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主催講座3「石狩歴史散歩~石狩本町地区を巡る前編・後編~」第1回「石狩本町地区を巡る(前編)」

2024/05/25


令和6年5月11日(土)主催講座3「石狩歴史散歩~石狩本町地区を巡る前編・後編~」の第1回「石狩本町地区を巡る(前編)」を行いました。講師は石狩郷土史研究会事務局次長の安田秀司さんで、受講者は32名でした。
講師の安田さんは「いしかりガイドボランティアの会」代表も務められており、今日の講座のために貴重なカラー映像を掲載した20ページにおよぶ資料を提供してくださいました。現地に立ち、歴史の今昔を脳裏に復元できるだろう期待感を抱かせてくれます。以下、本日の歴史散歩概要を紹介します。
《1》 本日の見学ルートマップ
 9:00 市民図書館をバスで出発⇨観光センター着9:15
見学ルートマップ朱書きの、1、旧石狩町役場跡~17、楽山居までを順路に従って巡り、12:30図書館帰着予定。
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《2》車中での解説から
石狩歴史散歩の基本は本町地区であり、見どころ学びどころがいっぱいある。
・国道231号のルート変更について
現市役所から真っ直ぐ本町地区まで行き、石狩川を渡舟で対岸に渡っていたが1972年河口橋の一部完成によって切替。
・本町地区は石狩発祥の地
北海道において歴史が深いエリアであったと言われている。
和人が入って400年ぐらいたっている。松前藩にとって重要な場所であった。それはなぜか。
・松前藩は唯一米が採れない藩であった。アイヌの方々との交易によって特産品を手に入れ、それを商人によって財を得て石高になっていた。
・アイヌとの交易が重要であり、その最重要地点が石狩であり、石狩川の鮭であった。
・歴史的建造物があまり残っていないので、昔の写真を使って知り、現地で昔の様子を想像してもらう。
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《3》石狩歴史散歩スタート
9時10分、石狩観光センター着。好天なるも風強い中でのスタートとなった。安田さんは、見学ルートマップ順に移動し、探索マップで現在地を照合確認しながら案内される。
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1. 旧石狩町役場跡(現石狩観光センター)
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2,開拓使石狩罐詰所跡
・敷地があった場所の位置関係
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・1877(M10)年開拓使が北海道の産業振興のために設置した我が国最初の缶詰工場。このため石狩市は西洋式缶詰発祥の地と知られている。缶詰工場が設けられた場所はこの付近で、工場、氷室など10棟あまりの建物が建てられた。
・10月10日は、石狩罐詰所の操業が開始された日で、日本缶詰協会ではこの日を「缶詰の日」にしている。
・明治9年にクラーク博士が視察に訪れて7缶試作している。
・明治20年官営から民間に払下げられ明治45年まで存続した。
・開拓使が設置した五つの缶詰所
1石狩 2美々 3別海 4厚岸 5択捉島紗那
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2-a 水害と堤防
・なぜ、この堤防が必要だったのか
昭和37年、昭和50年と、水害が連続してあった。
人々の命を守るために堤防が必要であった。
・昭和51年頃から築堤のための立退きで100戸ぐらい減少し、八幡町側はもっと影響があり、併せて数百人の人口が減少。
・堤防は石狩灯台脇まで続いている
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*写真の赤い矢印は、両岸の石油送油塔が写っている。
・戦後最悪といわれる昭和56年の水害建設途中の石狩放水路を緊急放水した。
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・石狩送油塔
石狩油田(高岡の奥、全道最大規模)から現在の手稲区役所のところの製油所までパイプラインで送った。右岸と左岸の両岸にあった(S50年頃まで残っていた)。

