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主催講座8「韓国滞在16年の教授が語る素顔の『韓国』」第2回「韓国の食・文化を探求する」

2024/09/12

 令和6年8月27日(火)主催講座8「韓国滞在16年の教授が語る素顔の『韓国』」の第2回「韓国の食・文化を探求する」を石狩市花川北コミュニティーセンターで行いました。今回の講師は北海商科大学教授の水野俊平さんで、受講者は40名でした。今回は韓国食堂「全州屋伏見邸」のオーナー兼総料理長である奥さんの楊 敬蘭(ヤン・ギョンナン)さんも質問に答えられるなど、講師の一端を担われました。
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 水野さんは、今回は歴史ではなく庶民の話、特に料理の話をしたいと述べて話を始められました。さらに、今回の話は、庶民たちの朝鮮王朝を日本で初めて書いたご自身の著書『庶民たちの朝鮮王朝』(角川書店、2013)がベースになっていると話されました。韓国食堂「全州屋伏見邸」のテレビ番組の録画も見せていただきました。
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 以下にお話の概要を記します。
・韓国の食・文化を考える際に重要なことは「伝統を信じるな!」ということです。以下の3点が重要である。
①料理は社会的要因によって大きく変化する。
②元祖を疑え!(料理の起源は誰も記録していないので不明な場合が多い)
③現在のものが過去のものではない。

1.韓国料理の基本形は「朝鮮料理」 
・韓国料理のベースになっているのは朝鮮時代(1392〜1910年)の朝鮮料理である。ただ、昔の料理については記録が残っていないので分からないことが多い。
・1日2食で食事のことを「朝夕」と呼んでいた。1日3食になったのは18世紀で、昼食は「点心」「午飯」と呼んでいた。
・季節によって回数が異なり、日が高い2月〜8月は3食、9月〜1月は2食であった。また、農村では田植えの季節に5食を食べることもあった。
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2.主食は米と雑穀 
・主食は米と雑穀であったが、階層や地域によっても異なっていた。農村では、春から秋まで大麦などの雑穀も主食にしていた。南方の人は米、北方の人は粟を食べていた。
・朝夕に5合、1日1升(現在の3合)を食べ、1食当たり成人男子は7合(2.1合)、成人女子は5合を食べていた。朝鮮人は日本人の2倍を食べ、炭水化物や糖質、たんぱく質をその米から摂っていた。

3.副食物
・イザベラ・バードは旅行記「朝鮮紀行」(1898)で「高さ数インチの暗色の木製の小さな膳を使い、主食はご飯で大きなボウルに盛って出される、それ以外は陶製の器が5〜6個、それに薬味(「醬」)が入っている、食べる時には箸と角または卑金属の小さな匙を使い、ご飯と唐辛子と若干の野菜(キムチ)それに肉と塩味の魚を食べている」と書いている。
・「沈菜」(キムチ)は、塩・酢・醤油などに漬け込んだ野菜のことである。大根(オイジ)やキュウリ(オイソバギ)のキムチが一般的である。
・キムチが辛くなったのは18世紀になってからである。17世紀には、キムチに唐辛子を用いたという記述は見つかっていない。
・18世紀末に中国から白菜が伝来してキムチに白菜が用いられるようになり、20世紀になって一般化した。

4.「醬」について
・「醬」は味噌・醤油の総称であり、豆を発酵させた調味料のことである(醤油・味噌・コチュジャンなど)
・汁物・鍋物・和え物の調味料として使われていて、たんぱく質の重要な供給源となっていた。
・作り方は以下の通りである。
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5.高級だった「焼肉」
・朝鮮時代には、「焼肉」はめったに食べられない高級料理であった。
・19世紀には「除夕(大晦日)」に年1回牛を屠殺してよい「屠牛」解禁があった。「除夕」の2〜3日前に屠牛禁止を解除し、元旦には解除をやめた。
・正月に先祖の祭礼に使う牛肉を両班階級に供給するため、屠牛解禁が行われた。牛肉を食べることができたのは一部の特権・支配層に限られていたのである。
・屠牛解禁で、宮中で焼肉が食べられ、牛肉以外の肉や内臓も食べられるようになった。食べ方は、ごま油・醤油・鶏肉・ネギ・ニラ・唐辛子粉で牛肉を調味し、火鉢に焼き網を乗せて焼きながら食べた。
・鍋物は、陣中の郡司がかぶっていた縁の広い鉄製の帽子「氈笠」に由来する鉄鍋で調理されていた。帽子を逆さまにした形の鉄鍋の真ん中で野菜を煮て、周りの平らな縁のところで肉を焼いて食べていた。
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・肉は祭祀の供え物であり、漢城の市場でも様々な獣肉が売られていた。

