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主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」第1回「近づく大戦の足音」

2025/02/26

 2月22日(土)、主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」の第1回「近づく大戦の足音」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山祐吾さん、受講者は51名でした。講座13は令和6年度最後の講座です。
 森山さんは最初に、亀井勝一郎さんの「学んで己の無学を知る 是を学ぶという」という言葉を紹介して、これは「知らないことがあること自体を知らなかった」という意味で「人は日々学ぶことを意識すれば、乾いたスポンジが水を吸収していくように世界が広がり、八十歳でも若い精神を持ち続けることができる」と教えています。本日ご参加の皆様が市民カレッジの学びの機会を通して向上心をさらに高め、心豊かな人生を送られることを願っています、という言葉を受講者にかけられた後、講座のお話を始められました。
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 太平洋戦争の犠牲者は、日本人300万人、東南アジア諸国の軍民2000万人といわれる。戦後80年を経た今、戦争を知らない世代(80%)が多くなり、戦争体験の継承が難しくなっている。
 私たち日本人は、我々の子孫代々のために努力を惜しまず、平和を守り抜く覚悟を持つためには、まず戦争の苦い教訓を風化させる事なく学び取り、そこから一人一人が自分の良心に従って行動する大切さを身につけていきたい。

1.満州事変の勃発(1931年9月~1932年2月)
・第1次世界大戦(1914年~1918年)で連合国側としてアジア唯一の勝利国となった日本は、戦後好景気に沸いた。
・しかしその後は、大正12(1923)年の関東大震災、昭和2(1927)年の金融恐慌、昭和5(1930)年の昭和恐慌と相次いで不運に見舞われて長い不況が続いた。
・このような社会情勢を背景に、軍部の中には現状打破のため中国大陸への進出を訴える者も出てきた。
・昭和6(1931)年9月18日、関東軍(満州駐屯軍)は中華民国の奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破、それを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始した。
・この行動に対して天皇や政府は「戦争不拡大」を指示したが、軍は無視して満州の大半を占領した。翌7年3月、清の最後の皇帝・溥儀を担ぎ、軍の主導下で満州国という傀儡(かいらい)国家を作り上げた。
・この満州事変は、関東軍と中国抗日運動との衝突激化による泥沼の日中戦争、さらに太平洋戦争へと続く最悪のシナリオの始まりとなった。
・平成27(2015)年の新年所感で天皇は「この機会に満州事変に始まるこの戦争の歴史を学び、今後の日本のあり方を考えていく事が大切なことだと思っています」と述べられた。