2-b 石狩河口鮭漁の図
今私たちが立っているこの場所から見た貴重な絵と写真である。
〇栗田鉄馬作~北海道開拓使の画工)大規模な地引網漁
明治15年は最も鮭が獲れた時期で、大規模な地引網が行われたときの絵である。
・対岸の樺戸三山の山並みが描かれている
・大規模な地引網漁の4つのプロセスを表現した民俗学的に価値のある絵である。
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〇明治5年の写真
・手前の船は、開拓使が英国から購入した最新鋭の蒸気船「辛未丸(しんびまる)97t」※明治4年は六十干支で辛未(かのとひつじ)にあたる。
・河口には長い帆柱の中型北前船(弁戝船)がたくさん係留。河口の水深が浅いため大型の千石船は入れなかった。
・対岸の建物は石狩役所(幕府函館奉行所石狩役所から明治政府開拓使石狩役所へ)である。

3. 船着場
昔は石狩港と言われていた。江戸時代は木材の積出港として利用されていた。明治17年~昭和10年まで外輪船の定期航路(石狩~樺戸間)があった。道路ができる前は水運が中心。
鮭が獲れなくなった一時期、北洋漁業にのりだした。
〇石狩川内水面漁業
「ワカサギ漁~小さい定置網を仕掛ける。4角に錨をつけて沈めて固定する。最盛期は5月。
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〇快風丸について
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快風丸には天文に詳しい崎山市内を船長に65人の水夫が乗り込み、3年分の食料を摘んで2月に伊那港を出港。松前で松前藩から準商船の扱いで許可を得る。石狩河口に6/21に到着40日間停泊。アイヌが延べ940人集まる。3分の2が女。熊皮、干鮭、船で塩引きした鮭1万匹、ラッコ、トドの皮などを持ち帰る。

4. 渡船場跡
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石狩川河口渡船場は幕末以前から運航されていた石狩川最古の渡船場。石狩川の最下流に位置し、日本海沿岸を結ぶ道路の一部として多くの人が利用した。昭和30(1955)年には国道231号の一部として国営となった。馬や荷車はいかだに載せて運び、自動車の普及に伴い昭和30年代後半からカーフェリーが導入された。昭和47(1972)年、両岸を結ぶ石狩河口橋が供用され、昭和53(1978)年3月31日をもって100年以上にわたる石狩川渡船場の歴史の幕が閉じられた。
〇氷橋 
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〇木造廃線置場
昭和40年頃から木造船が並び荒涼とした景色は画家や写真家に愛されたが、安全上の配慮から1998年撤去された。
〇あの石垣はなに?
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トレイス合同会社が伝統的土木事業の継承を目的に「穴太衆積石垣」の技術講習会を行っている、その作品。

5. 旧金谷商店石蔵
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桐の家紋が上部に刻まれた木骨石造の蔵。かつて金谷家の菓子工場の倉庫(工場は裏にあった)。明治25年秋田から来た金谷長之助は明治28年から菓子製造を開始。石蔵は明治中期に秋田の大工によって建造。菓子製造業の終了後、蔵を取り囲む形で建物が増築され、柳食堂の一部として利用されていた。南面上部にあるアーチ形の口部が特徴的。現在の所有者はラーメンチェーンの「さんぱち」
木骨石造:内側に木組みがあってその周りに軟石を組みあげる。

6,旧林醸造所雑穀レンガ倉庫
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現在は所有者が倉庫として利用されているが、もともとは味噌醤油などの原料貯蔵のための雑穀蔵。1912(大正元)年建造。基礎に軟石を用いた木骨レンガ造り。林家は扇長という商号で明治30年代から昭和20年代まで三代に渡って味噌醤油を製造。蔵の北側に母屋と工場があったが、昭和52年までに取り壊された。北西の強風を避けるため南東方向にのみ開口部がある。
〇中島家前から親船通りを南方に見る
1978年、まだ渡船の機能がある時の写真。角のたばこ屋が中島商店。奥に煙突が見えるところが土蔵。
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    右写真、左側角地が旧中島家跡。正面が渡船場方向

