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主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」第3回「太平洋戦争勃発と戦力増強」

2025/03/12

 3月8日(土)主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」の第3回「太平洋戦争勃発と戦力増強」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山 祐吾さん、受講者は、42名でした。
 森山さんは、前回のいくつかの受講者のアンケートに応えてから、最初にホワイトボードに書いた太平洋戦争前のアメリカと日本の国力差について話をされました。
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両国の国力比(昭和16年、開戦の4カ月前の陸軍調査)は
鉄鋼  20:1
石油    100:1
石炭  10:1 
飛行機   5:1
船舶    2:1
労働力   5:1
となっていて総合力では10:1と圧倒的な差があった。調査した陸軍幹部はこのような差がある中、戦争をすべきではないと報告したが、取り上げられず左遷されてしまった。
「今日は、こういう国力差がある国とどうして戦争を始めてしまったのかも含めてお話していきたいと思っています」と森山さん。
1.昭和16(1941)年12月8日朝の臨時ニュース
「大本営陸海軍部発表、十二月八日午前六時。帝国陸海軍は今八日未明太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」(午前7時放送)
・この日、午前3時19分、ハワイ時間で7日7時49分、日本海軍機による真珠湾攻撃の火ぶたが切られた。この対米英戦はほとんどの国民に、「来るべき時が来た」と受け止められた。
・8日の北海タイムスの大きな見出しを付けた夕刊記事。
「米英の横暴断固粉砕
  帝国遂に干戈を執る
   宣戦布告の大詔渙発」
 「帝国政府は、光輝ある三千年の歴史を有する帝国の権威と自存を擁護すべく・・永年の隠忍を破って米英支配打倒の火蓋を切るに至り八日午前十一時四十五分、米英に対し宣戦布告の大詔が渙発された・・」
・さらに記事は、ここに至るまでの事情も述べている。
「それまで国民の知らされていた支那事変(日中戦争)は、東洋平和のためどうしても戦わなければならぬ戦争だったが、聖戦の使命を理解せぬ米英は、中国の蒋政権を後押しするだけでなく、日本に対して輸出の制限、禁止を次々と強化してくる。撃つべきはむしろ米英ではないか」と。
・1回目のお話にあったように、それまで敵対していた蒋介石の国民党(米英が後盾)と毛沢東の共産党(ソ連が後押し)が一時停戦し、両党が「一致抗日」の旗印のもとに、米・英・ソ連から物資援助を受けて、日本に徹底抗戦した。
・米・英・中国・オランダ(ABCDライン)は、日本への物資供給を止める包囲網を形成した。
・日米両国は、この年の春から局面打開交渉を開始していたが、個々の争点で一時接近することがあっても、双方の主張を支える基盤が余りにかけ離れていた。
・昭和16(1941)年11月26日、アメリカのハル国務長官は、平和交渉打ち切りを告げるに近い、いわゆる「ハルノート」を、駐米大使野村吉次郎と特派大使来栖三郎の両大使に手渡した。
・「ハルノート」は、中国はじめ海外日本軍の全面撤回、満州国の放棄、日独伊三国同盟の死文化など、すべてを満州事変以前の線まで戻すよう要求したものであった。
・日本が呑むはずがないことを踏まえたアメリカの要求は、実質的な最後通告ともいえた。
・開戦の日の北部軍司令部(浜本中将)の呼びかけ
「北部軍管内に告ぐ。軍の防衛に依頼して管内民安んじて各々職域に邁進せんことを希望す」
・開戦数日後の道内反響を函館の例(新函館新聞)で見ると、①市内の洋画館はアメリカ映画を上映禁止してドイツ映画に切り替え②世界地図が2日で売り切れ③ラジオの売れゆきが激増(ラジオ店14軒で4,500台)
