3月1日(土)、主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」の第2回「戦争へ国家総動員」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山祐吾さん、受講者は46名でした。
最初に森山さんは、1894年の日清戦争から1945年の太平洋戦争終戦までに日本が関わった戦争を列記した年代表を示しながら「この51年間で日本は7つの戦争を起こしています。均すと7~8年に一度は戦争をしていたことになります。特に満州事変から太平洋戦争終戦までの15年は日本を大きく変えてしまったのです」と明治維新から太平洋戦争終戦までの50数年を概説された後、前回の講座内容をもう一度復習されました。

第1次世界大戦後の好況から一転して関東大震災や2度の恐慌により困窮した日本で、軍部は打開策として満州への進出を図った。謀略で満州へ侵出した(満州事変)後も軍は侵入を止めず、次第にソ連や中国との軋轢が増していった。
昭和12(1937)年、その後泥沼化する日中戦争が始まり太平洋戦争へと続いていった。
以下は本日の講座のあらましです。
1.赤紙一枚で戦場へ
◇日中戦争に突入
・昭和12(1937)年7月7日、日中戦争が始まり、日本は完全な戦時体制に入った。
・戦争突入と同時に内地から2個師団(当時の一個師団は1.5万から2万人)の派遣と近畿以西の全陸軍部隊除隊延長が決定された。
・戦争のエスカレートに伴い国内では「赤紙」(召集令状)が舞い込み始めた。
・ひと目で分かる濃いピンク色の紙きれには所轄連隊区司令部名で
臨時招集令状
××警察署管内
○○○○○
右臨時招集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ
此ノ令状ヲモッテ当該小事務所ニ届出スベシ
と書かれていた。
・令状の伝達コースは、師団⇒連隊区司令部⇒支庁⇒町村役場⇒本人へ。
・役場(市役所)の兵事主任から令状を託された赤ダスキがけの「急使」は、令状を渡す時にはたいてい「おめでとうございます。招集令状です―」と言った。
・出征の日、兵士は奉公袋に軍隊手帳、召集令状、預金通帳などを入れ、一方の袋には私物を包み、そのほとんどに千人針が入っていた。
・袋の結び目には、死線(4銭)越えるということで5銭玉が、苦戦(9銭)を免れるようにと10銭玉が縫い付けられていた。
・外では町内会の人々が「祝出征○○君」「武運長久」のノボリを持って待ち構え、駅のホームでは在郷軍人や割烹着姿の婦人会に混じって子供たちが日の丸を振った。
「勝ってくるぞと勇ましく」
「誓って国を出たからは」
・・・・・・・・・・・
と歌う「露営の歌」は
「東洋平和のためならば、なんの命が惜しかろう」と続く。
◇出征兵士と残された家族
・日本軍はこの年の12月に中国側首都南京を占領。
翌13(1938)年4月に徐州、10月に広東、武漢三鎮(鎮は都市のこと)を陥落させた。
・その後も「皇軍」の無敵進軍が新聞をにぎわした。
・大本営発表によると、開戦2年目の14(1939)年4月末で中国大陸の日本占拠地域は、156万2900余平方キロに及んだ。これは、樺太、沖縄、朝鮮、台湾を含む日本全土67万6000平方キロのほぼ2倍半という広大なものだった。
・ここまでの中国側の遺棄死体は93万6000余人、日本側も5万9900余人(いずれも陸軍部公表)という膨大な血が流れていた。
・占領地域と戦線の広がりに伴う戦死傷者の増大が、日本各地からの出征兵士の数を増やしていった。
・昭和14年現在で中国大陸に投入された日本軍は、23個師団(北海道第七師団を含む)計約85万人に達していた。
・戦争の渦中に投げ込まれたのは、予備、後備兵に限らず、前年から従軍志願制度が新設され、朝鮮人を戦列に立たせる陸軍特別志願兵令も実施された。
・同年5月から短期現役制度(1年半)を廃止、現役歩兵の在営期間を2年間とした。
・14年11月兵役法改正、徴兵の等級新設、後備役の動員体制を強化、大学軍事教練の必須化や青年学校の義務化も実施した。