2.高まる北方への危機感
◇警察力の強化
・満州事変を境に、政党が後退、軍部と官僚がのし上がったが、警察も大きく変わり始め、警察権の確立、強化を通じて「国家警察」への道を歩み始めた。
・国防国家を目指す軍部は、昭和9(1934)年10月に「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを発表、全体主義経済の必要性を説いた。
・昭和12(1937)年7月、北京南西郊外の盧溝橋事件を発端として日中戦争に突入した。
・翌13年(1938)4月に国防目的達成のために国家総動員法が制定され、警察はここで、経済統制監視の権限を握った。広範な警察職務と強い権限、内務大臣の指揮下で中央集権化された組織、「天皇国家」中心の運営、これらが戦前の「国家警察」の姿であった。
◇対ソ戦を意識した陸軍大演習
・昭和10(1935)年12月23日、陸軍省は翌11年秋の第34回陸軍特別大演習を北海道で行うことを発表。この行事のために天皇は演習開催地へ出向き、演習と結びつけることで、皇室を中心とする国民団結の下、一種の興国的運動を展開する事が、軍事的意義と同等に重視された。
・満州戦線への日本軍兵力投入は、国境を接するソ連、中国の神経をいら立たせていた。
・対ソ戦も辞せずという強硬論から局地戦で収めようとする穏健派まで、国論も様々だったが、おしなべて昭和11(1936)年の日本は満州事変に関してこの二者択一を迫られていた。
・こうした時期に行われる特別大演習について、旭川第七師団参謀長横山臣平は「我が北海道・樺太の国防価値が益々増大する中、錦旗(天皇・朝廷の軍旗)を北辺の地に迎ふるは・・」と、例年の大演習とは違う特別の意義を強調している。
・横山参謀長の言葉は、ソ連を念頭に置いたものだったが、日本の動きに対してソ連も軍備を拡張。
・日本の対ソ危機感がはっきりと増大したのは、昭和10年後半からである。そんな中での特別大演習が、北方への危機感をさらにかき立てることになった。
・一方、北海道経済面から見ると、昭和6年以降4度の凶作の痛手を受けて、大演習という大行事特需が歓迎された面もあった。
◇一時の演習景気
・引き続きの凶作は租税収入にも大きく影響し、天皇来道歓迎予算も組めない状況だったが、昭和11年6月29日の臨時北海道議会は、全会一致で167万7,525円の関係予算(前年道予算1,000万円)を議決した。
・国庫補助や他県分担金を差し引いても不足分は、147万円余。これを増税と起債という名の借金でしのいだが、天皇の道内旅行先市町村や鉄道、民間で支出する分を加えるとさらに予算はふくらんだ。
・これらの予算の多くは、道路補修や庁舎新築など土木、建設事業に振り分けられ、弱った道内経済へのカンフル剤となった。
・セメント、鉄材、アスファルト、その他建築資材は、例年の2~3割増、道路や建築工事の雇用者は延べ300万人に達したといわれる。
・こうして膨れ上がった購買力は、一時的にせよ道内経済界を好況に導き、それが天皇陛下万歳の声を大きくしたと言える。
・大演習は、10月3日から5日まで、北軍(第七師団)と南軍(弘前・第八師団)の対抗戦で参加兵士約2万人、両軍が島松、恵庭一帯の平野で会戦した。
・この特別演習が北海道で行われたのは、参謀本部が「実践場裡に近似せる」と言っているように、北海道を、日本がソ連、中国と全面衝突する可能性のある満州戦線に見立てたからである。
・一方、国内では昭和11(1936)年2月26日、「昭和維新」を唱える陸軍皇道派で急進的な青年将校がクーデターを起こす「二・二六事件」があった。この事件の収拾過程で見せた軍の威圧は、結果的に青年将校が目指した軍部独裁を実現させた。

3.日中戦争(1937年7月~1945年9月)
・満州国建国に対して、中国(国民政府)は侵略行為による建国だとして認めず国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を派遣して調査した結果、満州国建国を不承認とした。日本はこれを不服として国際連盟を脱退した。
・中国と満州の国境付近での両国のにらみ合いの中、昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で中国軍が日本軍に発砲したことが戦闘のきっかけとされるが、両者の言い分が食い違って真相は不明である。
・当初は不拡大の方針だった第一次近衛内閣は、これを機に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示し、軍部先行で3個師団の派兵を決定した。
・日本軍は、12月中旬に中国の首都・南京を攻略した後も戦線を拡大し、武昌、漢口、広州など中国の主要都市を占領した。
・一方中国は、主導権争いを続けていた蒋介石の国民党(米英が後盾)と毛沢東の共産党(ソ連が後押し)が一時停戦し、両党が「一致抗日」を旗印に首都を重慶に移して、ゲリラ戦を展開した。以後、中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受けながら徹底抗戦を続けた。
・日本は、これ以降9年間の苦戦を強いられ、先の見えない長期戦へもつれこんでいった。

