11月6日(水)、主催講座11「札幌と石狩をつないだ水路」の第1回「モノ・ヒトを運ぶ人工河川」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道開拓の村
学芸員の細川健裕さん、受講者は42名でした。
今日の講座のテーマについて細川さんは、北海道開拓の村で北海道開拓の歴史を扱っていく中で、十数年前サッポロビール博物館のリニューアル展示に関わった仕事が基になっているといいます。そこには「フシコサッポロ川を使ってビールを運んだ」と書いてあった。それは可能なのかという疑問を発したことから、河川や運河を使う流通とはどう
なっていたのか。そこを探っていくと、行きつくのは石狩だった。また、人工河川が造られていく過程で現在の新川に話がつながっていくということでした。 細川さん、多くの方に情報提供をいただきながら調べる中で、この河川(水運)で物資や人を運ぶということにはいろんな人が関わっていて、従来言われていた岡崎文吉さんだけではなく、その前の時代もあることを認識できた。そのことに興味を持っていただきたいと思い紹介するとのことです。
以下、概要を紹介します。
○明治維新の前
石狩の辺りがどのように捉えられていたか
・松浦武四郎「西蝦夷日誌」より
・石狩が大阪と見て津石狩を伏見のようにすることができる
・ベースは、京都が大きな町
大阪は水運(海・淀川等)の拠点
伏見は物資を運び込むための拠点
・石狩が重要であることが幕末の時点で認識されていた→石狩役所が置かれていた(置こうとしていた時代)
○石狩が内陸に物資を運ぶための拠点となる
・石狩川だけでよいか→荷揚場所の問題や氾濫の可能性
・安全性を考えると町をつくる場所は安定した平野部
札幌(幕末の札幌村)は石狩川から逸れた高台に置かれる
・当時から地形や町の発展のさせ方について知識を持った人た
ちが考えていたということを確認できる
○重要な土質と水の問題
耕作地を造って生産活動を行う上では土質と水の確保は避けられない問題である。
・石狩役所の調役となった荒井金助が採った策
荒井村(現在の篠路)を開発して田畑を作る。
「しのろ」の名主の一人→渋田畑六の名にもその意思が垣間見える。
・石狩を運営していく上での食料供給地の一つにしようと考え
たと思われる
○どうしてそこを選んだのか
・下図右側、石狩本町の辺りで石狩川の蛇行が確認できる
・河口内に港があり日本海の荒波から船が守られる地形を利用
・海からの物資や人がやってくる場所として石狩に注目が集まりなおかつ町が開かれていった
・米や食料の多くは海洋を使って函館もしくは本州から入ってきたが、海が荒れて安定的に物資が入らない事態が起きる
・当然、倉を建てて食料を保存して置くが心もとない
実際に戊辰戦争や明治2年の凶作時に数年大変であった。
・開発を広げていくなかで物資の輸送に船を使わざるを得ない
・篠路までは、船で石狩川を遡り、丸木舟に載せ替えるなどしてフシコサッポロ川や琴似川などをうまく使えばそこから荷揚げして町へ運ぶことが可能であったと考えられる
○明治4年は札幌に本府が定められて建設が始まった頃
・どのように作るのかということを考えるための図である
・本府を造るには人も物資も沢山送り込まなければならない
・札幌を造ろうとした場所の確認、赤い線、太い線の位置確認
・赤い点線は道路:山中や丘の上を通すのは湿地を避けるため
・銭函から札幌へ物資を運ぶには、湿地を避けて遠回りをしなければならなかった
○運河の計画
もう一つ、興味深いのは、新しく運河を作って船で持っていく方がよいということが、明治4年の地図に書かれていること。ただこの地図を今の地図と合わせてみると運河は少しずれた所にある。
・札幌の計画地から、上にのびている線と横にのびる線がみられる
・横にのびているのは大友堀
・明治4年の段階で大友堀だけでなく北側に広がっていく創成川の延長工事がスタートしいて流路が確保されている
・大友堀は水量を増すために切られてしまう
・いろいろな文献に大友堀を通して物を運んだという表現が見られるが、私は調べた限りでは開拓使文書等にそのような記録はない。創成川と取り違えている可能性がある
