2025/03/19
3月15日(土)、主催講座13「太平洋戦争に翻弄された道民史」の第4回「空爆・終戦・平和の願い」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山祐吾さん、受講者は、47名でした。
最初に「みなさん、おはようございます。みなさんのおはようは、いい声ですね。声が大きいことは、健康の証拠です。さらに、にこやかでありたいですね。笑うことはお金のかからない万能薬で、笑うと脳が活性化して良い働きをするそうです。人生、笑って過ごしましょう」と森山さん。
さらに「前回もたくさんのコメントをいただきました。ありがとうございます。私はみなさんの言葉に励まされて勉強を続ける意欲が湧くのです」と言って、前回のアンケートの質問に応えられました。しかも、参考になる資料も添えてのお答えですから、質問者にとって大変ありがたいことだったと思います。
以下は、本日のお話の概要です。
1.空爆による日本の被害
・昭和16(1941)年12月8日に始まった太平洋戦争は、終盤となった19年夏から一段と熾烈となり、アメリカは、6月と7月の2カ月で、サイパン、グアム、テニアン島を攻略。これを機に日本の敗戦は決定的となった。
・同時に起きたマリアナ海戦では、アメリカ軍は対空射撃やレーダーによって日本軍を圧倒し、マリアナ諸島を攻略。占領した島々は、19年10月までに対日空爆用に整備し、そこは「超空の要塞B29」の日本本土爆撃と原爆機の出撃基地となった。翌11月24日、サイパン基地を発した111機のB29は、東京市街地を集中的に空爆した。
・日本本土に対する本格的な空爆は、16年6月16日、アメリカ軍が中国の成都に建設した飛行場から発進したB29(約20機)による北九州攻撃から始まった。B29による東京の初空襲は、前述のとおり11月24日。東海地方に向かったものも合わせて年末まで7回行われた。
・翌20(1945)年になると空襲はさらに激化、延べ機数も2月末までに1100機となった。攻撃目標は、東京、名古屋、大阪、神戸などの工場地帯に集中した。ところがアメリカ軍は、3月10日から戦術を変え、無差別爆撃に転換した。この日の東京大空襲では、約2時間半の間、低空から人家の密集した中心部を目がけて1667トンの新型焼夷弾M74を投下した。逃げ場を失った市民は、一夜にして10万人以上が死亡、100万人以上が被災したといわれる。
・大量の焼夷弾を注ぐ無差別爆撃は、4月になると東京以外の大都市でも始まり、さらに7月以降は軍事的意味合いの薄い中小都市や農村にまで及んだ。
・沖縄が陥落した6月以降は、B29に加え、沖縄からのB24 、硫黄島からのP51戦闘機も参戦、地方都市に対しても焼夷弾を大量に投下した。さらに日本近海を横行する機動部隊からのグラマン戦闘機の攻撃や艦砲射撃が頻繁に行われるようになった。
・こうした爆撃は8月15日の敗戦の日まで続いたが、全国で150を超える都市に対して、投下爆弾、焼夷爆弾などの総量16万トン、死者33万人、負傷者43万人、被災人口970万人に及んだ。これに、広島、長崎の原爆被害者を含めると、この戦争による一般市民の死者は60万人以上となる。無差別攻撃を受けた98の都市のうち72は重要な軍事施設の無い都市だった。
・北海道では、79市町村が空襲や艦砲射撃の被害に遭い、1958人(菊地慶一さん調査)が死亡した。また、留萌、積丹、日高海域では、潜水艦による攻撃で多くの犠牲者が出た。
2.北海道空襲の被害状況
・7月、アメリカ第3艦隊高速空母部隊はフィリッピン中部レイテ湾より北上し、その一部の戦艦6、空母13、巡洋艦・駆逐艦13隻が、北海道南部から登別沖合へと展開。この時、すでに日本海軍は全滅、空軍力もほとんどなく、アメリカ軍の動きを捉えることができなかった。
・北海道空襲を行ったのは、グラマン・カーチス・ヴォートなどの艦載機。これはB29の基地サイパン、テニアンから北海道までは航続距離が届かないためで、この点が本州の空襲とは異なる。攻撃目標は、道内の航空機、飛行場、艦船および鉄道施設で、アメリカ軍はこれらの詳しい情報を6月末の偵察飛行ですでに把握していた。7月14日に空襲を受けたが、第5方面軍はこの動きを捉えることができず、いきなり攻撃を受けることになった。同日正午の北部軍管区司令部発表によると、来襲したのは、艦載機延べ約300機であった。
