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主催講座11「札幌と石狩をつないだ水路」第2回「開拓適地を広げる排水路と道路の敷地」

2024/12/10

 11月20日(水)、主催講座11「札幌と石狩をつないだ水路」の第2回「開拓適地を広げる排水路と道路の敷地」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道開拓の村学芸員の細川健裕さん、受講者は38名でした。
               
 
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 細川さんは、今日のテーマ「水路」について、水の路としての使い方がメインに捉えられるものの、実際には必ずしも運河として船を通すだけではない役割があり、その役割から周りがどう発展してきたかという関係性があるといいます。
今回は町割りと水路・道路の関係に着目してお話しして下さいます。
 
 以下、概要を紹介します。
新川
手稲山口のごみ処理場近くの橋から撮った写真で、札幌の市街地が前に見える。真っ直ぐ切り開いた水路で、人工河川なのだと強く感じられる景色である。
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花畔銭函間運河跡
皆さんご存じの石狩市民図書館横の運河跡
今は先が埋まっているが、こういった水路が設けられたのは、単純に船を通すだけではない意味合いがあった。ただ、運河を造るには多くの労働力や資金が必要で、紆余曲折を経ながら実施されてきた。
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1.水路が先か道路が先か
町割りのズレ
石狩周辺の地図を見て不思議なズレを目にすることができる。
・町割りが幾つかの角度に分かれていて一定ではない
・地形や道路がどうなっているかを考えながら地図を見ていくと歴史の紆余曲折が見えてくる
・この地図は、捷水路ができる前のもので石狩川は長いままである。大正時代にショートカットされる
札幌でよく言われること
・札幌の中心部とその周りの屯田兵が開いた場所とでは角度にズレがあるので、それぞれの町の拡大が重なる部分で町割りもズレてしまう
〇石狩ではどうか
石狩の中でも本町や親船地域は早く開かれていて、町割りというより機能的に道路ができ、開拓が進んで周りとのつながりがでてくる。
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(1)水路と道路 <今日のメイン>
今私たちがいるコミュニティセンター(花川・花畔・親船)辺りを地図で確認。
周囲は、札幌原野といわれた大湿地帯で、人が住むにも、耕作をするにも非常に困難であった。
どうして大住宅地になったか 重要なのは水路
(*下図未次6年の地図参照)
・豊平川の支流胆振川を水源にして大友堀(橙の線)が造られフシコサッポロ川に合流
・石狩地方においては慶応年間に水路がスタートしたと云っていい
明治に入ると佐々木貫三らの働きもあって運河化が進められ、周囲の河川を合流させて水量を確保した。
・南で豊平川に近い方を拝借して今の創成川(吉田堀:青線)
・さらに琴似川まで延ばす(寺尾堀;青線)
・運河化される前の大友堀は、基本的には用水路であって運河ではなかった
・水量を増やして直線化、距離も延ばして琴似川の下流に近いところで接続することで石狩にも距離が近くなる
・直線化に伴い、札幌村へと斜行していた大友堀(北側の橙の線)は不要になり切り替える
大友堀を使って札幌に物資を入れたという話について
先ほど紹介した通り、後に創成川と呼ばれる新川が、明治4年の段階で琴似川との合流地点まで延ばされているので、大友堀は基本的には物資の輸送に使われていないと考えた方が正しいだろう。
フシコサッポロ川を利用した物資輸送の荷上場は大友亀太郎の役宅傍であったことから、それ以上上流への舟運は難しかったものと考えられる。
一方、篠路に荷揚げされた物資を載せ替え、運んだと思われる小舟が写る運漕局の写真などから、大量輸送とまではいかないまでも、札幌本府建設の物資はこの新川が使用されたのだろう。
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(2)花畔への道
水路が開かれた(明治3,4年辺り)後、早山清太郎に命じて篠路から花畔まで道路が引かれる。
それ以前にも花畔への道路はあった:地図上の赤い線
・川沿いにあるものとマクンベツを通って海岸沿いに曲線の道が確認できる。その後、花畔から親船までの比較的直線な道路が開鑿される。