7. 旧中島商店の土蔵跡
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1978年の写真の右角に「厚田⇨」の標識が見える。渡船場方向を示している。ここに土蔵があって、貴重な資料が貯蔵されていた。明治の初めに佐渡から渡道した中島伍作が明治10年代に建てた。呉服、荒物業を営む。商店の間口は10間(約18m)。土蔵は間口4間(約7m)奥行き5間。明治の中頃迄は鮭漁の最盛期で、ヤン衆2000人、貸座敷30軒、酌婦200人とも言われ、呉服も大いに売れた。土蔵は外壁保護のため板張りで「鞘構造」という。この土蔵に収められていた俳句を中心とする膨大な資料を展示したのが尚古社資料館。道沿いに置かれた軟石はかつての土蔵の土台だった。

8. 旧長野商店跡と旧三上馬橇待合所(八幡運輸)
〇旧長野商店跡 (4Pの古地図では細野秀一と表示)
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〇旧三上馬橇待合所(4Pの古地図では、まるとも三上新造)
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9. 旧中島家分家跡と今泉旅館跡
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10. 佐藤水産魚醬工場(佐藤水産発祥の地)
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戦後間もない1948(昭和23)年、佐藤三男によりマルダイ佐藤商店として創業。場所は石材で囲ってある花壇の位置を道路側に移動したところ。昭和29年より秋鮭の水産加工に着手。翌年五番館デパートとの鮭卸契約を結び、さらに昭和34年五番館デパートに直売部を開設。五番館の急成長のきっかけは「新巻は五番館」と言われるほど新巻鮭の販売に強かったことで、それを支えたのが佐藤水産だった。五番館と佐藤水産は共栄関係で成長していった。五番館は昭和57年に西武百貨店と業務提携し、五番館の名前は消滅した(平成16年西武閉店)。
2001(平成13)年に完成したサーモンファクトリーの外壁は、かつての五番館の赤レンガを模して作られ、五番館広場と名付けられている。
 鮭醤油は「鮭に感謝し、一匹あますところなく使い切る」という創業者の思いから開発され、それまで廃棄されていた鮭の内臓、白子などを活用して製造されている。発酵学の権威である東京農大小泉武夫名誉教授の全面的な指導のもと2008年完成した。なお、佐藤三男の妻は網元吉田庄助の長女であることから、太郎代天曝観音の周辺整備は吉田家と佐藤水産関係者で行われている。
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    佐藤商店があった場所。向かい側に中島家分家、今泉旅館があった。

11. 旧本庄鉄工所跡
何の変哲もない空き地だが、1897(明治30)年建築の鉄工所があった。開拓地における典型的な鍛冶屋物件ということで、建物は1985年に北海道開拓の村へ移築され、活用されている。寄贈者の本庄一雄氏は移築後も実演などを行い寄与された。
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12. 旧村田商店跡
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13. 旧石狩小学校円形校舎
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〇遠景を眺めながら説明
・1956(昭和31)年竣工。道内初の円形校舎である岩見沢北村中央小学校から約一ヶ月遅れて道内二番目の円形校舎。
・現在北村中央小学校は解体されているので、現存する円形校舎としては道内最古。
・円形校舎は昭和30年代にブームとなり全国で約100棟建設された。建設コストが経済的で、背後からの採光が理想的とのメリットがある一方、机の配置が難しい、増築が困難などの難点から廃れた。
・道内で残っているのは美唄市旧沼東小学校、幌加内町旧朱鞠内小学校、室蘭市旧絵鞆小学校、小樽市旧石山中学校、函館市旧古部小学校、旧石狩小学校の6件である。
〇石狩小学校の歴史
・明治6年「公立石狩教育所」が弁天町の民家に開設。明治11年新築。明治12年公立石狩小学校と改称。以来、2020年3月閉校まで147年間教育の灯をともす。
・その後、八幡小学校に統合され、2020年4月から「石狩八幡小学校」となり、現在の児童数91名。
・旧石狩小学校円形校舎は、1週間前までの予約により一般開放している(いしかり砂丘の丘資料館で受付)。