6.「牛禁」など「三禁」とは?
・朝鮮時代には「三禁」という禁令があった。「松禁」「牛禁」「酒禁」である。
・「牛禁」〜牛は農耕に不可欠で、牛の屠畜を許せば牛を盗んで屠殺し肉として売ってしまう者が出てくるので、牛の屠殺を禁止した。
・「酒禁」〜酒は米から作っているので食用としての米が無くなることを恐れて禁止した。当時の酒は焼酎か濁酒(ドブロク)であった。焼酎は16世紀にはあったようで、当時は芋ではなく米から蒸留して作っていた。焼酎を作る道具もわかっている。
・「松禁」〜松の葉は細く切ってお粥の中に入れ食材として使っていたので、食料源が無くなるのを防ぐために松の木のむやみな伐採を禁止した。
・「牛禁」については、食肉の需要が増大し、外食産業(酒幕・店幕)の発展などがあって有名無実になった。市場での屠牛を守令は黙認し、民衆はもともと禁令自体を知らなかった。

7.食料としての魚介類
・朝鮮時代の庶民は肉より魚介類からたんぱく質を摂っていた。朝鮮時代になって漁業が奨励され、漁法や加工法が発展した。書籍においても魚類の調理法や旬の魚料理などが紹介されていた。
・紫魚(葦魚)は膾(なます)で、河豚(フグ)はちりで、ボラなどは羹(あつもの)で食べていた。刺身も食べていて、芥子粉と白米をすりつぶして練ったものを付けて食べていた。
・刺身で食べられる魚介類はアユ、サバ、ニベ、カキなどである。
・どじょう料理を食べていたという記述が残されている。
・朝鮮人は魚を焼いたり、煮たり、炙ったり、あるいは生でも食べていた。内陸部では干したり、塩漬けにして食べた。スケソウダラが多く食べられていた。

8.外食産業について
・「酒幕」「床飯チプ」「クッパプチプ」などの食べ物屋があったが、全般的に外食産業は未発達であった。「酒幕」は人通りの多い場所か旅籠にあるだけで、何時行っても食べられるような食堂はなかった。食品保存が困難で、夜間の通行禁止などもあって食堂はなかった。
・ソウルで最も古い食堂は「里門ソルロンタン」(1904年)

9.冷麺・クッパプについて
・朝鮮時代の文民・張維の文集には「紫漿冷麺」という漢詩がある。
・キムチの汁を加えたものが冷麺、汁を加えず混ぜたものが骨董麺(コルトンミョン、ビビン麺という呼び名もある)である。冷麺は11月(12月〜1月)の食べ物である。
・専門店では冷麺は「ククストウル」という特殊な器具で作る。
・「科挙に合格した後に冷麺を注文して食べる」という記述がある。
・冷麺店、湯飯(クッパプ)店が権勢をふるい、人々が先を争って入っていた。
・湯飯(クッパプ)とは、白米の上に脂身のついた肉をのせ、その煮汁をかけた食べ物である。漢城では清渓川沿いに「クッパプチプ」が盛んで、国王も立ち寄った。

10.参鶏湯(サムゲタン)について
・詩人茨木のり子の紀行文では「昼食に参鶏湯とは優雅である。筒型の土鍋がシュウシュウ沸騰したまま運ばれてきた。中には小さな雛鳥がまるごと入っている。おなかに朝鮮人参、棗、糯米(もち米)などを詰め、柔らかく煮てある。味が淡すぎる時はちょっと塩を振るだけ。上品で洗礼された味で、フランス料理のポ・ト・フにも似ていた。昔は王侯貴族の食べ物だったという説明が壁に貼ってあった」と書かれている。なお、「昔は王侯貴族の食べ物だった...」は完全な誤りである。なぜなら、王侯貴族のいた朝鮮時代には「参鶏湯」が存在しなかった。
・参鶏湯は1922年になってから生まれ、韓国の食生活の変化によって発展してきた。
・朝鮮時代に鶏は貴重で、雉の方が一般的であった。
・方信栄『朝鮮料理製法』(1922年)に「タックク(韓国風水炊き)」が登場している。
・1920年代以降の養鶏奨励政策と鶏卵、鶏肉の生産増大で参鶏湯が一般的になった。
・『増補朝鮮無双神式料理法』(1936年)の記述に人参が登場してきた。「若鶏を煮込んで塩を付けて食べる」「人参を煮込んでもよい」などの記述がある。
・人参が使われるようなった背景は人参の生産増大である。人参には「生参」「白参」「紅参」の3種類があるが、安価な「白参」が普及した。白参の粉末を鶏料理に入れるようになった。
・本格的に「ペクスク(白熟)」が飲食店のメニュウになったのは1950年代である。その当時は「鶏参湯」と呼ばれていた。「鶏参」とは白参の粉末のことである。
・1960年代になって「鶏参湯」が「参鶏湯(サムゲタン)」になった。
・1965年に許可制だった人参栽培が自由栽培になった。北朝鮮の開城に代わって韓国の錦山が人参栽培の中心地となった。生産農家が増加し、冷蔵庫の普及により人参業者も増加した。養鶏業の発展によって鶏肉の入手が容易になり、60〜70年代にソウルを中心に「参鶏湯」の専門店が急増した。