・安んじてと言われても国民にとって戦況が気になるのは当然の事だった。
◇道議会の紛糾吹っ飛ぶ
・道議会は、昭和17年度北海道地方費予算審議中で、興農公社への出資金を巡り紛糾していたが、12月8日は第15代戸塚長官不在の為「国難突破決議」で終え、10日から再開した予算審議も一切当局を信頼するとして、戦時色の濃い予算が3952万円余でスピード決着した。
◇朝鮮人労務者の人買い
・昭和17年度北海道地方費予算の中には、9万6800円の労力調整施設費があった。これは、朝鮮など外地からの労務者確保を主目的に計上されたもの。
・勃発から5年目で泥沼化した日中戦争は日本軍の出血を増加させた上に、対米英戦を予測した軍需生産が増強され、北海道はじめ日本内地の人出不足はかなり深刻な状況になっていた。
・労力補給源と目されたのが、明治43(1910)年に韓国を併合した朝鮮半島。
・日中戦争がはじまった昭和12(1937)年1月現在の道内の朝鮮人は約1万1000人、翌年もほぼ同じ、ところが14年7月、朝鮮からの労務者集団移入が始まってからは急カーブで増加し、昭和16(1941)年1月現在で3万8000人になった。
・それでも順調に労務者が集まったとはいえず、道内各企業の朝鮮人労働者需要に対する充足度は、14年の85%が15年には60%に落ちた。
・道庁は、その理由として①従業員中の朝鮮人の比率が高まって、雇い入れを手控えるようになった②朝鮮現地の労務者補給源が枯渇し始めたなど数点をあげているが、労力調整施設費は、それを打開するためであった。
・16年の3万8000人以降は、17年4万8000人、18年6万2000人と3年間で2万4000人の増加となっている。
・枯渇しているはずの朝鮮からどうしてこれだけの成果を上げたのか不思議だが、鎌田沢一郎著「朝鮮新話」によると強制的に集められ、兎狩りと呼ばれた。
◇炭鉱で強制労働
・集められた労務者の大半は、炭鉱、金属鉱山へ送り込まれた。
・一応2年間の契約期間だったが、「北炭七十年史」によると、17年12月の再契約応募者は「99%という驚異的な数字」で、「できうる限りの手段を尽くした結果」とはいうものの、言い換えれば自発的な意思の結果の99%ではない、ということである。
2.企業統合、戦力増強へ業界の強制統合
◇政府による各業界の戦時統合命令
・政府による各業界の戦時統合命令には誰も抵抗できなかった。
・昭和17(1942)年11月11日、新聞11社が統合され「北海道新聞」として設立登記。
この時から新聞は「自由競争」「権力からの自由」という生命を失い、御用新聞となってしまった。
・4月1日、道内電力会社の発電・送電部門を統合した北海道配電会社が発足。
・政府は、重要なエネルギー産業である電力事業を国家管理下に置き、国家総動員審議会で決定された生産力拡張計画、あるいは物資、電力動員計画などに基づき電力を重点供給していったが、重点部門はもちろん軍需関連産業だった。
・一方、電力使用の合理化が叫ばれ、消費規制が一層強化された。
・また、北海道農事試験場、北海道庁種畜場、同種羊場が合体、北海道農業試験所となった。
・6月に入ると大日本婦人会札幌支部の結成を皮切りに、同婦人会支部が全道各地につくられた。20歳以上の全婦人が否応なく会員にされ、婦人を戦争遂行に総動員する体制がつくられた。
・さらに北海道翼賛芸術連盟、北海道戦力増強協力会、産業報国会、海運報国会・・など、それまで関係各省がバラバラに指導してきた国民組織、国民運動がすべて大政翼賛会の指揮下に置かれた。
・翼賛会総裁・東郷首相の号令一下、中央、地方を通じて進められた統制、統合による戦時体制強化が戦力増強一本に向けられた。
※お寺の鐘や半鐘、家庭の鍋、釜などが徴収され、狸小路の鈴蘭灯も撤去された。
◇商店街は廃業が続出
・政府は17(1942)年5月、企業整備令を公布して企業全般にわたる整理に着手。整備要綱に基づき小売業についても整理が進められた。
・配給物資などを扱うごく少数だけ残し、あとは自主的に転廃業させ、炭鉱、軍需工場などの労務者に仕立てようとした。
・道内では17年秋から翌年8月までに小売業3万人のうち8000人が整理された。