○大友亀太郎
1834(天保5)年相模国足柄下郡西大友(神奈川県小田原市)の農家飯倉吉右衛門の長男として出生。1855(安政2)年、二宮尊徳に入門し今市での報徳仕法に参加、1858(安政5)年に幕臣に召し抱えられた際、姓を出身地の大友に改めた。1859(安政6)年に相馬藩の新妻助惣、大友新六、佐々木長右衛門と共に蝦夷地にわたり、「箱舘在木古内村開墾場取扱」に任じられて木古内村の開墾に従事、次いで1867(慶応2)年「蝦夷地開墾掛」となりフシコサッポロ川流域に御手作場を開いた。1869(明治2)年兵部省出張所石狩国開墾掛、続いて開拓使使掌に任命されるが、1870(明治3)年、職を辞して北海道を去る。
○大友堀
大友堀は物流のためではなく、灌漑用水路として敷かれたことが資料で確認されている。
・豊平川の支流から水を引き、大友の作った[御手作場]に流すもので、フシコサッポロ川に注いでいた
・フシコサッポロ川を使って運ばれたものが大友の役宅の荷上場の所で荷揚げされたと考えられる
・大友堀が運河になっていたなら、そこが流通拠点になるはずだがそうはならなかった
・明治になり札幌の開発のためには不十分だから大友堀を北に伸ばして琴似川まで新川(創成川)を作ることになった
○フシコサッポロ川でビールを運ぶことは無理
ある程度の量のビールを石狩に運ぶとなると、小さな船では安定的に運べない。
・札幌昔話に、曲りくねっていて流木がありすぎて通れない
・ケプロンの日記の中に、船を通すために前を行く人達が川に入って流木を移動させて通るみたいな表現がある
・明治4年には少し伸ばされていた創成川、琴似川を使って石狩に運び、石狩、小樽、函館、本州という流れが多くみられる
・大友亀太郎の仕事は石狩との繫がりでスタートし札幌へつながっていったと考えられる
○大友亀太郎の仕事
・報徳仕法は二宮金次郎の教えで、川を制して人々が少しずつ積み上げ開墾の成果を集めて公共事業もやり、生活基盤を安定させつつ人々の暮らしを確実なものにしていく。その中で川の治水を大切にしていて、開拓するために水をどう制するかを考えていた
・大友亀太郎だけでなく、新妻助惣、大友新六、佐々木長左衛門が北海道を開墾するためにやってきた二宮尊徳の弟子たち
○佐々木貫三(佐々木長左衛門と同一人物)
佐々木長左衛門名で上がってくる開拓使の文書がある。
海外との物資のやりとりの中で不正があったのではないかと訴えられている文書が5つ程ある。そんなことで名前を変えているのかもしれない。創成川の延長に関わってくる人である。
・佐々木貫三の文書【午(明治3年) 八月】の一部概略
・本府道から銭函まで物資をやり取りするにもあまりにも遠すぎて難儀している。住民も官吏も困っている
・札幌と銭函を結ぶ新川が必要である。併せて川だけでなく道路を作ることも重要である。と水陸二道を主張している
・石狩と札幌をどう結ぶかということも頭にはあるが、明治3年の段階では、開拓使の仮役所は銭函に置かれていた
○早山清太郎
1817年(文化14年)福島県白川郡西郷村に生まれ、1852(嘉永5年)年蝦夷地に渡ってきた。
・琴似・発寒の辺りで農業をやるために移住
・当初は現在の手稲星置で伐木下請けの仕事をしていたが、幕史の薦めを受けて農夫に転向し琴似に移住し水稲栽培にも取り組み、収穫した米の一部を幕府に献納している。水稲栽培の祖と言われる
・その後1860年(万延元年)、石狩調役荒井金助の命を受け開墾地として篠路を選定し他の農民と共に入植する
・道路の開鑿(篠路-茨戸・茨戸―花畔など20本以上)
・茨戸新川(発寒川の下流)逆さ川(篠路川)掘削
・氷庫(医療 ・食料保存 ・作る )
篠路に氷庫:小樽、豊平川、石狩川に氷切場
明治10年:西南戦争時、札幌からビールが届いた記録。
ビール製造:外貨獲得のために石狩の川・運河が利用された。
○川を使った流通として注目したいもの
・運漕掛の倉庫として置かれた建物(明治5年の写真)
・創成川、橋、船(8m程)、物資保管
・石狩から篠路~創成川:川幅と治水があまなく動力は使えないので人力で押したり漕いだり、横で綱を引いたりした