・当日の北海道は、雲で視界が悪く、ほとんどが本来の攻撃目標を捉えることができず、釧路や根室を除く地域では各機の判断で手当たり次第に攻撃した。艦載機は、機関銃、ロケット弾、爆弾を使い、飛行場、鉄道だけでなく、漁船、民家、病院までも無差別に攻撃した。
◇釧路市
・14日早朝から15日午後まで2日間にわたり空襲を受け、焼失倒壊家屋1618戸、死者183人、負傷者273人、被災者6211人の被害を出した。死者が多いのは、火災の拡大で煙による防空壕内での窒息死が多かったため。
◇根室町
・北海道と千島列島との連絡要地であり、北太平洋を防備する日本軍の前線補給基地でもあった。14日にタンカーや輸送船が次々と爆撃を受けた。翌15日は、根室沖30㎞付近の航空母艦から発進した艦載機延べ250機の集中攻撃を浴びた。午前5時から午後4時半まで、投下された爆弾は250㎏の大型を含め121発。
・空襲が終わると市街地は一面の焼け野原となり、3500戸の7割余りの2475戸が焼失倒壊して根室町は全滅に等しかった。死者は、陸上で199人、重軽傷192人、他に港内船舶の死者が170人であった。
◇青函連絡船
・7月14日、15日の両日にわたり、徹底的に狙い撃ちされた。14日だけで11隻が沈められ、逃げられず座礁したり、航行不能な損傷を受けた船もあり、大動脈の青函航路は壊滅状態となった。
・15日はただ1隻残った「第一青函丸」が撃沈させられた。アメリカ機は分散せず10機前後、時には20機で1隻ずつ狙い撃ちにした。連絡船の武装は13ミリ機銃が2丁のみ。弾薬も不足し、撃ち尽くした後は蛇行して逃げ回るだけだった。全体で1276名の乗組員、乗客、警戒隊員のうち、生存者793人、死者411人、行方不明72人だった。友軍機がやってきたのは、アメリカ機の空爆が終わった後で、それも練習機のようなものがたった1機だった。
・当時北海道の石炭は、京浜工業地帯の燃料を賄っており、青函ルートの壊滅は、日本が戦争を継続するための生産力の根源が絶たれてしまったことを意味し、日本の敗戦を決定づけた。
◇室蘭市
・室蘭市を攻撃したのは、4隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦を合わせた13隻、アメリカ軍は6月29日の偵察飛行ですでにこの地区の状況を把握していた。
・14日は、室蘭市内と港湾を銃撃、爆撃し、港内外で海防艦、汽船など14隻を撃沈、炎上させた。15日は、目標を変え、日本製鋼所、日本製鉄など軍事工場地帯を攻撃した。被害は、工場被害の他死者436人(道内最大)、重軽傷者49人、被災1941戸、被災人員8227人に上った。釧路と同様、防空壕内で多くの人が亡くなった。
◇札幌近郊
・札幌近郊では、丘珠飛行場や手稲区、小樽の在港船舶などが攻撃されたが、札幌、小樽の市街地の被害は少なかった。
・迂回点となった石狩町が30数機に銃爆撃された。15日午前に、石狩町花畔地区で牛馬が撃たれた。午後は、河口の本町・八幡地区に250キロ爆弾30発や小型爆弾が投下された。また、軽川の北日本石油精製所も機銃掃射を受け、3日にわたり炎上した。
・この時の北部軍管区司令部発表は、「各地の被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込み」と、いつも通りのものだった。司令部の集計した死者は796人と、根室、釧路2市だけを合わせた数字(805人)よりも少なく過小である。戦果の発表は、撃墜41機、撃破33機の74機と国民に目隠しをするものだったが、その後の調査ではアメリカ軍の損害は死者21人、失われた飛行機39機となっている。
・道内で空襲を受けた市町村は79で、主に太平洋沿岸であったが、日本海、オホーツク海側、また内陸部でも被害があった。檜山、宗谷管内だけが被害に遭わなかった。