4.統制経済の進行
・昭和13(1938)年1月16日、近衛文麿内閣は「国民政府を相手にせず」とする声明を発表。国民政府との和平の道を自ら閉ざし、日中戦争はいよいよ泥沼へ踏み込んでいった。
・戦いの長期化を決定づける「近衛声明」を挟んで、前年10月に国民精神総動員中央連盟が結成され、4月1日には国家総動員法が発布された。
・前者は、「精神運動」の名の下に日本精神を鼓舞し、やがて贅沢排撃、節約運動へと向かう。
・国家による物資、資本、労働から言論にいたるまでの統制を可能にする後者も同じ道にあった。
・前年7月の戦争突入以来、国民は一途に進む戦争体制の強化に息苦しさを感じ、その上に経済統制により生活がギリギリにまで締め付けられ始めた。
・昭和12(1937)年10月、統制経済を推進する企画院が設置され、翌年3月1日には綿糸配給統制規則に続き、電力国家管理法、物資動員計画の基本原則発表と矢継ぎ早に施策が打ち出され、6月には綿製品が国家管理になった。それは、店頭から「純綿」が姿を消すことを意味し、日本の前途への不安を国民に感じさせた措置であった。
・これ以降も物品販売価格取締規則、石炭配給統制規則と続き、経済活動は「規則」でがんじがらめにされた。
・昭和13年中には、ガソリンをはじめ、羊毛、皮革、ゴム、パルプ、鉄、鉛、錫、アルミニュウムなどの使用制限を実施し、一方で統制の徹底を図るため、経済保安警察制度をつくった。物資の民需を抑え、その分を軍需産業に振り向けようという体制を目指したものである。
・国家予算は昭和12(1937)年度から国防予算を中心に大幅に増加。陸軍国防充実計画では、石炭、電力、鋼材、自動車、アルミニュウム,坑先機械、マグネシュウム、石油など重要物資の生産力を前年基準の2倍から18倍まで増やす。これに要する費用は総額115億円と試算され、昭和11年度一般会計歳出22億円から考えると天文学的数字であり、自由経済体制では到底実行不可能なものだった。
◇商圏の札幌集中化
・節約運動は物資不足の裏返しで、生活物資の製造、販売業者は、深刻な事態に立たされ、品物の確保は役所(道庁―支庁ルート)に頼らざるを得なかった。統制経済になってからの「道庁もうで」は、経済の隷属化の表れだが、それによって北海道行政の中心である札幌の経済地位が数段押上げられた。
・昭和12年末時点で札幌の人口は20万4,628人。箱館の21万8,466人にあと一歩まで迫っていた。
・日本興業銀行、簡易保険局、陸軍被服本廠、同盟通信、造幣局などの札幌支店、支局、出張所の開設や箱館地方専売局の札幌移転などの他金融機関や中央商社の札幌進出が相次いだ。
・国策の上意下達のパイプが形作られて、国策に反する道策、市町村策はありえなくなり、それまで道東の基本とされていた第二期北海道開拓計画も、国策の前に大幅な後退を余儀なくされた。
◇深刻な労働力不足
・昭和初期の失業時代から一転して求人難時代となったのは、戦争の影響で、原因の一つは応召による人手不足、もう一つは軍需産業の活況だった。
・特に求人難が深刻だったのは道内炭山で、大増産計画を遂行するに必要な1万人の鉱員募集は東北6県で行い、旅費持ち、支度金貸与、住宅無料など福利施設完備の好条件を用意せざるを得なかった。
・昭和11(1936)年9月1日には、道庁に職業課が発足、2か月後には「職業紹介週間」が実施された。
・戦争遂行のための物資動員計画は、平和産業に大きな打撃を与え、原料不足で操短、操業休止、解散に追い込まれた工場も多かった。「本道における失業者はすでに5千人」と昭和12(1937)年8月10日の北海タイムスは報じている。