・今の花川(昔の花畔村)から見ると、この道路の角度がほぼ花川の海側の町割りの角度と一致することが分かることから、この道路の直線化を生かして作っていったと考えた方が自然だと判断できる。
水路の延長
次に、琴似川と創成川がぶつかる辺りから茨戸へと水路が延長されて札幌と茨戸が結ばれ、札幌から石狩へと水路だけで物資を安定的に輸送できるようになる。
道路の開鑿
この水路ができると同時期に、琴似から琴似川に創成川が合流する辺りまで道路が開鑿される。
・目的は①新たに設置する新琴似兵村との連絡路②札幌へのヒト・モノの輸送路
水路を開いたものの、安定的な路ではなかった。それがここまで開くことで、一旦、琴似に出て札幌へ通じる道が開ける。この道沿いに新琴似兵村が置かれ、道に沿って町割りができる。
新琴似兵村と篠路兵村との町割りの角度にあるズレ
・新琴似兵村が先に道に沿って置かれた
・篠路兵村は、創成川沿いの街道に沿った角度で町割りがつくられる。間にある防風林も関係している
上図、紫に引いた線が現在の新川になる
・新川の元々(計画上)の名前は「大排水」で運河というよりは排水路だということがわかる
・新琴似兵村が大きくなろうとしても新川に止められ、それ以上延びることができない
・篠路兵村も延びていったら、今の緑苑台とか花川とかに及ぶ可能性もあったが、そこにはすでに農場があって広げられずストップする
堀農場
はじめ、北海道の副王とも称された堀基という人が茨戸に堀農場を開く。その後前田利嗣に譲渡され前田農場となる。後に前田は新たな土地を得て今の手稲前田側を本場として茨戸を支場とし、また別人に譲渡している。
新琴似や篠路兵村の人達 
自分たちが与えられた土地の開墾を終えても、近隣では追給地を得られず、当別方面や清田の地域に追給地を提供されるが、遠すぎて開墾成績が上がらず結果的に戻される。そのようなことが水路と道路に挟まれた地域の中でおこっていた。
手稲から花川への道
手稲軽川から花川に通じる道路が引かれ、新川沿いに作られた道路の左右に町が造られていく。その一部が今私たちのいる地域である。
・この道路と、初めからあった石狩本町からの道路とズレが生じ、既に出来ていた町割りとも重なる部分が出来る
・水路や道路が出来ると区割りを明確にする作業が行われ、今私たちが目にする地図もしくは生活の中での四角い町割りにつながっている
花畔銭函運河
その後、花畔から小樽内川に通ずる運河が造られる
・悪条件:湿地帯と砂丘地➞維持困難な運河
・現在:水路っぽく窪んでいる跡地は確認できるが水流は確認できず
・運河を通すときには既に町割りが出来ているので、町割りの間や道路に合わせて運河のルートを変えているように見える。石狩花川の町を考えていく上では、道路や水路の出来方と町割りの出来方が関わって、新しい町が出来ていっている。
問題となっていた湿地と泥炭地
・新川が開かれたことによって土地の乾燥化が進む
・排水して土地を乾かせば耕作適地になると早くからの指摘
・新琴似兵村は新川への排水が効果を発揮する
篠路兵村ではそれを意図的にやろうとした
・屯田兵の業務として土工作業が多く設けられ、兵村内に排水渠を掘ることを行う
・結果として札幌原野は乾いた大地に変わり、耕作適地であり住宅適地に変わり開拓に入ることができるようになる
・当初は酪農地帯が広がる土地であったが、排水が進むにつれて人口も増え花川・樽川の開発が進められるようになる
(3)この作業を進めていくにあたって大きな仕事をした人
【北垣国道】
元々開拓使の官吏で、北海道開拓への深い知識があった。
◇最も有名な京都での仕事
明治維新になって天皇が東京へ移り、京都の衰退が進む大きな転換期に京都府知事に就任した。
・琵琶湖疎水の推進
➞産業振興を目的に琵琶湖の水を京都に送る水路 
・主任技師に田辺朔郎を大抜擢し、水力発電の実用化を成し遂げた➞人材を見つけ仕事を与え立派な仕事をさせた
◇明治25年北海道長官に就任
北垣は鉄道部長として田辺を呼び、北海道でも土木事業を進めるために幾つかの策を持ってくる。
・鉄道、港湾、道路とともに排水を目的とした運河を上げる
・北海道を開発していくための白書
①地形の測量 ②殖民地選定測量 ③鉄道 ④港湾 ⑤電信灯台 ⓺道路橋梁 ⑦駅逓 ⓼排水運河 ⑨土地配賦市街地区画 ⑩町村組織 ⑪衛生 ⑫実業教育 ⑬勧業 ⑭森林植樹
北垣が何をしようとしたかが明確に見えてくる。
『右十四項ニシテ最も費用ノ彩多ナル者ハ鐡道、港湾ニシテ之ニ次グ者ハ排水、運河、電信、燈臺是ナリ』
鉄道港湾は流通を確保して産業を発展させるためには必要であるけれども、それに次ぐものとして排水運河ということを上げている。北海道には湿地が多いので、人々が生活の場を広げて活性化させるためには排水運河を整備することが重要と言っている。
・実際に実務を担当したのが岡崎文吉であった
・トップである北垣が後押しして岡崎に実行させる