・平成7(1995)年の調査では、死者1958人、負傷者970人、被害戸数6680戸、罹災者3万3千人で、本州の数字と比べると小さいが、たった2日間の被害であることを考えると、決して小さな数ではない。
・艦砲による青函連絡船、輸送船、軍艦などの死者・不明者などは、当時の混乱状況や軍事機密もあり正確な数字の把握は難しい。また強制連行されてきた中国人や朝鮮人の犠牲者もある。今後の調査で、さらに増えると思われる。
3.防空体制の立ち遅れと勝算の無い北海道決戦計画
・北海道、千島、樺太の防衛に当たる第五方面軍(司令官・樋口季一郎中将)は、次の戦場は本土にとどまらず、北海道も狙われると予想し、それを迎え撃つ体制固めを急いだ。「第五方面軍作戦準備要綱」の策定が出来上がったのは6月30日。この作戦では、アメリカ軍の進撃路を次の3つと予想した。
①択捉島または北海道東部の計根別付近を攻撃。後者なら標津か釧路に上陸
②一気に北海道を攻略する意図であれば、苫小牧に上陸して札幌に進む
③宗谷海峡から侵入なら、日本海を南下、同時に樺太も攻撃
・これと戦う主力は、第五方面指揮下の、師団5、独立混成旅団2。このほか津軽、宗谷の要塞部隊、室蘭と根室の防衛隊、旭川管区部隊に過ぎず、北海道、樺太、千島の広大な地域を守るにはあまりにも手薄だった。航空機は第一飛行師団に属する83機が駐留していたが、これはいつ本州方面の作戦に転用されるか分からず、戦力として当てにできなかった。結局アメリカ軍がどこへ上陸しても、先ず水際作戦で敵兵力を抑え、道内の方面軍管下全部を苫小牧平地(勇払原野)に集積して決戦を挑むというものであった。
・この時期第五方面軍の指揮下にあったのは、装備が劣弱なわずか数万の兵力で、この程度の戦力では連合軍の攻撃を防御できるはずもなかった。
・一億総武装を唱える軍や政府が、国民に指導したのは、庭に防空壕を掘り、各戸に用水路、砂袋、バケツ、水たたき、はしごを用意することと、手送りバケツと竹やりの練習だった。それらがすべて無力であったことは、7月14日、15日のアメリカ軍無差別攻撃で思い知らされた。
4.木と紙で造った道産戦闘機
◇木製戦闘機の製作命令
・太平洋戦争終盤になると、航空機は生産する以上に攻撃で破壊される数が多くなり、戦争を続行するには航空機の増産が不可欠であった。南方海上の封鎖により、貴重な物資を入手しても日本への輸送は困難だった。陸軍航空本部は、昭和18年8月、木製戦闘機の製造を立案した。
・翌19年月、軍命令によって、既存の立川飛行機のほかに王子航空機(江別町)、呉羽航空機(富山県呉羽町)の2社が新たに設立された。王子、呉羽両社に与えられた命令は、当時立川飛行機が作っていた新鋭機「キ84」(疾風・はやて)をモデルにした木製機であったが、金属機製造の技術は役に立たず、木製機製造は誰も知らない未知の技術分野だった。
◇木製戦闘機製造のてん末
・王子航空機は、設立から3カ月の間に、工場要員として女子挺身隊員、学生、生徒を含め3000人を動員、定員100人の寮12棟を新築、他にも宿舎として札幌市内の料亭など十数軒を買収した。6時起床、7時から午後5時まで働いた。
・滑走路(幅50m、長さ2000m)、関連施設、防空壕など全用地は、江別兵村区有料財産地約372町歩を軍が買収した。19年中に機体の組み立てを終わり、何度もの荷重試験を経て、「キ106」が完成した。全長約9.9m、翼幅約11.2m。空冷2千馬力エンジンや計器類を除いた大部分が木製で、胴体、翼の骨組みは化学処理をした強化木を使用。骨組みに被せた合板は、高分子のミルクカゼインで張り合わせた。厚さ1㎜程度だが鋸の歯がたたないほど強度があった。脚は、従来の鍛鉄製ではなく鋳物製で、もろさはあっても、量産の至上命令に応えるには止むを得なかった。
・試験飛行のパイロットは、通算10年の飛行経験を持つ30歳のベテラン・大野嘉明。彼は、少しでも機体を軽くしようと搭乗前に身につけた落下傘を外して命がけで乗り込んだが、テストは無事成功した。テスト飛行はさらに続けられ、時速は最高560キロを記録した。
・王子航空機は、終戦までに二、三号機を完成、呉羽航空機は王子より10日ほど遅れて第一号機のテスト飛行を実施、最高記録605.6キロを達成している。