・この頃には、生活物資のほとんどが配給制となり、自由に買えたのは、薬、書籍、荒物、下駄などわずかな物に限られた。
・配給物資を扱う店も売る日はごく限られていた。
・狸小路では、かって200余軒あった商店のうち終戦時まで開業していた店がわずか60軒という状況まで追い込まれた。
◇攻勢から守勢に転じた皇軍
・物資不足で悩まされる中、時に例外もあった。
○○陥落記念日の酒の特売。しかし、これもあまりに少ない量だった。
・子供たちには「南方の成果」としてゴムまりが配給(全国で25万7000ダース)され、同時にゴム底地下タビ若干が特配されたが、国民に素直に喜ばれなかったことは、「まりをつくるゴムで幼児のゴム靴ができないものでしょうか云々」という一農婦の投書を見ても分かる。
・「欲しがりません。勝つまでは」「足らん足らん工夫が足らん」などの名文句が幅を利かせていた当時、積る不満や苦痛を強く表わすことは許されなかった。
・国民が常に念頭に置かなければいけないのは、「戦線の兵士の苦労」だった。
・戦線は、開戦以来半年、「無敵皇軍の快進撃」で大きく広がっていた。
・17年5月までには、東はギルバート諸島のマキン、タラワ島まで、西はビルマ、南はスマトラ、ジャワ、ニューギニア北岸からガダルカナル島まで、北は6月に占領したアリューシャン列島のアッツ、キスカ両島まで日の丸の旗が翻った。
・しかし、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦の勝利で勢いを得た連合軍は、8月7日ガダルカナル島に上陸し、本格的な反攻を開始した。
・政府は、前線の日本軍が攻勢から守勢に追い込まれたことを隠す一方で「米英撃滅」をなお声高らかに叫んだ。
・そうした中で、国民生活の破壊がさらに進んでいった。
◇余話
■産めよ増やせよ
・戦争は人と物質の消耗戦。戦力維持増強のため、政府はなによりも「人間増産」にも力を入れなければならなかった。
・昭和16(1941)年1月、近衛内閣は内地人口約7200万人を、昭和35年までには1億人にしようと計画。
・そのために必要とされたのは、晩婚の弊風を改め、10年以内に国内の結婚平均年齢を男25歳、女21歳とし、1カップルが最低5子を作ることだった。
・こうして「産めよ増やせよ」という呼びかけが始まった。
・そのため、㋑国の貸付制度㋺適齢の独身者や子供のいない夫婦から税金をとり、これを多子家庭に扶助金として交付する独身無子税制度㋩公営結婚紹介所、などの計画をつくった。㋑㋺は実現されなかったが、㋩は道内でもたくさんできた。
・太平洋戦争突入後も毎年続いたのが、政府による優良多子家庭(10人以上)の表彰。昭和15年から始まったが、同年全国で1万622世帯が表彰された。16年度は、2145世帯。この年全国一だったのが、枝幸村の山田代助(53)多嘉野(44)夫婦で男10人、女5人の超子宝持ちだった。
・人口増加奨励策としては、この他に妊産婦への衣料切符、食料の増配や「応召兵士の一時帰郷」などもあった。
3.アッツ島、悲劇の玉砕
◇劣勢に立たされた山崎守備隊
・昭和17(1942)年6月、日本軍はアリューシャン列島のアメリカ領アッツ、キスカ両島を攻略した。
・米軍指揮官キンケイド海軍少将率いる1万1000人と日本軍アッツ島守備隊長・山崎保代大佐率いる2576人は、昭和18年5月12日から29日までの17日間にわたって激戦した。
・上陸を開始した圧倒的な兵力、火力を持つアメリカ軍に押し込められた日本軍は救援要請をするも救援部隊はアメリカ艦隊と遭遇して引き返してしまった。
・孤立無援の守備隊は、投降を選ばず、「これにて無線機を破壊処分す」との連絡を最後に、玉砕した。
・日本軍の戦死者2527人(うち864人が北海道出身)で生存者は捕虜となった28人のみ。米軍は、戦死550人、負傷1140人、凍傷による戦闘不能者約1500人。
・昭和18(1943)年5月30日午後5時、大本営は「全員玉砕せるものと認む」と発表した。これは太平洋戦争開始以来、大本営が日本軍の敗北を認めた最初であり、皇軍の不敗を信じていた国民に大きな衝撃を与えた。