14. 旧石狩中学校跡(開校33周年碑)
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校舎があった場所は、現在、番屋の湯の建物、駐車場がある一帯。赤い矢印の道路わきに記念碑が建っている。
・下の航空写真は開校33周年を記念して生徒が作った人文字を撮ったもの(閉校は1980年3月)。
・写真には、砂丘の風資料館から弁天歴史通りの道がない。
番屋の湯ができたのは1995年、ホテル番屋の宿ができた際、1998年に道路も作られた。
〇開校33年碑(裏面の碑文)
昭和22年5月1日この地に開校以来三十三年、2554名の逸材が巣立っていった。近代的町造りが始まり、石狩町百年の大計から石狩・生振・高岡の三中学校が統合し新しい石狩中学校として再出発するためこの地を去る。
昭和33年3月25日
石狩中学校閉校事業協賛会
教育長 霜触重雄書
*印1980年この地にあった石狩中学校は閉校し、場所を変えて生振・高岡中学校と統合して、新築された校舎で1980年4月から新たな「石狩中学校」としてスタートした。

15. 旧長野商店
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この建物は先程確認したように親船通りに面してあった。移築して化粧直しをしたもの。昔の建物がきちんと残っている唯一のもので、石狩市の指定文化財となっている。
石狩市弁天町にある、市内最古の木骨石造建築物。店舗が建築されたのは1894年(明治27年)だが、石蔵は、アーチ窓の意匠や軟石の目地の施工法が、1877年(明治10年)建築の
水原寅蔵商店の石蔵(札幌市・現存せず)と酷似しているため、その建築時期は明治10年代に遡る可能性が高いと考えられている。店舗と石蔵には、長さ約81cm×高さ約30cm×厚さ約17cmの軟石が920個あまり使用されている。木造の骨組みの外側に軟石を積む木骨石造の工法が用いられている点や、伝統的な日本家屋によく見られる瓦屋根やうだつ(卯建)に、アーチ窓などの洋風意匠をあわせもつ、和洋折衷のデザインが特徴。また、店舗、蔵ともに耐火性の高い木骨石造で建てられていることは、珍しい例とされている。
長野商店は、越後荒井浜(新潟県聖籠町)出身の長野徳太郎が、1874年(明治7年)に創業した。米、味噌、醤油、塩、砂糖、呉服、反物のほか、酒造業も営んでおり、当時の石狩町を代表する商家のひとつ。1955年(昭和30年)に閉店した後、1988年(昭和63年)、建物が石狩町に寄贈され、1994年(平成6年)に、石狩町の文化財の指定を受けた。元は親船町7番地にあったが、道道拡幅のため、2007年(平成19年)に、現在地に移築復元された。

16. 石狩弁天社(石狩市指定文化財第1号:昭和22年)
【金属説明板の解説文より】
この神社は元禄7(1694)年、松前藩秋味上乗役の山下伴右衛門の願いによって松前の神明社より御神体を迎え、建てられました。目的は石狩場所に主産物、鮭の大量と石狩に出入りする船の安全を祈るためです。中心となる神さまは弁財天(弁天様)です。弁天社は石狩場所に関係した役人や場所請負人によって信仰され、とくに村山家では守り神として大切にされました。主神人のほか、稲荷大明神をはじめ、多くの神様が祀られていますが、石狩川の主であるチョウザメと亀を神にした、「妙亀法鮫大明神」は鮭漁の神様として今も信仰されています。建物の内外には本州から運ばれ奉納された御神燈、絵馬などが残り、蝦夷地第一の生産を誇った石狩場所の繁栄を示しています。
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・弁天社の特徴は神様が多いことで、内陣に7神が祀られている。普段は厨子に収められていて実物を見ることは出来ない。
・左から、恵比寿様(1839年奉納)、稲荷像(1844年奉納)、毘沙門天(1849年村山家奉納)、弁財天(1816年村山家奉納)、大黒天(1849年村山家奉納)、妙亀法鮫大明神(通称鮫様1825年山田仁右衛門奉納)、善法寺御札(山形県鶴岡市・海の守護神)の7神。
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〇鮫様像(北海道指定文化財)
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〇多くの宝物
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〇大絵馬「加藤清正虎退治図」「席羽正装図」
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安政3(1856)年制作。奉納者は定かではないが松前の商人と伝えられる。制作者の井上文昌は越後の絵師。幕末の南画の大家、谷文晁の弟子。関羽は商売の神とされ、虎退治はロシア南下政策への危機感と思料される。
(最後に受講者一同で、弁天社の神々へ「二礼二拍手一礼」のお参りをしました)