・両工場の木製機は、重量増加により「キ84」に比べて上昇性能が大幅に低く、離着陸、空戦性能なども劣った。結局「キ106」については、軍が実戦は無理だと判断し、練習機として使われることになった。王子の三機のために投入した製作費は、当時のお金で7千万円に達したといわれる。人出不足の中で、下請けを合わせて5200人の労力を集中し7千万円の巨費を費やした木製戦闘機製作は、結果的に無に帰してしまった。 8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下。9日には長崎にも投下した。8日にはソ連が対日宣戦を布告、翌9日未明満州国国境を越えた。日本は、14日にポツダム宣言の受諾を正式に決めた。同日、王子航空機の空知分工場が完成したが、運び込まれた工作機械は一度もスイッチを入れることなく、翌15日の正午を迎えた。工場横の石狩川のほとりに集められた工場関係者は、机上のラジオに耳を澄ませ「終戦の詔書」という敗戦を告げる天皇陛下の言葉を聞いた。
・平成6(1994)年、破棄されたはずの「キ106」の資料が当時の関係者の証言で見つかった。多くは、劣化して読めなかったが、翌年4月時点で3313人が工場に在籍していたことが分かった。
・全国の3工場で計10機が作られた幻の木製戦闘機は、特攻隊にも使われず、有為な青年たちが悲惨な目に遭わなかったことが不幸な時代のせめてもの幸いだった。
5.沖縄戦と特攻隊
・アメリカ軍は、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年、3月26日の慶良間(けらま)諸島に続いて、4月1日沖縄本島に上陸した。この地上戦で沖縄県民の4人に1人が犠牲となり、日米双方で20万人以上が死亡した。この戦いで散った特攻隊機は、4月から6月にかけて1000余機。あと2カ月で戦争が終わる中、特攻機はしゃにむに敵機を目ざして突入するしかなかった。
・日本軍の組織的戦闘は、6月23日の第32軍・牛島満司司令官の自決で終了したとされるが、その後も戦闘は続き、9月7日に降伏調印した。沖縄県は、毎年6月23日を「慰霊の日」とし、最後の激戦地となった沖縄本島南部・糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園で、沖縄全戦没者追悼式が行われている。
6.おわりに―過去の愚かな戦争史から学ぶ
森山さんの講座の最後にあたっての言葉。
・歴史を学ぶことの最も大切な意義は、「過去の愚かな戦争史から学び、二度と人を殺し、殺される戦争への道に踏み込まないことにある」と思う。古今東西を通じて、戦争は常に謀略と駆け引きに始まり、次第に狂気から破壊に変る。やがて敵国の侵略と残虐性を憎しみながら、自らも侵略と残虐を犯して平然となり、最後は国家間の大量殺戮に至るのが通例である。太平洋戦争において、日本は中国、朝鮮半島、インドネシア、ベトナム、フィリッピンなど東南アジア諸国のおよそ2千万人を超える軍民を犠牲にした(東京新聞2005年8月7日付)。
・しかし、戦後の歴代政府は、こうした戦争の悲惨な傷跡をいかにも厄介者扱いにして、強いて隠すように努めてきたかのように思える。その証拠に、国民の義務教育である小、中学校教科書に、太平洋戦争の開戦から敗戦までの正しい史実と貴重な教訓を掲載していない。これでは青少年に正確な知識と公正な理解の機会を与えていない、といっても過言ではないだろう。
・敗戦後80年を経過した現在、忌まわしい戦争の傷跡は風化していくばかりだ。だからこそ、戦争の真相と全貌を公正に展望し、冷静に批判・反省した上で、後世に語り継ぐ責任があると思う。ましてや戦争の真実が、政府と他の圧力団体から勝手に歪曲されたり捏造されたりして、時代を担うべき青少年に対して誤った認識を与えたりすることは、あってはならないことである。
・英国の世界的軍事評論家リデル・ハートが常に強調しているように「平和を欲するならば、戦争を理解すべきである」という警句は、決して欧米諸国に限らず、日本の場合にもピッタリ当てはまる。