・こうして、男性はあらゆる階層、組織の区別なく兵士として中国大陸へ駆り出された。
・出征した兵士は、負傷の帰国さえ恥とされ、まして捕虜になるなどもってのほかだった。
・一方、残された家族に対して、道庁は昭和13年7月「出征家族遺族心得」を配布した。
・出征家族遺族心得
君の御為聖戦の庭に立つ我家の誉と思ひ感謝をささげて尽くしませう。
朝な夕なに陰膳据ゑて無事にお役に立つよう神や仏に祈りませう。
国の援護はお上の御慈悲、これに頼らず精根出して戦する気で励みませう。
・女性たちには、「出征した兵士に心配をかけるな、兵士が思い残すことなく戦いに死んで行ける銃後の体勢を!」との覚悟が求められた。
・これに沿った美談(例えば、誕生した三つ子に市役所兵事課書記が、君国を守る、にちなんで君夫、国夫、守夫と名付けたなど)が新聞にことさら大きく取り上げられた。
・14(1939)年7月7日、平沼内閣は開戦2周年を迎えて物心両面にわたる国民の新たな覚悟を訴えた後「逾々(いよいよ)一億一心、堅忍不抜、所期の目的貫徹に邁進し、以て天壌無窮の幸運を扶翼奉らんことを期す」と結んだ。
・国民は誰しもこの戦争が大勝利に終わるものと信じていた。
◇平沼内閣の総辞職
・8月18日、平沼内閣が総辞職した。軍事同盟を結ぼうとしていたドイツが、突然独ソ不可侵条約を結んだことが原因。日本は、ソ連国境のノモハンでソ連と交戦中で、徹底的なダメージを受けていた。
・平沼内閣退陣後、毎月一日が「興亜奉公日」と定められた。国民みんなが戦地の出征兵士の労苦をしのび、銃後の体勢を一層固めようという狙いだった。護国神社参拝、慰問文書き、一日禁酒禁煙、日の丸弁当持参、宴会廃止、資源回収、貯蓄報国などモットーやスオーガンのオンパレードだった。
2.深刻な物資不足
◇配給生活の始まり
・新聞、ラジオは連日「皇軍」大勝利を伝えていたが、2年目、3年目になっても戦争は一向に終わらず、果てしなく続いていった。
・軍需産業が活況を呈する反面、平和産業の生産力は急カーブで下降線を辿り、統制の内容は強まる一方だった。
・一方、物価の上昇は天井知らずで、放置すれば国民の不満を膨張させ、戦時下の挙国一致体制にヒビが入りかねない情勢となった。
・昭和14(1939)年9月19日、政府はあらゆる物価を前日18日の時点にとどめる「九・一八停止令」を閣議決定した。
・物価停止令が実施されたほぼ1年後の道内7市の生活必需品の価格調査(道庁経済部)によると、戦争が始まった昭和12年7月を100とした小売り56品目の価格は175。卸売79品目の指数は166でどちらも異常な高騰ぶりだった。
・その最大の原因は、膨大な軍事費をまかなうために政府が乱発した赤字公債によるもので、軍需インフレがもたらした物価急騰の前には停止令の効果は薄かった。
・さらに、徴兵で労働力が払底して賃金が上昇。物価統制令と併せて賃金も抑えるため、賃金臨時措置法を施行、翌15年10月には賃金統制令として強化された。
・こうしてインフレによる物価高騰と賃金統制によって、家計は火の車となった。
・そこで政府は、少ない物資を公平に分配する最後の手段として、「切符制」を実施した。
・6大都市は6月から、北海道は7月から実施された。
・対象品目は、砂糖、マッチ、米、木炭、石炭など。
・翌16年にはさらに酒、菓子、ロウソク、食用油、食酢などが追加された。
・17年には、みそ、しょうゆ、衣料品が加わり、毎日の生活は、切符なしでは暮らしていけなくなった。
・切符制を裏からみれば、それだけ物資の不足が深刻な事態になっていたことを示していた。
◇殿様商売とヤミ取引の横行
・「節約」はますます厳しくなった。
・良質な石炭は産業用や輸送用に向けられ、これまで廃棄処分されていたような石炭が回された。酒も水っぽくなった。
・こうした中で、昭和15(1940)年10月10日の北海タイムスは「統制は商人を増長させ・・・、米、みそ、砂糖などの買い入れには主婦連は相当腹の虫を殺しているらしい」と書いている。
・道庁の指定業者の看板獲得をめぐって商人同士の熾烈な競争が起きた。