17. 楽山居
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石狩医院の和室部分として昭和12年に増築された離れ。絞り丸太を使った床の間や付け書院があり、持ち送り版、欄間など意匠を尽くした純和風のつくりとなっている。建築当時、石狩医院長であった鈴木信三氏は石狩の文化を彩る俳句結社尚古社の最後の社主であったことから、この和室は楽山居と号され、句会の場として、また、石狩を訪れた画家たちの画室として使用されるなど文人墨客の集まるサロンの役割を果たしてきた。
 2000(平成12)年、弁天歴史公園の整備に伴い、市民の交流の場として、当時の面影を残し復元を行った。句会をはじめ、茶会、会合等に利用されている。
*1時間400円で借りることができる。
(若いコスプレィヤーの利用が1番多いそうです)
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〇日本庭園
北海道では珍しい枯山水の庭園。2000年移築時、花川造園が作った。石狩の自然を表現した造り。水琴窟も設置。
〇床の間、脇床、書院の三点セットが揃う「本床」
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本格的な床の間は、三点セットが揃っている「本床」という。
床柱を中心に、掛け軸の掛かる床の間、違い棚を設らえた脇床、明り採りの付け書院。床柱は波皺のある絞り丸太。細い竹を杉に巻き付け3年育てて創りだす。緑の聚落壁は京都聚落台付近で産出された土を用いる。掛け軸『和顔愛語』(わげんあいご)。欄間には南画が描かれた飾り扇子。地は銀箔貼り。
〇院長 鈴木信三先生について
町議会議員、議長経験。尚古社最後の社主~俳号:楽山、弦月 
1972(昭和7)年 没 
・安田さんより鈴木先生直筆の俳句を紹介~(安田さん)あまりに達筆で読めません(笑い)。
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 ・建物は築83年、建具も襖も83年前のものだが、紙の色は当時と変わらず白い。これは、お札(紙幣)の紙を使っているから。
以上で説明を終わりましたが、安田さんのガイドボランティアとしての豊富な知識と軽妙な話術によって、石狩の過去と今を繋げる3時間でした。次回への期待を膨らませながら感謝とお礼の拍手をおくります。ありがとうございました。

最後に受講者の感想を一部概要紹介します。
「素晴らしい解説、すばらしい資料、充実した有意義な講座に感謝‼」 「石狩に引っ越して来て15年、石狩市の歴史を学びたいと思っていたがやっと実行できた。自分の住む町の歴史を知ることで誇りと価値を再認識できた。楽しい一時をありがとうございました」 「講座資料はカラー印刷であり大切に残したい。天気予報よりも本町地区は冷たい風が強かったが、安田氏の説明が上手で時間のたつのが速かった。佐藤水産の古い店舗が特に懐かしく昔を思い出す」 「石狩川と石狩の歴史を学べた。松前藩と北前船、アイヌの平等の話が興味深かった。安田さんのガイド素晴らしかった」 「本町地区の史跡についてはおおむね知っていたがガイドの方の詳しい説明で、改めてよく分かった」 「なにげなく通り過ごしている中に、歴史を学ばさせていただき、ありがとうございました」 「石狩の歴史については殆ど知識がなかったため、新しいことばかりで楽しむことができた。資料も大変充実しており、帰宅後も振り返りたい」 「地の利を得た石狩市の歴史を勉強できた。次回が楽しみ」 「石狩の違った面をみることができた」




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