・同様の認識を持ち、過去への沈黙を鋭く批判した人物がいる。リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元西ドイツ大統領だ。彼は、第二次世界大戦から40年が経過した1985(昭和60)年5月、「荒れ野の40年」と題する議会演説を行った。
・この中で、ナチスによる犯罪を「ドイツ人全員が負う責任だ」と強調し、さらに「罪があろうが無かろうが、若かろうが老いていようが、全国民が過去を受け入れなければならない・・、過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と、歴史を直視するよう国民を促した。この言葉は、1990(平成2)年7月の東西ドイツ統一後も、ドイツの戦争責任を語る際の規範となり、日本を含め世界に深い感銘を与えた。
・私たち日本人は、子孫代々のためにあらゆる努力を惜しまず、平和を守り抜く覚悟を持つためには「まず何よりも太平洋戦争の諸々の苦い教訓を風化させることなく、真実を冷静にかつ公平に直視し、そこから一人一人が自分の良心に従って行動する大切さを、改めて身につけていかなければならない」との思いを強くした。
追記
「国民を戦争という最悪の道へ巻き込んだ時の指導者。その指導者を選んだのは、他ならぬ我々国民である」ことを忘れてはなるまい。
以上が本日の講座内容ですが、おわりに、の言葉がすべてを語り尽くしています。その言葉をしっかり受け止めて、過去の出来事に真摯に向き合って行きたいと思います。
最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「4回の講座は、非常に心に響くお話でした。4回の資料を再読して現在の社会に結びつけ再考していきます」
「前回の質問に対して調べて資料を質問者に渡して説明された森山講師に対して敬意を表します。巨額の資金と多数の労力を使って木製飛行機を作るまでに追い込まれた当時の状況が分かった。森山講師のお教えを心に留めておきます」
「空襲警報発令の校内放送で低学年は即下校、約2㎞の道を泣く泣く帰ったことを思い出しました。石狩の郷土研の元会長さんが女学校から江別の工場へ女子挺身隊として紙をはる仕事をさせられたことを聞いています。つましく小さく生きるいく事も大事かと思います。他をおかすことなく」
「受講者の感想や疑問を聞けた事は有意義でした。学び合いになった時間だったと思います。森山先生の丁寧な応答(資料提供)に感動します。わかりやすい解説、資料、講座テーマに沿っての4回の講義は今までの自分の認識を確かに深めていただいたと感謝しています。また、先生のお話を聞く機会があることを希望します」
「学校の近代史の授業は、ほとんど明治維新くらいで終了し、太平洋戦争にまで至っていないのではないだろうか。これらのことが、今回の講座の内容が初耳のことが多い理由ではないだろうか。政治臭が強くなることを避けている気がする」
「歴史の勉強は小、中、高でも古代から始め、近代についてはどの教科書でも最後のページのほうにある、余り記述は少ないが・・。しかし、記述があっても学習過程においていつも時間がなく説明・学習の機会が少ないことは残念であった。今回はよく分かった。有難い機会であった。感謝します。資料を復習します」
「よくこんなにも詳細な資料を用意されたと、ただただ驚くばかりです。(できたら、参考として資料名を若干でも記載していただけるとよかった)特に北海道が2日間だけの空襲で大きな被害にあったことも知りませんでした。北海道に住んでいながらその事実さえ知らずに生きてきた事実。これが、日本の姿だと思いますが、大きな問題だと気づかされました」
「講師の対応に驚く。前回の講演での質問に対し詳細に調査し、当該者に還元する姿勢に・・、すばらしい対応に学ぶこと多かったです。参加者の意識も多分現状の世相を心配し、過去の事実を知りたいと改めて思う気持ち(が)伝わるような講演であったと受け止めました。この様な学習ができたことを、本当によかったです。ありがとうございました。"9ページ"全面的に同意します」