11.ピビンバについて
・ピビンバ(ビビンバ)とは「混ぜご飯」のことである。ご飯にナムル・肉・薬味・調味料などを加え、ごま油とタレをかける。韓国の家庭料理でもあるが、食堂でも提供される。
・朝鮮時代のピビンバは現在のものとかなり異なっていた。現在のピビンバは、ご飯とナムル・肉・薬味・調味料などを食べる直前に混ぜるが、朝鮮時代は混ぜて提供していた。現在のピビンバには唐辛子味噌を加えるが、朝鮮時代には加えていない。唐辛子味噌を加えるようになったのは1920年代からで、ユッケピビンバの肉の臭みを消すために加えられた。
・カンラプ(牛の内臓に衣を付けて焼いたもの)・昆布・肉団子などの現在では使われていない食材も使われていた。ヌルミ・散炙・煎油魚なども使われていた。唐辛子は薬味として使われていた。
・唐辛子味噌は肉や魚につけて食べていた。1920年代に唐辛子の品種改良が進み、1960年代に唐辛子味噌が工場で生産されるようになった。1980年代、外食産業の発展とともに定番の薬味として定着した。
・全州のピビンバが有名になったのは1970年代から。地方農村の人々がソウルに移住して食堂を構えるようになった。石焼ピビンバは1970年代、ソウルの「全州中央会館」が始めた。

 水野さんは30分を残して話を切り上げ、料理を中心とした質問を受けられた。奥さんの楊 敬蘭さんも共に立って、5人の受講者からの質問「韓国料理は体に良いと聞いているが、漢方との関係は?」「韓国ドラマでは食事に大量の料理が出されているのを見るが、全て食べているのか?」「白菜キムチの作り方を教えてもらったことがあるが、辛くない料理はあるのか?」「冷麺はどのようにして食べているのか?」などについて丁寧に答えられた。
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 最後に、受講者の感想や意見のいくつかを以下に紹介します。
「大変興味深い講話で楽しめました。食の話題は特に親しみがわき理解が深まり、面白かったです」
「記録のない食文化に伝統も元祖も信じるな! 日本食にもどこか通じるかも。勉強になりました」
「8月17日に全州屋さんで冷麺をいただきました。その時に今回の講座の資料を手にして、締め切り日を過ぎていましたが、ダメ元で申し込み、参加できた次第です。店主が奥さんだったとはびっくりでした。来週も楽しみです。 ありがとうございました」
「朝鮮料理についての元祖・伝統 ⁉ また食事に関わる記述がないことなど、印象深く納得です。料理が社会的・政治的要因により影響を受けていることも分かりました」
「元祖・伝統に気をつけます。これも日本の食も競って店が書いていますね 「チャングム」の食文化を興味深く観ました。文字・絵に残っているものから探り出すのは、日本も同じだと思います。奥様もありがとうございます。料理価格、お安すぎではありませんか」
「韓国の主な宗教は何ですか? 世界統一協会は問題を起こしませんでしたか? 朝鮮時代、東方医という立派な医書を作ったと聞きましたが今でも使われていますか。今でも韓国にトラはいますか 」
「とてもなめらかな話術で楽しく拝聴しました。特に今回は奥様もおいでいただき、お店にも行ってみたいと思いました。先生のご本も機会があれば 読んでみたいと思います」
「私の姪っ子が30年ぐらいソウルの近くの都市で幸せに暮らしていましたが、つい1ヶ月半ほど前に家族全員で里帰りしたばかり(親の3回忌のため)日常の生活を知ることができてとても良かったです。言語がとても難しいですね。次回も楽しみにしています」




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