・配給に付き物のヤミ取引も半ば公然と行われ、ヤミ取引の横行で、卸、小売りとも20割は上がっていたといわれる。
・道庁経済部保安課は、120人の陣容で本格的な取り締まりを行い、15年だけでも違反件数6万3000件に達した。
・大衆を指導すべき立場の公職者、各種団体理事者がその立場を悪用するケースも多く、検挙者の中には、道会議員、市町村会議員をはじめ警防団員、物価委員などもいて市民の憤慨を招いた。
◇隣組の目が怖い
・経済警察運用の適正、円滑を期すため、北海道庁経済警察協議会が発足、次いで道内各警察署単位で警察協議会が発足した。
・このピラミッド型組織が統制の徹底と監視の役割を担ったが、これはいわば取り締まりのタテの組織で、これにヨコの仕組みを作ることで体制が完成した。
・ヨコの組織とは、昭和15(1940)年9月に内務省訓令で法的根拠を与えられた町内会、部落会、その下部組織としての隣保班(隣組)である。
・この組織の狙いは
①隣保団結の精神に基づき町内住民を以て結合し②道徳的錬成と精神的団結を図る③国策を国民に透徹せしめ④統制経済の運用と国民生活の安定上必要なる組織、であった。
・タテの機関を通じて流される規約遵守を、ヨコの組織は精神的側面から監視する役割を持っていた。
・特に銃後の守りを精神運動で固めようとする傾向が強まるにつれ、後者の果たす役割が重視された。実際、上からの取締りより、隣組の「ぜいたくはやめましょう」の一言の方が効果的であった。
◇余話・道産軍馬
・広大な中国大陸での戦闘には、軍馬は貴重な戦力。活躍したのが、日本人の体格に合って使役しやすくスタミナもある「日本釧路種」と呼ばれた道産馬である。
・この種の実用的な小型ばん馬の創出は、明治27~28年頃から釧路の神八三郎らによって手掛けられていたが、本格的な改良は大正8(1919)年。その後、神を中心とする釧路畜産組合が独自の方針で改良を重ね、昭和7(1932)年に初めてこの品種を固定し、日本釧路種と命名した。
・神は、旧北海タイムス社が「紀元二千六百年」を記念して設定した文化賞の第1回受章者である。授章理由を、北海タイムス社は「日本釧路種は大陸にあって縦横に活躍し軍の要求を満たした」としているように、文化賞も時局から離れて選定することはできなかった。
3.綴方連盟事件
◇ゾルゲ事件起こる
・昭和16(1941)年10月18日、ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙特派員、リヒャルト・ゾルゲがスパイ容疑で逮捕された。
・有能な記者手腕とナチ党員としての経歴を買われ、オットー駐日ドイツ大使の情報顧問を務めていたゾルゲは、実はソビエト赤軍第四本部直属の諜報機関員だった。
・それに先立つ18日には、ゾルゲの有力な協力者として元朝日新聞記者尾崎秀美(ほずみ)が逮捕されていた。
・この事件での検挙者は35名。うちゾルゲと尾崎は昭和19年11月7日、東京・巣鴨拘置所で死刑を執行された。奇しくもこの日は大正6(1917)年11月7日のロシア革命記念日だった。
◇綴方連盟事件
・北海道綴方教育連盟は、東北の国語教育連盟に刺激され、1年後の昭和10(1935)年に設立された。
・昭和15年春、山形県下の小学教員の綴方指導内容が左翼的だとして村山俊太郎と国分市太郎が検挙された。取調べの結果、共産主義信奉者の事実を自供(?)したという報告が内務省に入った。
・内務省は急遽同様のケースの摘発を全国に指令した。
・治安当局は「赤い教員」の取締まりを強化、特に北海道へは保安課員を派遣し、具体的な指示を与えた。
・検挙された山形県下の教員2人は、元北海道国語教育連盟のメンバーだったため、イモズル式に同連盟員が検挙された。これは、北方性綴方連盟事件と呼ばれる。
・警察側では綴方連盟をコミンテルンの指導による人民戦線運動の一環と決め込んでおり、被疑者がいくら否認しても通じることはなかった。
・結局、坂本亀松(釧路・東栄小)ら12人が公判に付された。