◇運河では、『幌向運河(南幌町)』『馬追運河(長沼町)』もあるが、岡崎が担当した『札幌茨戸運河』『花畔銭函間運河』は力を入れて多大な経費と労力をかけて推進させ、明治30年頃一応の完成をみた。
・水位の高低差を少なくする閘門を設置して水位を上げながら船を進めるように、当時としては画期的な技術を導入して整備された
・閘門が設置されたことから注目されがちだが、この運河は排水の役割をも担っていて、耕作もしくは居住適地が生まれ、今の町割りが出来ていった
◇もう一つ注目しなければいけないもの
・殖民地選定測量と土地の配置市街地区画、町村組織の設定
画してより多くの人に入植してもらうためには、明確に地図から位置を示せることは大きな出来事であった。
・殖民地区画の設定は、明治25年に北垣が長官となって明治26年には第1弾が発表されている
・親船町から真っ直ぐに花川まで伸びた線と軽川から花畔へと敷かれた道路をベースにして町割りが造られた
石狩の人は地図を見て自分の位置を特定できてしまう。北垣が構想を立てて田辺に伝え、岡崎が実務を行った。この様に北垣の行った仕事も石狩にとっては忘れてはいけないものと理解していただきたい。
「石狩国石狩郡樽川花畔原野区割図」北海道立図書館蔵
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地図を見てすごいなと思うことは、風防林が石狩には昔のまま残っていること。
・町中の緑とか公園に近い機能を担っている
・歴史を知るということにもつながる
・昔造られた町割りが生かされて今の生活と結びついてきたという歴史そのものである➞生振の方位で言うと、南北の線、東西の線が基準になっていると思われる。京都でも札幌でも南北東西に道路が造られるのが基準になっているといわれる。
方位は動く
国土地理院の地図は緯度・経度を出して見ることができる。
(下の地図は、一部を切り抜いた生振の地図)
・道路と地図の経線がズレているのが分かる
➞これは非常に面白いと気づいた
・何か地理的な問題があってズラさざるを得なかったか、測量を間違えたのか、皆さんどう思いますか?
地球が磁石の性質を持っているおかげで、方位磁石を使って方角を知ることができる。
しかし、方位磁石が示す北(磁北)は、地図の北からズレているということである。そのずれ(偏角)は、場所や時間によって変わる。ズレが動くらしい。なので、何年に測量したのかによってズレが変わってしまう。
・磁気図2020年札幌でいうと、磁北の向きが地図の北より約10度も西にズレてしまっている
・この地図(生振)のズレは8度位で近い感じになる
では、最初に区画を測ったときに正かったかというと当然何度かズレている。伊能忠敬が地図を作った頃はほぼ合っていたらしい。今よりずれが少なかった時代であった。
・区画を行った明治25~26年には合ってたはずが、今はズレが出ている
・同じ殖民区画でも、早くから行われた石狩と、比較的遅く行われた他の所とでは多少ズレが出ることになる。この偏角というものは時間と場所によって違うものなので、地球の性質として認識しなければならない。
・石狩に特化してのズレに関しては、志賀健司学芸員が調査して論文でも発表しているのでより具体的に確認できる
◇国土地理院地図 生振(部分)
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2.生振の殖民区画(今の生振の写真)
殖民区画の小区画が、真中で割れて6つ割れているのがはっきり見える箇所がある。殖民区画のまま残っているのに感動した。
区画していくときには、大区画、中区画、小区画のように、中区画の中が6つに小区画されて払い下げが行われた。
・住宅地ではなく農地という考え方が基本であり、理にかなった区画がされている
◇風防林もそのまま残っている
今後社会の変化の中で歴史を見せる時に、運河であったり、道路であったり、風防林であったりの価値を認めていけるようだと、もう一つの価値が観光や地域を見直すことにつながっていくのではないかと思う。
殖民区画           
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1886(明治19)年殖民地選定事業に着手。まず基線と直交する基号線を定め、並行して300間ごとの碁盤目状の区画道路を引く。
・大区画:900間四方(中区画×9)
・中区画:300間四方(小区画×6)
・小区画:100間×150間
・小区画1つが入植農家1戸の基本単位
選定後殖民地区画図が作成され、図面上で土地処分が可能となる。殖民区画測設は昭和21年まで継続し、選定総面積は約400万ヘクタールに及んだ。
3、馬車鉄道
石狩と札幌をつないだ存在としては、道路、水路の後に鉄道の敷設があげられる。