・あった場所は、今でいう北8条西1の辺り
・明治10年頃の地図には、運漕局と書いていて簡易な荷上場となっていたことが分かる
・大友堀にはなかったが創成川では物資を運び込む役割を担っていた
・札幌駅が北6条にその後置かれることになったのは、物流の拠点として必然的に必要な場所だったのかもしれない
・鉄道が通るまでは、物流の拠点となる
・人工河川を使って物と人を運ぶことが、幾つもの変遷を経ながら変わってくる
○藤田九三郎
安政五年八月志摩国鳥羽に生まれ、1877(明治10)年札幌農学校に入学し太田稲造、内村鑑三などと共に二期生の一人。1881(明治14)年札幌農学校を卒業すると開拓使御用係となり工業局土木課に配属される。
職務の中には札幌近傍の排水線測量が含まれており、1883(明治16) 年に篠路村字茨戸に土地を手に入れていることからも、上記の琴似新川開削に深く関係したものと思われる。なお、茨戸には自らも居住して藤田農場を開き模範農場とするべく取り組んだ。明治29年に亡くなる。○藤田はこんな仕事をしている
・工業局土木課で、札幌近傍の排水線測量の仕事を行った
明治24年以降の岡崎文吉による水路建設が有名だが、それより前に開拓使もしくは北海道庁は計画を進めていた(明治15~19年)が、お金がなくてあまり進まなかった。
・その頃琴似新川が開削されている
石狩川(今の茨戸川あたり)と琴似川を直線で結んで運河としての完成度を高めようとした。その実務を担った一人。
・藤田農場:現在のガトーキングダムの辺り
○開拓使爾志通洋造家(白官舎)
開拓使の下級役人の官舎として作られた建物で、一般に払い下げられたものの1つ。
・一部が札幌独立教会の教会として使われた建物
1階は教会、2階を借家として使用したようで、明治18年前後の一時期藤田九三郎や内村鑑三たちが一緒に住んだという記録がある。
・ここに移る前の明治15年頃、創成川近くの東1丁目辺りに、藤田と内村と広井勇ら5人一緒に住んでいた
・広井勇は、昨年放送のNHH「らんまん」の中で広井をモデルにした人物が描かれているように、日本の中でも活躍された人
〇札幌独立教会の二代目会堂(左の建物)
内村鑑三の伝記で紹介されている絵(絵か写真か不明)
・設計者は藤田久三郎。信徒であり、土木、建築も学んでいて能力もあった方
このような能力も知識も持った人が琴似新川を広めて今につながり、先人たちの努力の結果物資の流通が盛んになっていく。
○冬どうしたか
水路も鉄道も北海道の雪と寒さは大変なものである。
・水路は石狩川自体が結氷して凍ってしまう
・鉄道は冬の間運休の時期が長くでてしまう
では物流はストップしたのか。値段は高騰したが輸送はしていた記録がある
・銭函から雪道をそりで運ぶ
・氷の上を運ぶ方が速い
北海道開拓の本府としての札幌に大量の物資を迅速かつ安全で安価に届けるために流通インフラの整備は不可欠であり、水運の重要度が高く捉えられていたことを学んだ。
石狩と札幌を結ぶ水路(運河)、花畔から銭函間や銭函から札幌までの新川の開削については次回に学ぶことになります。
最後に受講者の感想を幾つか紹介します。
「篠路の地名が土地の比率とは知らなかった。サッポロビールは米国の捕鯨船員の飲料水だったのも初めて知った。官舎が独立教会に使われ、内村、広井、藤田が住んでいたのは興味がある。冬季間創成川の上をソリで荷物を運んだ記録が見つかるといいですね。道内で水運が発達しなかったのは凍結のためですね」
「課題が水路で、日常的に"何故"と思っていることを、少ない事実確認できるものを利用して、想像力を生かして検証する方のお話し、"そうだったのか"と納得感を得た内容だった」
「興味深いお話しでした。明治初期に、水を使ってビールを運んだ、リンゴの貯蔵、等面白かった」
「札幌に物資を輸送するにあたり水路が石狩の発展に与えた影響を説明頂き、ありがとう御座居ました」
「北海道開拓にかかわっての水路の歴史を大変興味深く聞くことができた。札幌 篠路 銭函 石狩のつながり、関係した人物の働きと成果を学ぶ機会になった。サッポロビールの役割(石狩の缶詰も)知りたかった」
「新川開発に関わった先人達のことが分かり興味深かった」