5.満蒙開拓団
・昭和11(1936)年の二・二六事件の後に登場した広田内閣は、同年8月25日、国防の充実、教育の刷新など7大国策14項目を閣議決定したが、この重要国策の一つが満州移民である。そして、満州開拓は、日中戦争突入後、ますます重要性を増した。
・昭和14(1939)年12月22日、阿部信行内閣が決定した満州開拓政策基本要綱「東亜新秩序建設の拠点確立を目途とし、日本内地人開拓農民を中核として原住民等の調和を図り日満不可分、民族協和、国防力の増強、産業の振興を期し・・」という理想を掲げて、満州事変⇒日中戦争へと、大陸の戦火は果てしなく広がりつつあった。
・こうした国策のレールに乗って満州移民は増える一方だった。
◇100万戸の移民計画
・満州開拓の歩みは、満州建国の昭和7(1932)年に始まった試験移民で、第一次は主に東北地方から選ばれた在郷軍人500人。同年10月に三江省佳木斯(ちゃむす)に入植、後に弥栄(いやさか)村と名付けられた。
・試験移民は昭和11(1936)年まで続けられ、牡丹江省、浜江(ひんこう)省など各地に1800人が送り込まれた。
・試験移民は、抗日ゲリラ軍の襲撃、慣れない風土、開拓計画のミス、ホームシックなどで一割が脱落したが、定着可能なことも証明された。
・昭和12(1937) 年からは、国策として本格的な取り組みが始まった。
・広田内閣の満州移民計画は、昭和12年から20年間で100万戸。
・しかし、100万戸は当時の内地農家の半数近い数。応召で労力不足の中では不可能なものだった。
・日中戦争の突入は、移民の中心となる20~30代男子の応召を増やし、移民計画にもヒビが入った。
・そういう中で、一般開拓民移住と並行して登場したのが、「鍬の戦士」と呼ばれた10代の満蒙開拓青少年義勇軍。青少年を訓練して満州未開地に配置、「国策移民の基幹部隊」に育て上げようとした。
・好条件の募集に応募者が殺到。昭和13(1938)年1月から5月まで茨城県水戸市に設置された内原訓練所には1万4800人が入所した。
・しかし、厳しい2か月間の訓練と徹底した精神教育を受けて渡満した義勇軍が遭遇した現実は、聞くと見るとは大違い、大変厳しいものだった。
・試験移民、青少年義勇軍、一般開拓民は、「王道楽土建設」「民族調和」の夢を抱いて入植したが、理想と現実には想像以上の落差があった。それでも期待を込めて鍬を入れたが、用意された土地は、ほとんど現地からタダ同然に巻き上げたものだった。
・さらに、ようやく開拓が一段落すると相次いで現地で応召された。
・昭和20(1945) 年5月現在の満州開拓民送出戸数
一般開拓民        22万人(うち北海道2002人)
青少年義勇軍関係   10万1000人(うち北海道1127人)
合計            32万1000人(うち北海道3129人)
※戦後、北海道は、満州開拓移民の多くを受け入れて、北海道緊急開拓が進められた。
余話
①チョッキを送ろう!
意気に燃えて大陸を目指した青少年義勇軍を励ます為「産繭(さんけん)報国運動」が進められた。野桑を利用して小学生がカイコを飼い、酷寒の満州の義勇軍に真綿のチョッキを送ろうというもの。北海道は、全国のトップを切り、367校が参加、チョキ3万枚を目標とした。
②パーマ禁止
昭和13(1938)年5月1日付け「北海タイムス」に掲載された、パーマネントを軽佻浮薄と非難する投書に対して、その後反論が寄せられた。
翌14年に、国民精神総動員中央聯盟生活刷新に関する小委員会が、パーマネントほか「浮華的服装化粧」を禁止した。
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 以上が、第1回の講座内容ですが、満州事変から始まる長い戦争への道筋や当時の社会情勢が詳細に示されて大変理解しやすいものでした。特にひとつの政策が社会にどのような影響を与えるかが手に取るように分かるお話しでした。
 最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「大変わかりやすく歴史への興味が深まります。お話はもとより資料も理解しやすく有意義な講座でした。今後の講座も大変楽しみです」
「大変詳しく資料とも満足して居ります。森山講師の素晴らしい講座、いつも楽しみにして居ります」
「面白かった。興味深い内容で1時間半(が)あっという間でした。次回も楽しみにしています」
「戦後80年を機として今日のような講座があることは素晴らしいと思います。太平洋戦争によって日本が東南アジア地区に多大な被害を与えたことは改めて反省すべきことと思います。何故このような道を歩んできたかを学び、再びこのようなことにならないように考えるのが戦後80年を契機としての思いであります」
「近現代史(は)よく理解できず、判り易いお話を聞きたいとずっと思っていたところ、期間を狭めて詳しい説明、判りやすい言葉で、自分にも判る説明で本当に良い講座でした。この後のものも楽しみにしています」







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