札北馬車軌道      
・石狩まで来たわけではなく茨戸まで
・何故茨戸までなのか
創成川は初め運河として機能するが馬車鉄道が運行するようになり荷物を運ぶことになる。石狩とのやりとりでは札幌からの物資が茨戸まで運ばれ、そこで集積して、石狩川で石狩さらには空知へもつながることになる
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1911(明治44)年6月運行開始
運行区間は、北7条東1丁目(製麻会社前)~茨戸(前田農場前)
・1922(大正11)年9月からは馬から内燃ガソリン機関に変更。積雪期は馬橇を運行
・1935(昭和10)年2月営業廃止
軽石(がるいし)軌道
・1922(大正11)年営業開始
・運行区間は軽川~花畔間
・花畔~石狩町間の敷設も予定していたが、1935(昭和10)年7月未着工のまま特許が失効
・1940(昭和15)年営業廃止
道路と水とに囲まれながら石狩という町が発展し、その中で皆さん生活されていた。水路や運河は、船が通せるかどうか荷物を運べるかどうかだけではなく、生活の中に町割りを考えていく中で重要な役割を担ったということである。
【新渡戸稲造】
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・1877(明治10)年、二期生として札幌農学校に入学
・藤田九三郎と同期で新渡戸も土木を勉強➞土壌改良の必要性を学ぶ
・札幌農学校教授をしながら道庁職員をしていた時に、泥炭地改良および利用方法の研究を行う
・1881(明治14)年の明治天皇行幸の際に明治天皇は、札幌農学校の排水管製造所を天覧
➞その時に同席して説明した可能性も考えられるが確証なし
・1893(明治26)年から道庁が泥炭地試験地を江別の対雁原野と岩見沢の幌向に設けて暗渠排水の調査研究を行っている
・指導には道庁技師兼任の札幌農学校教授新渡戸があたる
対雁では100町歩に近い地積で排水効果の試験を行い、幌向では泥炭地燃焼、石灰施与、肥料等の試験を行って大きな効果をあげた。ただ新川を切り開いただけで水が出ていくわけではない。農地や湿地に暗渠を埋めて排水を促進することが重要であった。
・この花川の近くにも煉瓦製の暗渠が埋まっているはず
・当時造られた暗渠が北大第2農場で展示されているので機会があれば行って確認して頂きたい。札幌農学校の初期の人達は活躍しても北海道にとどまらなかったと云われるが、北海道に還元しているものがしっかりとある。身近な人として岡崎文吉は勿論、周りで支えた1人として新渡戸稲造を意識して頂きたい。
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 以上で講座は終了ですが、札幌と石狩をつなぐ水路や道路の開鑿が果たした役割を学びました。その関わりの中でこの地が豊かな大地に生まれ変わり、石狩の今と私たちの生活がある事を改めて知ることができたと思います。講師の細川健裕さんに感謝とお礼申し上げます。

 最後に受講者の感想を幾つか紹介します。
「興味深く受講しました。水路、道路から街の歴史が分かると実感しました。地域を見直すポイントとしての土地の成り立ちや、住民の暮らしを考えることと伝えることができるのでは、というお話しは新鮮に感じました」
「石狩・札幌地区の歴史に興味があり受講させてもらいました。また機会があれば受講します。札幌厚別区に住んでおり、近くの北海道博物館、開拓の村が開催するセミナーや各大学の市民講座にも参加しています」
「殖民区画により現在の農地の区割がよく理解できました。農地の見方が変わります」
「明治時代に造られた水路や防風林が今も残っていることは貴重な歴史遺産だと思います。両親が農業をしていた樽川の場所は跡形もなくなっていますが、今でも防風林との位置関係が分かります。馬車鉄道や新渡戸稲造が道内の開拓にも貢献したことなど話して頂き、うれしく思いました」
「経度と道路のゆがみ理由が初めて分かった(磁北)。花川の殖民区画の生い立ちが分かり勉強になった。排水運河が殖民を推進する重要な要素であることを知った」
「地図と歴史をセットで捉え、ブラタモリ風に披露してエコミュージアム的な考え方で地域発展を企画したらどうか。講座を聴講して考えてみました」
「現在地がどのように、判りやすい説明で大変納得感得た。話を聞きながら色々と空想でき楽しいものでした」
「防風林が現在まで残っている事が、市・国の管理によっているのかな?道路と水路で札幌➞石狩が発展して来た事が分かった」
「今日も面白い話、ありがとうございます。資料の提示、歴史の解説、石狩の歴史を感じました」




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