとノッカマップのションコが農耕を教えて欲しいと訴えた
◇1789年 クナシリ・メナシの戦い勃発
長老の不在時に、若い世代がクナシリ・メナシ地域の和人労働者を一斉に襲って殺害した。松前藩は、長老たちに命じて戦いの首謀者を殺させた。12人の長老たちは、その功により、蠣崎波響による画「夷酋列像」として残されている(但し、波響は、12人のうち5人にしか会っていないと言われる)。
・ロシアの南下に対しての日本の動き
工藤平助「赤蝦夷風説考」(1783年)や「蝦夷地一件」(1785年)などがあり、アイヌモシを日本の一部にして、アイヌ民族を日本の民にすることを主張している。
 以上が第2回の講座内容ですが、3つの戦いともに、アイヌが止むに止まれぬ事情から立ち上がった状況が良く分かりました。また、シャクシャインの戦いでは、敗れはしたものの、アイヌの独立を守る一面があったことも理解することが出来ました。
 最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「アイヌの戦いは、以前から知っていたが、今回初めて詳しく知ることができた。ひとつの戦いについても一冊の本になるほど詳しいく調べられていて、講師の努力に感心しました」
「アイヌの三大決起を詳しく説明して頂いたので、理解できました。それにしても和人は、アイヌを何度もだましてひどい民族ですね。つい先日、日本人の6割は東北アイヌで他に大陸から来た大和民族と沖縄の琉球人という事が判ったと新聞に載っていましたが、そのお話も聞けたらうれしいです」
「学校教育やマスメディアでは知り得なかった歴史の重みを知りました。社会教育の役割でもありますね」
「大変興味深く拝聴いたしました。ありがとうございました」







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