4.特攻、本土決戦へ
◇続々学徒出陣
・昭和18(1943)年10月「教育に関する戦時非常措置令」が出され、理工系を除く一般学生の徴兵猶予が停止された。
・札幌では、11月28日に学徒兵の出陣壮行式が開かれた。
・加えて徴兵年齢を19歳まで引き下げた(その後さらに引き下げられた)。
◇未婚女性は挺身隊
・大量の軍事動員の結果、「銃後」は深刻な労働力不足となった。
・兵役に服する男子に代わって女子が労働力として重視されるようになった。
・それまでの「女子勤労報国隊」は女学生を含めて再編されて「女子挺身隊」となった。
◇本土上陸に備えて猛訓練
・昭和19(1944)年7月7日、サイパン島が陥落。翌月4日の定例閣議は、「一億総武装」の方針を決定、翌年「国民義勇軍」を結成した。
◇本土上陸に備えて猛訓練
・日本軍のアッツ島守備隊の全滅、キスカ島からの撤退で防衛線は千島まで後退、アメリカ軍の包囲網は次第に北海道に近づいてきた。
・そこで大本営と札幌の第五方面司令部は、北海道を舞台とする「決戦作戦」を至急計画しなければならなかった。
・北海道決戦となれば、東部では国民抗戦などによる持久戦をとり、軍の全力を挙げて苫小牧平地(勇払原野)で決戦を遂行するという事態は必至と見られた。
・そのために、頼もしい限りと報じられた「竹槍訓練」は、昭和19(1944)年11月6日の「道民総決起」の頃から、職場や地域単位に在郷軍人の指導で盛んに行われるようになった。
・「モンペ穿き、あるいは事務服にゲートルを巻くなど服装はまちまちでも、刺突する喊声の逞しさ、雄々しさ・・」(昭和20年4月24日北海道新聞)
・「一億皆兵」のスローガンの下、法律では15歳から60歳の男子と17歳から40歳までの女子を招集して国民義勇軍を組織したが、青年、壮年の男子のほとんどは戦場に狩り出されていたので、女子は貴重な戦力だった。
・敗戦が濃厚となった昭和19年秋からは、これまでの「知らしむべからず、よらしむべし」の方針から「知らしめ、よらしめる」方向に大本営の方針が変わった。
 ここまでが本日のお話の概要ですが、森山さんは最後に、「始めにお話したように日本とアメリカの間に圧倒的な国力差がある中でどうして戦いを始めてしまったのか。結局最後は精神論に頼らざるを得ないままに突き進み、この戦争によって日本は300万人の犠牲を出したが、それ以上に東南アジア諸国の軍民2000万人に被害を与えてしまったのである」と結ばれました。
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 本日は、戦局を知らされないまま、極限にまで戦争協力を強いられた国民の苦難が良く分かるお話でした。
 最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「この度の講座は、これまでうまく整理できないできた物が実に判り易い資料や説明で前進することができた気がする。まだまだ不十分であり、引き続き配布頂いた資料を繰り返して読み、不詳なことは少しでも調べて、自分に納得できる理解に近づけたい。本当に整理するには、自分にも理解できるもの(が)必要だと思っていた・・ありがたい解説です」
「歴史を学ぶ事の意味を繰り返し教わったと思います。今、世界中で毎日おこっている戦争、侵略、避難民の様子等々に胸が苦しくなる思いでいます。平和、正義、人間力等々の言葉さえ揺らいでいる不安な時代と感じる日々です。前回紹介して頂いた森山先生の『開拓三話』心して読みました。怒り、悲しみで胸の痛みを感じます」
「知らないことがあまりに多いことに自分ながらの不勉強さを感じました。それも今までの日本の教育がそうした戦争の記憶を素通りしてきたからだと思います。それが益々強まっている現状の中でこうした講座は本当に貴重だといえます。何故戦後、日本はそうした戦争の教育を軽視してきたのでしょうか?」
「自身は戦後生まれで当時の事は書籍での知識しかないが今回は戦争の全体像を分かりやすく説明していただいたと思います」



 




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