・治安維持法違反として公判に提出された資料の中には、資料と呼べないほどのものもあった。例えば、小学校1年生の児童が寝小便をして母親の叱られたことを書いた作文の指導に対して、非常時に子供に寝小便の話を書かせ、しかもそれを褒めるなどは、何かのたくらみがあったに違いない、とされた。
・昭和18(1943)年6月30日の判決公判では、全員有罪(執行猶予付き)となった。
・2年の拘置生活を余儀なくされていた被告たちはこれ以上の拘置を避けるため上訴権を放棄して、連盟事件は一応幕を閉じた。
・拘置所を出ても「赤い教師」のレッテルはそのままで、本人、家族とも周囲からの冷たい眼差しに身をすくめていなければならなかった。
◇忠心愛国の教育強化
・こうして教育界を浄化した上で、太平洋戦争が始まる8か月前の昭和16(1941)年4月1日、教育の完全な画一化を図る目的で、小学校は「国民学校」と改称された。
・国民学校は、「立派な国民になるための道場」となり、北海道60万人の児童たちは「天皇陛下への忠誠心」と戦争に協力する姿勢を徹底的にたたき込まれた。
・例えば、こんな歌を何の疑問もなく声高らかに歌う事のできる児童をつくるためだった。
皇御国(すめらみくに)に生まれ来た
感謝に燃えて一心に
学ぶ国民学校の
児童だ我ら朗らかに
輝く歴史うけついで
共に進まう民の道
・学校の正門近くに建てられ、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語が納められた泰安殿には、「気を付け」の姿勢で最敬礼しなければならなかった。職員室から教員が常に監視し、頭の下げ方が少しでも足りないだけでも、往復ビンタや竹棒で殴られた。
・5年生になると、兵隊になるための軍事教練もあった。
・太平洋戦争が近づくにつれ、国定教科書の内容は、次第に超国家主義的・軍国主義的になり、最重要教科の修身(道徳)を中心に、国の考えを児童に刷り込むようになった。
・こうして国に素直に従う児童を育て、戦争に積極的に協力する国民を増やしていった。
・結果的にその手法は成功し、教育は戦争遂行の道具にされたのである。

本日の講座はここまででしたが、銃後の国民が否応なく戦争に協力させられたうえ生活では非常に困窮した事実が良く分かるお話でした。疑いなく戦争に従う児童をつくる教育についても考えさせられました。
最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「お人柄の表れる柔らかな話しぶりで、私達一般庶民の目線で戦争時の様子が語られ、テーマに沿った時代、歴史への理解が深まり、大変興味深く楽しく学んでいます。受講できる事に感謝しています」
「前回に続き解り易い説明は、本当によく理解できました。本日は、各項目(昭和恐慌、世界恐慌、国際連盟脱退など)の背景説明が実に判りやすい説明で理解できた。今の情勢からして一人でも多くの方に聞いてほしいと強く思う講座ですね」
「軍人の出征や空襲・B29等をこの目で見、記憶している最後の世代(S13年生)かと思います。幸い自分は戦後の民主主義の時代を平和に生きてこれました。叔父はノモハンで銃弾を3発も受け、奇跡の生還が出来ましたが、年数が何か月か不足で、軍人恩給は生涯貰えずに終わりました。軍人恩給の受給資格とか金額も知りたいです。他に戦争のトラウマとして(PTSD?)、多くの兵士が精神に異常をきたし自殺したり処刑されたり、戦後は『戦争バカ』と呼ばれて町を徘徊しているのを見ました。日本には、これらの人達のデータがあるのでしょうか?」
「講座の始まりに語られた『人間と人間の心の暖かさ』、また前回の亀井勝一郎の『学びて己の無学を知る、これを学びという・・』の言葉に森山講師の思いを感じました。『教育』は非常に重要だと思います。日本国民が無批判に戦争に突入し、戦争に積極的に協力するようになったのは、時の政府が進めた『教育』にあったと思う」
「資料の文章は、大変わかりやすいので、とても参考になります。後方についている写真についても若干の解説がいただければと思います」
「日中戦争の始まりからその詳細を分かりやすくお話いただき当時の状況をよく理解できました」